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清瀬一郎:東京裁判冒頭陳述

 前エントリーで紹介したあきらさんが、東京裁判で日本側弁護団副団長と東條英機元首相の主任弁護人を務めた清瀬一郎の東京裁判の冒頭陳述のうち、中国に関する第三部をテキスト化、5回に渡ってミクシィ日記で紹介している。戦時中から東京裁判の時代をリアルタイムで体験した世代のあきらさんが解説も書いていらっしゃるので、併せて紹介させて頂く。

註:Google Chromeはフリガナがサポートされてなく文字が欠落するため正確な内容で表示されません。IE、Firefox、Safari、Opera、Flock等のブラウザを推奨。

(以下あきら氏の日記より)

清瀬一郎:冒頭陳述第三部(全)

 清瀬一郎、戦後衆院議長も勤めたことでも知られていますが、彼の功績はあの東京裁判に於いての堂々の主張にあるかと思います。

 正式名称極東国際軍事裁判…これが如何に茶番であったかは今では広くしられておりますが、残念なことにわが国は未だこの茶番の呪縛から抜け出せてないのが現状であります。結局この「裁判」は日本軍の戦争犯罪を裁く場であって、連合国の戦争犯罪を問題にしているのではない、と云う裁判所の抑々の発想だった。殺し合いを本質とする戦争である以上、お互い様と云う発想は一切封殺された。通州事件の如きわが国民の犠牲者は省みられることなく、南京事件のような極めて疑わしい事案については、極めて一方的に神か仏に対してでもなければ有り得ないほどの人道主義的完璧性を要求したのが東京裁判の実態でした。

 清瀬は後にこう述懐する…「この裁判の最中に、毎日流されていった法廷記事なるものは、半分は嘘であった。司令部が新聞を指導し、いかにも日本が悪かったのだ、日本軍人は残虐行為ばかりしておったのだと、日本国内は無論のこと、世界の隅々にまで宣伝した。しかも我が方としては、これに対抗する手段は封ぜられていた。判決は下されても、判決批判は一切禁じられていた」

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通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会

お知らせ:

このエントリーは2007年7月16日に通州事件生存者の座談会を掲載したものですが、このエントリーを基に再構成と追加情報を加えて完全に書き直したものを2009年3月20日に新エントリーとして掲載し、こちらは跡地なので新エントリーの方をご欄下さい。なおこの旧エントリーはコメント欄の記録を残す目的として保存してある。






1937年7月30日、通州事件翌日の通州。南門から北門方面を見る。 (毎日新聞社「昭和史第8巻 日中戦争勃発」より/Wikipedia) [a]

 1937年(昭和12年)7月29日午前2時過ぎに北京の東の通州 (現在は北京市通州区) で起こった「通州事件」。これは7月7日の盧溝橋事件から日中が本格的戦闘状態に突入した8月13日の第二次上海事変の間に連続して起こった日本人襲撃斬殺事件で最大規模のものであり、当時通州にあった「冀東防共自治政府」の中国人保安隊が、通州に居住していた日本人と朝鮮人の軍人と民間人230人を残虐な方法で虐殺した事件です。

 7月25日の廊坊事件、26日の広安門事件に続いて起こったこの日本人大量虐殺事件は当時日本でも大々的に報道され、それによって対中世論が一気に悪化したと、当時を知る方はそのように話しています。

 その当時をリアルタイムでご存知のHNあきらさんは当ブログを始める以前から某所でご一緒させて頂いたり、ミクシィでもお世話になったりなど数年来お付き合いさせて頂いている方ですが、そのあきらさんが昭和12年10月号の月刊『話』に掲載の現地座談会を全て携帯電話入力でテキスト化して6回に渡ってミクシィ日記で紹介したのが先週の事で、これは貴重な歴史記録であるためブログエントリーとして取り上げる事にしました。

 これは18ページ分で分量がありますが、まだ死体も全部は片付けられていない事件4日後の8月2日、生々しい状況下での生存者による座談会であり、盧溝橋事件から3週間、そしてその11日後の第二次上海事変に始まる日中の8年にわたる泥沼戦争に入る直前の現地の混乱した状況下でのリアルタイムでの生の証言、そして日中が本格戦闘に入って間もない同年9月発売の月刊『話』に掲載されたこの座談会はまた、その当時のリアルタイムの臨場感を持って伝わって来るものがあります。


 この記事が掲載された月刊『話』は現在の週刊文春の前身。

以下あきら氏の日記より。


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歴史から消された広安門事件と廊坊事件


広安門(1957年取り壊し)(第1次大戦と20世紀)[a]
 昨年支那事変(日中戦争・日華事変)に関して調べ物をしていた際に英語版ウィキペディアで見つけた項目のうち、中国に都合の悪いものに限ってその後削除されているのに最近気が付いた。

 ウィキペディアは誰でも登録すればHNで編集が可能なものであるため時折編集合戦になっている事もあり、先の大戦に関して何としても「日本が一方的に中国を侵略した」と言う結論に導きたい英語版ウィキの中国人編集部隊がしらみ潰しに、中国側の加害行為を隠そうとすると言う傾向が目立つ。ウィキペディアは中立を是とするという建前の筈がその現状としては、日本語版に比べて同項目の英語版に用いられている資料が中国側に極度に偏っているものが圧倒的に多く、数にものを言わせたプロパガンダ交戦のようなフェアでない状況に見える。

 以下に挙げる二つの事件は、1937年7月7日の盧溝橋事件と8月13日の第二次上海事変の間に相次いで起こった数々の日本人襲撃殺害事件のごく一部であり、そう言った現代のイラク戦争顔負けのテロ事件の連続が、日中開戦の大きな理由と実際なっているにもかかわらず、編集合戦の結果極度に内容の乏しいものになったり、項目自体が消滅してしまったりなど、中国側の加害事件を矮小化しようとする傾向が非常に見られる。

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足跡帳 (連絡・雑談など)

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 なおこのエントリーは雑談所としての利用も可能なので、公開・非公開はあくまでも任意です。

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