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これらの記事は、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」(1937年12月18日刊) という本から『反日ワクチン』の小楠さんがテキスト起こしをしてブログに掲載されたものです。ここで重要なのは、大山事件が単なる暗殺事件ではなく、肉体破壊の限りを尽くした猟奇趣味的な殺人事件である点であり、それは通州事件とも同種のものです。
通州の日本人と朝鮮人居住者の212人が殺害され、日本世論を硬直させた7月29日の通州事件から12日後に起きたこの「大山中尉殺害事件」は、当日の夜に朝日特電によって日本で報じられています。ここでは当時中国主要都市各地に設けられていた外国人共同租界(外国人居住地区)内で、あたかも現代のイラクのテロリストを彷彿させるような中国兵の様子が描かれています。
註:ここでの引用文は戦前の記事のため、読み易さのために句読点やフリガナを追加、漢数字をアラビア数字に置き換え、現在一般的でない漢字表記や送り仮名表記を現代のスタイルにしているので(表記の変更で文章自体は同じ)、原文はリンク先の『反日ワクチン』さんのエントリーを参照下さい。
上海朝日特電 1937年8月9日
日本海軍特別陸戦隊 午後9時45分発表
陸戦隊第一中隊長海軍中尉・大山勇夫は、一等水兵・斎藤
現場を検視するに、頭部腹部には蜂の巣の
右のモニュメント路は共同租界のエキステンションであり、各国人の通行の自由のある所であるに拘らず、支那側は最近、上海の周囲に公然と土嚢・
なお同自動車の運転員一等水兵斎藤與蔵は、座席に多量の血痕を残せるままいずこにか拉致されたものの如くである。
帝国海軍陸戦隊は、厳重に支那側の不法に対する責任を問うと共に、厳正なる態度をもって徹底的解決を期せんとす。なお同中尉は軍服であったことを付記する。
形にして敵の侵入を防ぐもの。さかもぎ
![]() 共同租界内の老靶子路と北江西路の角の土嚢バリケード (1937.8.23) (Karl Kengelbacher) [B] |
![]() 虹橋路にてドイツ式スチールヘルメットをかぶった中国兵 (1937.10.31) (K. Kengelbacher) [C] |
![]() 虹橋路の土嚢要塞の中国兵 (1937.10.31) (K. Kengelbacher) [D] | |
![]() 共同租界内の老靶子路と北江西路の交差点のバリケード (1937.8.23) (K. Kengelbacher) [E] | |
![]() 虹橋路の土嚢の後ろの中国兵 (1937.10.31) (K. Kengelbacher) [F] |
現代でも中国側では「大山中尉と斎藤水兵は飛行場への侵入を企てたため殺害された」と歴史書などで説明しているようですが、日本の当時の特電では共同租界内で殺害されたと報じられています。
東中野修道氏の『南京虐殺の徹底検証』によれば、東亜同文会1938年出版の『新支那現勢要覧』に掲載された日本海軍上陸隊の捜査結果には「大山は後頭部の銃撃が致命傷で即死であり、死亡した後にもなお中国保安隊は更に死体にダメージを与え続け、頭部は二つに割れ、顔の半分は無くなり、内臓が飛び出し、心臓の位置には拳大の穴が空いていた」[>>1]
とあると言及されています。
事件翌日の8月10日付けの東日(現在の毎日新聞)の特電にもその様子が書かれています。
上海大毎・東日特電 1937年8月10日
大山中尉、斎藤水兵の死体引取りの一行は、沖野海軍武官、陸戦隊・山内参謀・重村大尉、総領事館・服部副総、工部局警察・上原副総監、憲兵隊長・塚本大尉など、支那側は、市政府秘書・張定栄以下、警察局員数名、これに内外の記者団10数名が従い、陸戦隊看護婦10名を乗せた救急車とともに、9日午後11時半、わが総領事館を出発、深夜の上海をまっしぐらに現場に急行した。・・・・・
大山中尉の死体は、虹橋路を虹橋飛行場に突き当って右に折れ、碑坊路(モニュメント路)を北行すること、約7、8町鉄条網を張りめぐらした飛行場の北端に近い道ばた、血の海の中に横たわっていた。案内役の支那巡警が差出すカンテラの光に死体の上を窺うと、立ち会いの支那側代表、張定栄市政府秘書、朱英保安隊参謀主任でさえ見るに
午後7時半、最初に死体確認のため現場を視察した、陸戦隊・重村大尉の談によれば、最初見た時は頭蓋骨粉砕、骨折や刺し傷はなかったというから、これらはいずれもその後死体に加えられた暴行であることが明らかで、その暴挙を敢えてするのは全く鬼畜の仕業だ。傍らに横たわる自動車を見れば一面の弾痕だ。車内は血に染まっている。
斎藤一等水兵の死体はそれより東方十数メートルの豆畑の中に哀れにも仰向けに放り出されてあった。斎藤水兵は後ろから身に数弾を受け運転台から転げ落ちながらもなお敵に応戦したらしいが、幾つもの残酷な傷があり、両名とも身ぐるみ全部掠奪されている。四方から一斉に撃たれた模様で、あたり一面は文字通り血の海である。午前四時過ぎようやく詳細な検証を終えた。
![]() 事件現場 (上海市閔行区人民政府) [G] |
事件後の日中合同実地調査 (朝日新聞「支那事変写真全集」<中>/Wikipedia) [H] |
殺害の際に徹底的な死体損壊と身ぐるみ略奪を行うというやり方も通州と全く同じ。
この事件はイギリス、フランスとアメリカの警察によって現場検証されていますが、その捜査結果は逆に大山中尉が被害者であったと、フランス人のクロード・ファレールによって証言されています。
『支那』1938年9月号
日本軍は驚嘆すべき冷静さを持していた。彼等は最も優秀なローマの警官の教える所を実行したのである。彼等は自動車にも死骸[*1]にも決して手を触れなかった。彼等は上海の支那人の市長及び英仏米の官憲を招致した。待つ間もなくその人々はやって来た。人々は事件の検証を行った。
支那兵が虐殺されて、百歩以上の距離の所に横たわっていた。しかし、その実地検証は、なんの異議もはさまれることなく、次のような事実を確認した。すなわち、この男は可愛そうにその同僚から自動拳銃によって、背後から射撃されたのであって、その後その日本人暗殺に対して![]() 上海で日本の第一上陸隊の大山勇夫中尉の遺体の発見現場の実地調査を行う日本軍関係者。碑坊路での事件は「ブレイキングポイント」であり上海地区での大規模軍事活動の前兆であったと日本側では考えられている (写真付属の解説の訳) (©Bettmann/CORBIS) [I] |
つまり、その死亡した中国兵は中国側によって殺害され、大山中尉殺害の理由作りのためにその死体がその場に持って来られたとの捜査結果に至っており、英仏米の警察は「大山が中国兵を殺害したために正当防衛のために射殺した」と言う中国側の主張を退けたとの事。[>>2]
ファレールの証言は、事件の3日後に国民新聞(東京新聞)と新愛知新聞(中日新聞)で発表された日本の海軍省副官の談話との内容の一致を見る事が出来ます。
国民新聞、新愛知新聞 1937年8月12日
海軍省では上海の大山事件に関し、12日午後0時30分副官談の形式をもって左の如く発表した。
【海軍省副官談】
大山大尉・斉藤兵曹虐殺事件、該地検証の結果は左の通りである。
8月10日正午より約八時間にわたり、我が方よりは田尻駐在武官、山内陸戦隊参謀、吉岡・福井両領事、東川憲兵少尉、支那側より、周市政府秘書長、趙淞滬警備司令部副官、上海工部局側よりクローチ特察長(英国人)ら立会い、実地検証を行ったが、
支那側は事件の直接関係者及び実見者[*1]を出さず、主として趙副官我が方の質問に対応し、その言うところ全然条理[*2]を失い、ひたすら真相を
なお、自動車の機械は完全であって、斎藤兵曹の死亡によって停車したものであることも明瞭となった。
*4. 所説:説いている事柄、*5. 更改:過去の決定を新たなものに変える事、*6. 反問:聞き返す事
![]() 車両内部 (Axis History Forum) [J1] |
それは前エントリーで扱った英語版や中国語版のウィキペディアでも中国側の資料のみを参考にしているため全くその通りの記述になっており、また、中国のサイトでは見たところ殆ど全てが「大山が中国側の軍事立入禁止区域である虹橋空港内の偵察を強攻しようとして警告を無視して進入を企てたため銃撃戦になり、中国兵を射殺したため大山と斉藤が射殺され、それが日本軍の大規模投入の口実にされた」等の記述となっており、現在も中国側の歴史書では中国側の正当防衛とされているようです。(具体例は追記を参照)
しかし大山中尉は武器を所持しておらず、斎藤水兵は車を運転していたため拳銃をホルスターに入れて肩にかけていたと海軍省が発表しており[>>4] 、そもそも中国側の主張が上記の日本側の報道や発表とは全く食い違っています。
徹底的な肉体損壊と身ぐるみ剥がす略奪行為
1937年7月7日の盧溝橋事件から8月13日開戦の第二次上海事変までの全体的な流れを見ていると、日中が停戦協定を結んでも、近藤二等兵殺害事件 (7/14)、廊坊事件 (7/25)、広安門事件 (7/26)、通州事件 (7/29) などの日本人襲撃殺害事件が同月に連発しており、そのうち近藤二等兵事件や通州事件においては凄まじい残虐方法で猟奇的な殺害がされています。
これらの事件だけでなく、中国の歴史的な処刑に関する認識を見る限りそこに見られるものは、このような肉体破壊系の殺害方法は、中国においては「処刑」の意味を持っており、また身ぐるみ剥がすという行為は死者を辱める事であり、また通州事件と同様に戦利品の略奪という盗賊行為は勝利の証であるという事などですが、肉体損壊に対する異様なこだわりというものは根本的に日本人に対する凄まじい憎悪がそこにあった事が伺えます。それは一説によると、1915年の『対華二十一か条要求』以来の国民党政府による反日教育を受けた世代が成人した頃に支那事変が起こったのだとも言われています。
![]() 上海虹橋空港 (1937年頃?) (貼吧新聞) [K] |
そして66年後・・・
朝日新聞 2003年11月28日
![]() (Guardian) [L] |
女子学生「日本人はすべて悪いのか」
中国人学生「そうだ」
女子学生「あなた方は昨晩の日本人の寸劇を実際に見たのか」
中国人学生「見ていない」
女子学生は駆けつけた中国人警備員に助けられた。顔から血が流れ、部屋のストーブやトイレは壊され散乱していた。 ・・・
午後11時ごろ、再び中国人の学生らが広場に集まってきた。他大学の学生とみられる集団が赤い旗を先頭に到着するたび拍手で迎えられた。まもなく、2度目の留学生宿舎乱入が始まった。
日本人の男子学生が殴られ、けがをした。腕時計と財布も盗まれた。部屋のトイレに隠れた女子学生はドアに穴を開けられ、顔を見られた。乱入者は「女でも殴ろうか、やめておこうか」と議論したあげく、部屋の窓ガラスを割った。・・・
2003年の10月に西安で起きた反日暴動はまだ記憶に新しいですが、現代の中国では虐殺こそ起こらなくてもやはりデジャブのような記述が朝日新聞の記事にあります。そして彼等は90年代にエスカレートした江沢民の反日教育で育った世代でもあります。
東京朝日新聞
昭和12年8月12日(木曜日)夕刊 1面
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kknanking. 『第二次上海事変メモ』. 南京大虐殺 論点と検証, 2006年05月14日 18:58:42. [魚拓]
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![]() 大山勇夫海軍中尉 (©Bettmann/CORBIS) [M] |
![]() 斎藤與蔵一等水兵 (Axis History Forum) [J2] |
Google Mapで見る大山事件現場
画面下を左右に通るのが虹橋路、画面を上下に一直線に通る空港内の道が碑坊路 (現在の名称は「綏寧路」)。東日特電の記事によれば、大山中尉の車は画面下端の右側から中央に向かって虹橋路を東側から来て、画面中央で突き当たり碑坊路を右折して北進、その先約800-900mで発見されたとの事で、現場は現在は虹橋空港敷地内であり、写真上では画面上部の飛行機が止まっているターミナルの辺りと見られる。
查看大图
追加資料:
中国側資料ではどのように書かれているか
ここからは前エントリーの続き。
前エントリーでは中国側の資料として、日本語版Wikipediaに書かれている『大公報』の8月10日の記事[>>3b]に言及しましたが、ウィキペディアに原文の記述やウェブ上のソース、又は写真ファイルなど現物の存在を確認出来る手段が提供されておらず、こういう形の二次情報だけでは心許ないので、中国の公的機関のウェブサイトの記述を見てみます。
中国で大山事件は「虹橋空港事件」の呼称で“抗日戦争”の開始点としてよく知られた事件のようで、大山中尉が悪玉として中国語サイトのウェブ小説の登場人物になっているのを幾つか目にした事があります。身を呈して侵略戦争の口実を作ったという悪玉中の悪玉の化け物ヒーローのような、何となくそんな扱い。
以下、上海市閔行区人民政府のウェブサイト掲載の軍事と歴史のページから。
![]() 虹橋空港事件 上海県誌 (上海市閔行区人民政府)
空港守兵 (上海保安総団第1団所属) が停車を命じたが止まらず遂に車への銃撃を開始した。日本軍車両は急速に右折して碑坊路 (当時は空港の東側、現在は空港内の道路) に入り、空港ゲートから北に100メートル余り離れた場所で撃破し、大山勇夫は車内で被弾して死亡、斉藤與蔵は車を捨てて逃げたが、その場で射殺された。 8月13日、日本の帝国主義は「八一三」淞滬戦闘 [第二次上海事変] を発動、大挙して上海に進撃して、全国は全面的な抗日戦争に入った。 |
この記事では「軍車」(軍用車両) と言いながら、記事付属の写真はどう見ても乗用車。こんな車で立入禁止軍施設の空港内を強行偵察に来て銃撃戦をやりに来ると一体誰が信じるのか・・・
以下は上海市の資料庫ウェブサイトから。
第五節 抗日戦争中の戦事 上海市地方誌弁公室
2人は車を折り返し、聞きつけて緊急出動した上海保安隊に途中で出会い、大山は発砲して保安隊兵士1名が死亡。保安隊は自衛のために銃で反撃をし、その場でこの日本軍の2名を射殺した。 事件発生後、上海市の喩鴻鈞市長は直ちに日本の岡本在上海領事に電話をしたが、岡本は日本海軍陸戦隊の将兵に当日は外出命令を受けた者はなく、外出者があったとしても虹橋空港に行くなどあり得ないと嘯いた。 当日夜10時、喩鴻鈞市長は日本総領事館に交渉に赴き、外交ルートでの解決と事件不拡大を要求した。日本側は同意を装い、中日双方代表を利用して事件現場の「調査」に行かせて、死体を持ち帰り、それにより戦争煽動を更に一歩進めた。 8月11日午後、岡本領事は喩鴻鈞市長と会談を行ったが態度は次第に強硬になった。虹橋事件の公表で日本全国は極めて震撼したため、日本政府は事件への中国の見解を「詰問」する必要があるとし、1) 保安隊の撤退、2) 防御工事を全て撤去の2つの要求を出した。 喩鴻鈞市長の返答は:中国政府はこの事件を極めて重視しており、「誠実で公正な態度で真相の徹底調査を行う。更に外交ルートに従って交渉を行い、円満解決を目指す」。双方の交渉は結果を出さず、日本軍はついにこの事件を口実に、8月13日に大規模軍事侵攻を発動し、虹橋空港事件は813淞滬戦争 [第二次上海事変] を誘発する事件となった。(以下略) 上海市地方誌弁公室. 区県誌〜区誌〜長寧区誌〜第28編「軍事」〜第三章「重要戦事」〜第五節「抗日戦争中境内戦事」. [魚拓]
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二つ目の記事は、ウィキペディア日本語版で言及されている1937年8月10日の『大公報』の記事[>>3c]と内容が非常に似通っているため、ウィキペディアでは原文やリンクが示されていないにせよ、この内容の一致から該当記事の存在と内容は正確と見られます。
この二つは上海市政府のウェブサイトなので、これが中国側の公式見解と考えていいでしょう。「事件不拡大、外交で解決」というのは日本側の方針[>>5] であったのに、いつの間にかそれが中国側の方針になり、戦争を起こしたくて仕方がない日本が大山事件を口実に大規模侵攻を開始したという、とにかく日本に関してとことん悪意に満ちた記述になっているのが、これが冷静で客観的な歴史ではない事など普通に考えれば分りそうな物。
それを「軍国主義」という一言で片付けてしまえば何でもそれで済んでしまうような「愛国無罪」の中華クオリティな国民には結局反日は蜜の味。
こんな事を教えられていれば反日になる訳だ・・・
支那事変関連エントリー:
・歴史から消された広安門事件と廊坊事件 (2007.7.11)
・清瀬一郎:東京裁判冒頭陳述 (2007.7.19)
・南京事件考 (2007.8.7)
・東條英機元首相 公的遺書 全文 (2007.8.14)
・英語・中国語版Wikipediaにおける大山事件と第二次上海事変の記述 (2007.8.18)
・中国の死刑写真とBBC『南京大虐殺』の酷似 (2007.10.28)
・上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (2007.11.4)
・日本人捕虜の残虐処刑写真に関する中国人の議論 (2007.11.9)
・猟奇的な大山中尉殺害事件 (2007.11.14)
・通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会 (2009.3.20)
脚註:
- ^ Higashinakano, Shudo. "The Nanking Massagre: Fact versus fiction". (Tokyo: Tendensha, 1998). English Edition by Sekai Shuppan (Tokyo: Sekai Shuppan, 2005), 10-11.
東中野修道. 『「南京虐殺」の徹底検証』 (展転社, 1998). 英語版:世界出版 (2005), 11.The Current Situation in China, published in 1938 by the Toa Dobunkai, carried a report of the results of an investigation conducted by a Japanese naval landing party. Apparently Oyama sustained fatal wounds from bullets that entered the back of his head, and died instantly. After his death, the Chinese Peace Preservation Corps inflicted further injuries: “His head was split in two, half of his face had been obliterated, and his intestines were protruding. There was a hole in his heart the size of a fist.
東亜同文会が1938年に出版した『新支那現勢要覧』には日本海軍陸戦隊の調査結果が掲載されている。大山は後頭部の銃撃が致命傷で即死である事は明らかでり、死亡した後にもなお中国保安隊は更に死体にダメージを与え続け、“頭部は二つに割れ、顔の半分は無くなり、内臓が飛び出し、心臓の位置には拳大の穴が空いていた”。 - ^ Higashinakano, Shudo. "The Nanking Massagre: Fact versus fiction". (Tokyo: Tendensha, 1998). English Edition by Sekai Shuppan (Tokyo: Sekai Shuppan, 2005), 10-11.
東中野修道. 『「南京虐殺」の徹底検証』 (展転社, 1998). 英語版:世界出版 (2005), 11.The Chinese soldier was shot not by Sublieutenant Oyama, but by another Chinese soldier, in the back. Every one of the investigators arrived at this conclusion ― there were no objections. Farrère’s account is consistent with Japanese records of the incident. The investigation discredited the Chinese claim that Oyama was shot in self-defense, after he had shot a Chinese soldier.
その中国兵は大山中尉に撃たれたのではなく他の中国兵から背後から撃たれている。捜査官の全てが至った結論は --- 異論は一つもなかった。ファレールの証言は日本側の記録と矛盾がない。大山が中国兵を撃ったため防衛のために応戦をしたとの中国側の主張は調査によって退けられた。 - ^ a b c 1937年8月10日の『大公報』では大山側が飛行場に進入しようとして先に発砲を行って銃撃戦となったと報道したとWikipediaに書かれているが、原文など『大公報』に関してはウェブ上のソースはなし。Wikipedia. 『第二次上海事変』〜中国側の報道.
『大公報』1937年8月10日号は次のように報道している。
8月9日午後5時半、日本海軍将兵2名が自動車に乗り虹橋飛行場に来て、場内に進入しようとした。飛行場の衛兵はこれを阻止しようとしたところ、日本軍側は発砲し始めた。衛兵は、日本軍とのトラブルを避けるように注意を受けていたので、これに反撃せずに退避していた。ところが、付近の保安隊が銃撃を聞きつけ出動した。これに対し、日本軍側がさらに発砲を行ったことで銃撃戦となり、保安隊員1名と日本人1名がその場で死亡し、日本人1名が重傷の後死亡した。 - ^ . ウィキには『戦史叢書 中国方面海軍作戦(1)』 309頁をソースとして以下の記述がある。戦史叢書のウェブ上のソースはなし。Wikipedia. 『第二次上海事変』〜日本側の報道.
8月10日に日中共同の公式調査が行われた。日本上海領事および駐在武官・上海特別陸戦隊参謀・上海市政府秘書長・警備部司令部副官・上海工部局局員(英国人)等が参加した。中国側の直接関係者(射撃を行った保安部隊)に関した調査は出来なかった。その結果次のことが判明した。
- 大山、斉藤の両名は機銃弾がその頭部を貫通したことが致命的であること、大山は全身に30発以上の銃弾が打ち込まれていたこと、その他の弾痕を含む外傷は中国側が苛虐的に加えたものであること
- 死亡した中国保安隊員の死亡は機銃弾によるもので背中から2発を打ち込まれて即死していたこと、及び当時大山は拳銃を携帯せず、斉藤も拳銃を肩に掛けながら陸戦隊自動車を運転していたことから中国人同士撃ちであることがはっきりした
- これらのことから中国側が主張した日本側から先に発砲した事実はなく、中国側が射撃を行い、両名の死体を侮辱する行為をおこなったことが明らかであること
- ^ . 鈴木正男. 『支那事変は日本の侵略戦争ではない』(展転社, 2002年10月). (引用:反日ワクチン. 『上海事変の勃発』, 2006年12月7日).
昭和十二年七月二十九日、天皇陛下は近衛首相を召され外交交渉による平和解決を熱望遊ばされた。...
日本側は少しでも戦線を拡大せずに収めたいという方針から兵力を最小限に止めて戦った。そのために四万人という未曾有の犠牲者を出した」.
写真:
- ^ 抗日戦争勝利六十周年. 『戦争中的日軍部隊』〜「1937年8月10日、日軍上海海軍特別陸戦隊因大山事件緊急調集」. 解放網. [魚拓]
- ^ Karl Kengelbacher. "Sandbag barricade at the corner of Range and North Kiangse Roads", Shanghai International Settlement (1937.8.23). (© Peter Kengelbacher Gerhardtstr.). Virtual Shanghai. "Corner Range-Road and North-Kiangse-Road is occupied by British troops. In the back the Pantheon-theater, which was defended for approx. 3 month by the Chinese." [魚拓]
- ^ ibid. "Chinese soldiers in Hongqiao", Shanghai. (1937.10.31). "Chinese troops in Hungjao-District: In a German steel helmet". [魚拓]
- ^ ibid. "Chinese soldier behind a sandbag blockhouse in Hongqiao ", Shanghai (1937.10.31). "Chinese troops in Hungjao-District: Behind sandsack barriers". [魚拓]
- ^ ibid. "Chinese soldier behind a sandbag blockhouse in Hongqiao", Shanghai International Settlement (1937.10.31). "Corner Range-Road and North-Kiangse-Road is occupied by British troops. In the back the Pantheon-theater, which was defended for approx. 3 month by the Chinese". [魚拓]
- ^ ibid. "Chinese soldier behind a sandbags in Hongqiao", Shanghai (1937.8.23). "Chinese troops in Hungjao-District: Behind sandsack barriers". [魚拓]
- ^ 上海県志. 『虹桥机场事件』. 上海市閔行区人民政府 [魚拓]
- ^ 大山事件、昭和12年8月9日。支那事変写真全集<中>(朝日新聞、昭和13年発行)Wikipedia. 『Ohyama incident.PNG』.
- ^ corbis. "Japanese Officers Looking Down at Land site". [魚拓].
corbis. 『現場を見下ろす日本軍関係者』.Original caption: Japanese officers are inspecting the spot where the body of Sub-Lieutenant Isao Oyama, Commander of the first Japanese landing party in Shanghai was found. Discovery of the body at a point along Monument Road, was regarded by Japanese as a "breaking point," and was a forerunner of the present large-scale operations in the Shanghai area.
写真付属解説:上海で日本の第一陸戦隊の大山勇夫中尉の遺体の発見現場の実地調査を行う日本軍関係者。碑坊路での事件は“ブレイキングポイント”であり上海地区での大規模軍事活動の前兆であったと日本側では考えられている。 - ^ 1 2 Peter H. "The car of death". Posted in "Oyama Incident 1937". Axis History Forum. [魚拓]
- ^ 貼吧新聞. 『上海虹橋機場』. Posted in 『中国人的血与火,75万国惨烈保衛大上海! 』, 2006年10月5日. [魚拓]
- ^ Watts, Jonathan. "Chinese students demonstrate against Japanese students who had performed a jokey sketch involving fake genitals". guardian.co.uk. [魚拓]
- ^ corbis. "Portrait of Lieutenant Isao Oyama Sitting". [魚拓]
corbis. 『座っている大山勇夫中尉の肖像写真』.Original caption: The late Sub-Lieutenant Isao Oyama, the handsome Commander of the First Japanese Landing Party in Shanghai, who was slain when the group was ambushed in their automobile on Monument Road, is shown here. The Japanese regarded the incident as a "breaking point" and opened large-scale operations in the Shanghai sector.
写真付属解説:晩年の大山勇夫中尉、この日本の上海第一上陸隊のハンサムな指揮官は碑坊路の車両で待ち伏せをしていたグループに殺害された。この事件は日本側では”ブレーキングポイント”と考えられ、上海地区での大規模軍事行動の開始となった。
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