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これらの記事は、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」(1937年12月18日刊) という本から『反日ワクチン』の小楠さんがテキスト起こしをしてブログに掲載されたものです。ここで重要なのは、大山事件が単なる暗殺事件ではなく、肉体破壊の限りを尽くした猟奇趣味的な殺人事件である点であり、それは通州事件とも同種のものです。
通州の日本人と朝鮮人居住者の212人が殺害され、日本世論を硬直させた7月29日の通州事件から12日後に起きたこの「大山中尉殺害事件」は、当日の夜に朝日特電によって日本で報じられています。ここでは当時中国主要都市各地に設けられていた外国人共同租界(外国人居住地区)内で、あたかも現代のイラクのテロリストを彷彿させるような中国兵の様子が描かれています。
陸戦隊第一中隊長海軍中尉・大山勇夫は、一等水兵・斎藤
現場を検視するに、頭部腹部には蜂の巣の
右のモニュメント路は共同租界のエキステンションであり、各国人の通行の自由のある所であるに拘らず、支那側は最近、上海の周囲に公然と土嚢・
なお同自動車の運転員一等水兵斎藤與蔵は、座席に多量の血痕を残せるままいずこにか拉致されたものの如くである。
帝国海軍陸戦隊は、厳重に支那側の不法に対する責任を問うと共に、厳正なる態度をもって徹底的解決を期せんとす。なお同中尉は軍服であったことを付記する。
![]() 共同租界内の老靶子路と北江西路の角の土嚢バリケード (1937.8.23) (Karl Kengelbacher) [B] |
![]() 虹橋路にてドイツ式スチールヘルメットをかぶった中国兵 (1937.10.31) (K. Kengelbacher) [C] |
![]() 虹橋路の土嚢要塞の中国兵 (1937.10.31) (K. Kengelbacher) [D] | |
![]() 共同租界内の老靶子路と北江西路の交差点のバリケード (1937.8.23) (K. Kengelbacher) [E] | |
![]() 虹橋路の土嚢の後ろの中国兵 (1937.10.31) (K. Kengelbacher) [F] |
現代でも中国側では「大山中尉と斎藤水兵は飛行場への侵入を企てたため殺害された」と歴史書などで説明しているようですが、日本の当時の特電では共同租界内で殺害されたと報じられています。
東中野修道氏の『南京虐殺の徹底検証』によれば、東亜同文会1938年出版の『新支那現勢要覧』に掲載された日本海軍上陸隊の捜査結果には「大山は後頭部の銃撃が致命傷で即死であり、死亡した後にもなお中国保安隊は更に死体にダメージを与え続け、頭部は二つに割れ、顔の半分は無くなり、内臓が飛び出し、心臓の位置には拳大の穴が空いていた」[1]とあると言及されています。
事件翌日の8月10日付けの東日(現在の毎日新聞)の特電にもその様子が書かれています。
大山中尉、斎藤水兵の死体引取りの一行は、沖野海軍武官、陸戦隊・山内参謀・重村大尉、総領事館・服部副総、工部局警察・上原副総監、憲兵隊長・塚本大尉など、支那側は、市政府秘書・張定栄以下、警察局員数名、これに内外の記者団10数名が従い、陸戦隊看護婦10名を乗せた救急車とともに、9日午後11時半、わが総領事館を出発、深夜の上海をまっしぐらに現場に急行した。・・・・・
大山中尉の死体は、虹橋路を虹橋飛行場に突き当って右に折れ、碑坊路(モニュメント路)を北行すること、約7、8町鉄条網を張りめぐらした飛行場の北端に近い道ばた、血の海の中に横たわっていた。案内役の支那巡警が差出すカンテラの光に死体の上を窺うと、立ち会いの支那側代表、張定栄市政府秘書、朱英保安隊参謀主任でさえ見るに
午後7時半、最初に死体確認のため現場を視察した、陸戦隊・重村大尉の談によれば、最初見た時は頭蓋骨粉砕、骨折や刺し傷はなかったというから、これらはいずれもその後死体に加えられた暴行であることが明らかで、その暴挙を敢えてするのは全く鬼畜の仕業だ。傍らに横たわる自動車を見れば一面の弾痕だ。車内は血に染まっている。
斎藤一等水兵の死体はそれより東方十数メートルの豆畑の中に哀れにも仰向けに放り出されてあった。斎藤水兵は後ろから身に数弾を受け運転台から転げ落ちながらもなお敵に応戦したらしいが、幾つもの残酷な傷があり、両名とも身ぐるみ全部掠奪されている。四方から一斉に撃たれた模様で、あたり一面は文字通り血の海である。午前四時過ぎようやく詳細な検証を終えた。
![]() 事件現場 (上海市閔行区人民政府) [G] |
事件後の日中合同実地調査 (朝日新聞「支那事変写真全集」<中>/Wikipedia) [H] |
殺害の際に徹底的な死体損壊と身ぐるみ略奪を行うというやり方も通州と全く同じ。
この事件はイギリス、フランスとアメリカの警察によって現場検証されていますが、その捜査結果は逆に大山中尉が被害者であったと、フランス人のクロード・ファレールによって証言されています。
日本軍は驚嘆すべき冷静さを持していた。彼等は最も優秀なローマの警官の教える所を実行したのである。彼等は自動車にも死骸[*1]にも決して手を触れなかった。彼等は上海の支那人の市長及び英仏米の官憲を招致した。待つ間もなくその人々はやって来た。人々は事件の検証を行った。
支那兵が虐殺されて、百歩以上の距離の所に横たわっていた。しかし、その実地検証は、なんの異議もはさまれることなく、次のような事実を確認した。すなわち、この男は可愛そうにその同僚から自動拳銃によって、背後から射撃されたのであって、その後その日本人暗殺に対して![]() 上海で日本の第一上陸隊の大山勇夫中尉の遺体の発見現場の実地調査を行う日本軍関係者。碑坊路での事件は「ブレイキングポイント」であり上海地区での大規模軍事活動の前兆であったと日本側では考えられている (写真付属の解説の訳) (©Bettmann/CORBIS) [I] |
つまり、その死亡した中国兵は中国側によって殺害され、大山中尉殺害の理由作りのためにその死体がその場に持って来られたとの捜査結果に至っており、英仏米の警察は「大山が中国兵を殺害したために正当防衛のために射殺した」と言う中国側の主張を退けたとの事。[2]
ファレールの証言は、事件の3日後に国民新聞(東京新聞)と新愛知新聞(中日新聞)で発表された日本の海軍省副官の談話との内容の一致を見る事が出来ます。
海軍省では上海の大山事件に関し、12日午後0時30分副官談の形式をもって左の如く発表した。
【海軍省副官談】
大山大尉・斉藤兵曹虐殺事件、該地検証の結果は左の通りである。
8月10日正午より約八時間にわたり、我が方よりは田尻駐在武官、山内陸戦隊参謀、吉岡・福井両領事、東川憲兵少尉、支那側より、周市政府秘書長、趙淞滬警備司令部副官、上海工部局側よりクローチ特察長(英国人)ら立会い、実地検証を行ったが、
支那側は事件の直接関係者及び実見者[*1]を出さず、主として趙副官我が方の質問に対応し、その言うところ全然条理[*2]を失い、ひたすら真相を
なお、自動車の機械は完全であって、斎藤兵曹の死亡によって停車したものであることも明瞭となった。
![]() 車両内部 (Axis History Forum) [J1] |
それは前エントリーで扱った英語版や中国語版のウィキペディアでも中国側の資料のみを参考にしているため全くその通りの記述になっており、また、中国のサイトでは見たところ殆ど全てが「大山が中国側の軍事立入禁止区域である虹橋空港内の偵察を強攻しようとして警告を無視して進入を企てたため銃撃戦になり、中国兵を射殺したため大山と斉藤が射殺され、それが日本軍の大規模投入の口実にされた」等の記述となっており、現在も中国側の歴史書では中国側の正当防衛とされているようです。(具体例は追記を参照)
しかし当時の1937年8月11日の『東京朝日新聞』では、大山中尉は武器を所持しておらず、斎藤水兵は拳銃を所持してはいたもののホルスターに入ったままと報道されており[4]、そもそも中国側の主張が上記の日本側の報道とは全く食い違っています。
1937年7月7日の盧溝橋事件から8月13日開戦の第二次上海事変までの全体的な流れを見ていると、日中が停戦協定を結んでも、近藤二等兵殺害事件 (7/14)、廊坊事件 (7/25)、広安門事件 (7/26)、通州事件 (7/29) などの日本人襲撃殺害事件が同月に連発しており、そのうち近藤二等兵事件や通州事件においては凄まじい残虐方法で猟奇的な殺害がされています。
これらの事件だけでなく、中国の歴史的な処刑に関する認識を見る限りそこに見られるものは、このような肉体破壊系の殺害方法は、中国においては「処刑」の意味を持っており、また身ぐるみ剥がすという行為は死者を辱める事であり、また通州事件と同様に戦利品の略奪という盗賊行為は勝利の証であるという事などですが、肉体損壊に対する異様なこだわりというものは根本的に日本人に対する凄まじい憎悪がそこにあった事が伺えます。それは一説によると、1915年の『対華二十一か条要求』以来の国民党政府による反日教育を受けた世代が成人した頃に支那事変が起こったのだとも言われています。
![]() 上海虹橋空港 (1937年頃?) (貼吧新聞) [K] |
そして66年後・・・
![]() (Guardian) [L] |
女子学生「日本人はすべて悪いのか」
中国人学生「そうだ」
女子学生「あなた方は昨晩の日本人の寸劇を実際に見たのか」
中国人学生「見ていない」
女子学生は駆けつけた中国人警備員に助けられた。顔から血が流れ、部屋のストーブやトイレは壊され散乱していた。 ・・・
午後11時ごろ、再び中国人の学生らが広場に集まってきた。他大学の学生とみられる集団が赤い旗を先頭に到着するたび拍手で迎えられた。まもなく、2度目の留学生宿舎乱入が始まった。
日本人の男子学生が殴られ、けがをした。腕時計と財布も盗まれた。部屋のトイレに隠れた女子学生はドアに穴を開けられ、顔を見られた。乱入者は「女でも殴ろうか、やめておこうか」と議論したあげく、部屋の窓ガラスを割った。・・・
2003年の10月に西安で起きた反日暴動はまだ記憶に新しいですが、現代の中国では虐殺こそ起こらなくてもやはりデジャブのような記述が朝日新聞の記事にあります。そして彼等は90年代にエスカレートした江沢民の反日教育で育った世代でもあります。
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kknanking. 『第二次上海事変メモ』. 南京大虐殺 論点と検証, 2006年05月14日 18:58:42. [魚拓]
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![]() 大山勇夫海軍中尉 (©Bettmann/CORBIS) [M] |
![]() 斎藤與蔵一等水兵 (Axis History Forum) [J2] |
Google Mapで見る大山事件現場
画面下を左右に通るのが虹橋路、画面を上下に一直線に通る空港内の道が碑坊路 (現在の名称は「綏寧路」)。ここからは前エントリーの続き。
前エントリーでは中国側の資料として、日本語版Wikipediaに書かれている『大公報』の8月10日の記事[3b]に言及しましたが、ウィキペディアに原文の記述やウェブ上のソース、又は写真ファイルなど現物の存在を確認出来る手段が提供されておらず、こういう形の二次情報だけでは心許ないので、中国の公的機関のウェブサイトの記述を見てみます。
中国で大山事件は「虹橋空港事件」の呼称で“抗日戦争”の開始点としてよく知られた事件のようで、大山中尉が悪玉として中国語サイトのウェブ小説の登場人物になっているのを幾つか目にした事があります。身を呈して侵略戦争の口実を作ったという悪玉中の悪玉の化け物ヒーローのような、何となくそんな扱い。
以下、上海市閔行区人民政府のウェブサイト掲載の軍事と歴史のページから。
![]() 虹橋空港事件 上海県誌 (上海市閔行区人民政府)
空港守兵 (上海保安総団第1団所属) が停車を命じたが止まらず遂に車への銃撃を開始した。日本軍車両は急速に右折して碑坊路 (当時は空港の東側、現在は空港内の道路) に入り、空港ゲートから北に100メートル余り離れた場所で撃破し、大山勇夫は車内で被弾して死亡、斉藤與蔵は車を捨てて逃げたが、その場で射殺された。 8月13日、日本の帝国主義は「八一三」淞滬戦闘 [第二次上海事変] を発動、大挙して上海に進撃して、全国は全面的な抗日戦争に入った。 |
この記事では「軍車」(軍用車両) と言いながら、記事付属の写真はどう見ても乗用車。こんな車で立入禁止軍施設の空港内を強行偵察に来て銃撃戦をやりに来ると一体誰が信じるのか・・・
以下は上海市の資料庫ウェブサイトから。
第五節 抗日戦争中の戦事 上海市地方誌弁公室
2人は車を折り返し、聞きつけて緊急出動した上海保安隊に途中で出会い、大山は発砲して保安隊兵士1名が死亡。保安隊は自衛のために銃で反撃をし、その場でこの日本軍の2名を射殺した。 事件発生後、上海市の喩鴻鈞市長は直ちに日本の岡本在上海領事に電話をしたが、岡本は日本海軍陸戦隊の将兵に当日は外出命令を受けた者はなく、外出者があったとしても虹橋空港に行くなどあり得ないと嘯いた。 当日夜10時、喩鴻鈞市長は日本総領事館に交渉に赴き、外交ルートでの解決と事件不拡大を要求した。日本側は同意を装い、中日双方代表を利用して事件現場の「調査」に行かせて、死体を持ち帰り、それにより戦争煽動を更に一歩進めた。 8月11日午後、岡本領事は喩鴻鈞市長と会談を行ったが態度は次第に強硬になった。虹橋事件の公表で日本全国は極めて震撼したため、日本政府は事件への中国の見解を「詰問」する必要があるとし、1) 保安隊の撤退、2) 防御工事を全て撤去の2つの要求を出した。 喩鴻鈞市長の返答は:中国政府はこの事件を極めて重視しており、「誠実で公正な態度で真相の徹底調査を行う。更に外交ルートに従って交渉を行い、円満解決を目指す」。双方の交渉は結果を出さず、日本軍はついにこの事件を口実に、8月13日に大規模軍事侵攻を発動し、虹橋空港事件は813淞滬戦争 [第二次上海事変] を誘発する事件となった。(以下略) 上海市地方誌弁公室. 区県誌〜区誌〜長寧区誌〜第28編「軍事」〜第三章「重要戦事」〜第五節「抗日戦争中境内戦事」. [魚拓]
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二つ目の記事は、ウィキペディア日本語版で言及されている1937年8月10日の『大公報』の記事[3c]と内容が非常に似通っているため、ウィキペディアでは原文やリンクが示されていないにせよ、この内容の一致から該当記事の存在と内容は正確と見られます。
この二つは上海市政府のウェブサイトなので、これが中国側の公式見解と考えていいでしょう。「事件不拡大、外交で解決」というのは日本側の方針[5]であったのに、いつの間にかそれが中国側の方針になり、戦争を起こしたくて仕方がない日本が大山事件を口実に大規模侵攻を開始したという、とにかく日本に関してとことん悪意に満ちた記述になっているのが、これが冷静で客観的な歴史ではない事など普通に考えれば分りそうな物。
それを「軍国主義」という一言で片付けてしまえば何でもそれで済んでしまうような「愛国無罪」の中華クオリティな国民には結局反日は蜜の味。
こんな事を教えられていれば反日になる訳だ・・・
ご利用有難うございます。
TBでご紹介頂いていることを知りました。
真実をそのまま多くの日本人に知らせて行きたいものですね。
今後は南京以後の事変の特電もそのうち掲載する予定です。
奴等の性質を知れば知るほど関わりたくない連中だと改めて思います。
死者に無知を打つ事自体理解できませんが
あの大陸には慈悲と言う言葉はないんでしょうか?
やさしさと言う言葉すらないような・・・
あるのは暴力だけみたいな気がしてなりません。
文太さん、お邪魔いたします。
刑事事件でも遺体に過剰な傷がみられた場合は怨恨の線が浮かんできますね。国家としての活動である戦争と個人としての私闘の区別が全くついていなかった証左だと思います。
戦争という非日常ではこの境界は限りなく曖昧になっていく物ではありますが、平時である西安の反日暴動の記事を読むと、「阿Q正伝」に於ける魯迅の指摘を青年人民は理解する気がないのだなと改めて認識させられます。
個人的鬱憤の解消を政治活動に求めた阿Q。活動の一環として(少なくとも本人はそう認識している)セコい悪事に手を出す阿Q。
「まさしく、正しく、阿Qだなあ」と思いました。
小楠さんに今は絶版の貴重な一次資料のテキスト起こしをして頂いたので、それを如何に伝えるかという、こういうエントリーも可能になりました。
今後も楽しみにしております。
例えば朝日記事のリンク先にある当時のTBSの報道を見ると、西安の日本人学生が「普段親しげにしていた人が何でああなるの?」「あの時暴動で日本人を襲撃した学生が、今でも知らん顔してキャンパス内にいる」などの発言が印象的でしたが、そう言えば通州では普段友好的だった保安隊に日本人居留民が虐殺されています。
一方朝日の記事には暴動に会って中国側の大学関係者が多数負傷した記述もありますが、中国人でも親日と反日が両方いるので(支那事変の時代もそう)、中国というのは一枚岩とは全く言えない国ではあります。ただ集団発狂状態になり易くモラル観の基準が違う人達が一定の割合でいる面は大きいでしょうね。
以前東海岸のダウンタウンのスラム隣接地域に住んでいた時に毎日のように見たのが、街じゅうにホームレスがいて、彼等はそこに車が止めてあれば「窓ガラスを壊して中の物を盗むのは当然の事」だと思っているし、「銀行には金があるんだから何で強盗しちゃいけないんだ?」「犯罪を犯したって刑を務めれば奇麗さっぱりクリーンだ」など犯罪への罪の認識が全くなかったり、金を恵んでもらえば感謝しないで「もっとくれ」だし、「阿Q正伝」のような世界はアメリカにもあります。例えば阿Qのように読み書きも出来なければ、自分が見聞きした事でしか価値観判断基準はない訳です。
一方、私の知っている中国人は例えばアメリカに留学などで来る人など、都市部出身のある程度の裕福層である筈なのですが、それにしても中国人はモラルや常識に関して個人差が凄まじいのです。恐らく共産主義になる以前の中国の凄まじい貧富と教育レベルの差が均質化するのはやはり数十年では足りないのかなという印象もあります。
つまりそれは罪悪意識の概念の基準が全く違う世界であって、例えば義和団事件や『阿Q正伝』で処刑見物を楽しみにする野次馬根性旺盛な民衆、大山事件や通州で猟奇殺害のついでに略奪をする中国人保安隊、西安で便乗して大騒ぎして日本人を殴ったついでに盗みを働く中国人学生、やはり時代が違っても文化と人の心は受け継がれるものなのでしょう。
しらないことばかりで、当時の内外の記事や資料をみると、やはり驚きますね。知った風にいる自分の無知が恥ずかしいです。当時の中国にいた日本をはじめとする諸外国の人々の、日記や記事や記録はもっと調べてみたいです。それにしても・・・大陸に関わらなければよかったのに、と思います。けれども後知恵では何とでもいえますね。
以前、旧制の女子校の記念写真集のような本をみたことがあります。日本のみならず、朝鮮半島や中国大陸にあった女学校の皆さんが、それぞれ写っていました(今でいう学年写真やクラス写真でしょうか)。地図上で、各学校が黒丸で記されていたのですが、大陸や半島にあった日本校の多いこと。日本人以外の生徒もいたのでしょうが、そこに通っていた日本人学生、その家族は、戦後日本に戻れたのだろうかと、胸が痛みました(図書館でみた本で、今は手元にありません。百科事典のような大きな分厚い本だったと思います)。
このエントリーの記事の場合は戦前に出版された本に収録されたものなので、『反日ワクチン』さんにテキスト起こしをして頂いたのでこうしてネット上でも見る事が出来るので、やはりネットの時代の恩恵ですね。
英語には「connect the dots」という言い回しがあります。これは「数多くの点を結び付けると全体像が見えて来る」などの意味で使われている言葉ですが、仰るように当時の日記や記事の記録を見て行けば、その積み重ねで全体像がよりリアリティを持って見る事が出来ると思います。
大陸に関わらなければ良かった・・・確かにその通りなのですが、当時の日本が何故そういう方向に進まざるを得なかったかと言うのも、当時の時代背景において様々な理由や思惑が複雑に絡み合った結果であった訳で、いい悪いで論じるのは難しくはあります。
当時の学校の生徒は無事であったら今でも存命している世代ですが、探せば意外と身近にも満州生まれの人もいて、どうやって帰って来たかの話も聞く機会もありましたが、本当に様々な状況があって幸運な人から不運な人まであったようですね。
盧溝橋事件をはじめ、大山事件などはシナ側の挑発行為であったと思います。
シナ兵がドイツ製ヘルメットを被っているのは不思議なことですね。ドイツ軍人がシナ軍を教育、訓練したといわれています。日本軍はシナ軍のドイツ製戦車を鹵獲していますから、ドイツのシナ支援は相当なものですね。(どこかで写真を見たことがあります。)
歴史の教科書には、当時の日本とシナの外交交渉について記述がないと言ってもよいと私は思います。
本当に残念なことです。
特に、昨年の北京五輪に関連して、聖火リレーなど世界各国での騒動における中国人の徹底抗戦ぶり、それからYouTubeなどネット上での中国人による凄まじい挑発行為なども、会話や解決の意思は全くなくただ頑なに相手に対する罵倒と侮蔑オンリーだったりなど、そうやって現代でも全く変わっていない彼等の様子を見れば、盧溝橋事件や大山事件で戦争の口実を作ったのはあちらであると確信せざるを得ないですね。実際のところ。
あちらから見れば、戦場になったのは大陸であり中国が日本を攻めた訳ではないという、そういう「分りやすい理由」で被害者意識が強いという点はやはり大きく、そういうイメージ的な問題で国際的アピールに限らず日本国内でも「日本が侵略した」というイメージになり易い点、不利である事には違いはないのですが。
日中の関係悪化や第二次大戦の構図が決まる以前にもともと独中は関係が近かったようなので、第二次上海事変の1937年というと微妙な時期でしょうね。
わずか1152枚のはがきを官邸と文科省あてに郵送し、県民の声と市民団体が主張していたようです。 琉球新報より転電です。ソース元:琉球新報「真実隠しは駄目」 はがき1153枚、首相へ送る教科書検定意見撤回を求める首相、文科相あてのはがきを整理する小渡会長(右
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Author:岩谷文太
米国在住。主に海外の英文記事や中国語記事から得られる情報をまとめています。
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