Red Fox

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猟奇的な大山中尉殺害事件


 日中が本格的戦闘状態に突入した1937年8月13日の第二次上海事変の4日前の8月9日に起こった上海虹橋空港での大山勇夫中尉惨殺事件は、以前のエントリーで英語版と中国語版のウィキペディアでの記述の比較検証を行った事がありますが、今回は『反日ワクチン』さんが掲載されている、当時の朝日特電、東日(現在の毎日新聞)特電、国民新聞・新愛知新聞(現在の東京新聞と中日新聞)の報道を紹介します。

 これらの記事は、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」(1937年12月18日刊) という本から『反日ワクチン』の小楠さんがテキスト起こしをしてブログに掲載されたものです。ここで重要なのは、大山事件が単なる暗殺事件ではなく、肉体破壊の限りを尽くした猟奇趣味的な殺人事件である点であり、それは通州事件とも同種のものです。

 通州の日本人と朝鮮人居住者の212人が殺害され、日本世論を硬直させた7月29日の通州事件から12日後に起きたこの「大山中尉殺害事件」は、当日の夜に朝日特電によって日本で報じられています。ここでは当時中国主要都市各地に設けられていた外国人共同租界(外国人居住地区)内で、あたかも現代のイラクのテロリストを彷彿させるような中国兵の様子が描かれています。

写真:1937年8月10日、大山事件を受けての日本海軍上海陸戦隊の緊急徴集とされる写真 (写真:解放網) [A]



註:ここでの引用文は戦前の記事のため、読み易さのために句読点やフリガナを追加、漢数字をアラビア数字に置き換え、現在一般的でない漢字表記や送り仮名表記を現代のスタイルにしているので(表記の変更で文章自体は同じ)、原文はリンク先の『反日ワクチン』さんのエントリーを参照下さい。

大山海軍中尉上海で射殺さる
上海朝日特電 1937年8月9日

日本海軍特別陸戦隊 午後9時45分発表

 陸戦隊第一中隊長海軍中尉・大山勇夫は、一等水兵・斎藤 與蔵 ( よぞう ) の運転せる自動車により本日午後5時頃、上海共同租界・越界路のモニュメント路(碑坊路)通行中、道路上にて多数の保安隊に包囲せられ、次いで機銃小銃等の射撃を受け、無念にも数十発の弾丸を受けて即死した

 現場を検視するに、頭部腹部には蜂の巣の (ごと) くに弾痕があり、自動車は前ガラスが破壊せられ、車体は数十発の機銃弾痕あり、無法鬼畜のごとき保安隊の行為を物語っている。

 右のモニュメント路は共同租界のエキステンションであり、各国人の通行の自由のある所であるに拘らず、支那側は最近、上海の周囲に公然と土嚢・地雷火 (じらいか) 鹿柴 (ろくさい) [*1]などの防御施設を構築し、夜間は兵力をもって勝手に通行を禁止し、昼間にても通行人に一々ピストルを突き付けて身体検査すねなどは、明らかなる停戦協定無視なるのみならず、共同租界居住各国人に対する侮辱である。支那側の無法なる抗日の公然たる挑戦行為である。

 なお同自動車の運転員一等水兵斎藤與蔵は、座席に多量の血痕を残せるままいずこにか拉致されたものの如くである。

 帝国海軍陸戦隊は、厳重に支那側の不法に対する責任を問うと共に、厳正なる態度をもって徹底的解決を期せんとす。なお同中尉は軍服であったことを付記する。

*1. 鹿柴 (ろくさい):木や竹を組み合わせて鹿の角のような
形にして敵の侵入を防ぐもの。さかもぎ

上海朝日特電. 『大山海軍中尉上海で射殺さる』, 1937年8月9日; 皇徳奉賛会出版部 (宮居康太郎・編). 『支那事変戦史 後編 - 各社特派員決死の筆陣』, 1937年12月18日刊; (反日ワクチン. 『大山事件特派員特電』, 2007年7月6日)


共同租界内の老靶子路と北江西路の角の土嚢バリケード (1937.8.23) (Karl Kengelbacher) [B]

虹橋路にてドイツ式スチールヘルメットをかぶった中国兵 (1937.10.31) (K. Kengelbacher) [C]

虹橋路の土嚢要塞の中国兵 (1937.10.31) (K. Kengelbacher) [D]

共同租界内の老靶子路と北江西路の交差点のバリケード (1937.8.23) (K. Kengelbacher) [E]

虹橋路の土嚢の後ろの中国兵 (1937.10.31) (K. Kengelbacher) [F]


 現代でも中国側では「大山中尉と斎藤水兵は飛行場への侵入を企てたため殺害された」と歴史書などで説明しているようですが、日本の当時の特電では共同租界内で殺害されたと報じられています。

 東中野修道氏の『南京虐殺の徹底検証』によれば、東亜同文会1938年出版の『新支那現勢要覧』に掲載された日本海軍上陸隊の捜査結果には「大山は後頭部の銃撃が致命傷で即死であり、死亡した後にもなお中国保安隊は更に死体にダメージを与え続け、頭部は二つに割れ、顔の半分は無くなり、内臓が飛び出し、心臓の位置には拳大の穴が空いていた」[1]とあると言及されています。

 事件翌日の8月10日付けの東日(現在の毎日新聞)の特電にもその様子が書かれています。

眼を覆う暴虐の現場
上海大毎・東日特電 1937年8月10日

 大山中尉、斎藤水兵の死体引取りの一行は、沖野海軍武官、陸戦隊・山内参謀・重村大尉、総領事館・服部副総、工部局警察・上原副総監、憲兵隊長・塚本大尉など、支那側は、市政府秘書・張定栄以下、警察局員数名、これに内外の記者団10数名が従い、陸戦隊看護婦10名を乗せた救急車とともに、9日午後11時半、わが総領事館を出発、深夜の上海をまっしぐらに現場に急行した。・・・・・

 大山中尉の死体は、虹橋路を虹橋飛行場に突き当って右に折れ、碑坊路(モニュメント路)を北行すること、約7、8町鉄条網を張りめぐらした飛行場の北端に近い道ばた、血の海の中に横たわっていた。案内役の支那巡警が差出すカンテラの光に死体の上を窺うと、立ち会いの支那側代表、張定栄市政府秘書、朱英保安隊参謀主任でさえ見るに () えず、思わず眼を覆う暴行の跡だ

 午後7時半、最初に死体確認のため現場を視察した、陸戦隊・重村大尉の談によれば、最初見た時は頭蓋骨粉砕、骨折や刺し傷はなかったというから、これらはいずれもその後死体に加えられた暴行であることが明らかで、その暴挙を敢えてするのは全く鬼畜の仕業だ。傍らに横たわる自動車を見れば一面の弾痕だ。車内は血に染まっている。

 斎藤一等水兵の死体はそれより東方十数メートルの豆畑の中に哀れにも仰向けに放り出されてあった。斎藤水兵は後ろから身に数弾を受け運転台から転げ落ちながらもなお敵に応戦したらしいが、幾つもの残酷な傷があり、両名とも身ぐるみ全部掠奪されている四方から一斉に撃たれた模様で、あたり一面は文字通り血の海である。午前四時過ぎようやく詳細な検証を終えた。

上海大毎・東日特電. 『眼を蔽う暴虐の現場』, 1937年8月10日. (ibid.)


事件現場 (上海市閔行区人民政府) [G]

事件後の日中合同実地調査 (朝日新聞「支那事変写真全集」<中>/Wikipedia) [H]

 殺害の際に徹底的な死体損壊と身ぐるみ略奪を行うというやり方も通州と全く同じ。


 この事件はイギリス、フランスとアメリカの警察によって現場検証されていますが、その捜査結果は逆に大山中尉が被害者であったと、フランス人のクロード・ファレールによって証言されています。

クロード・ファレール「支那紀行」より
『支那』1938年9月号

 日本軍は驚嘆すべき冷静さを持していた。彼等は最も優秀なローマの警官の教える所を実行したのである。彼等は自動車にも死骸[*1]にも決して手を触れなかった。彼等は上海の支那人の市長及び英仏米の官憲を招致した。待つ間もなくその人々はやって来た。人々は事件の検証を行った。

 支那兵が虐殺されて、百歩以上の距離の所に横たわっていた。しかし、その実地検証は、なんの異議もはさまれることなく、次のような事実を確認した。すなわち、この男は可愛そうにその同僚から自動拳銃によって、背後から射撃されたのであって、その後その日本人暗殺に対して争闘 (そうとう) [*2]のような色彩を与える位置にひいて行かれたのであった。
*1. 大山中尉と斎藤水兵の遺体、*2. 争闘:闘争

Farrére, Claude. 「支那紀行」 ; 『支那』1938年9月号, 東亜同文会, 193. (『真・日本史』2000. 『真実の証言』. [魚拓])


上海で日本の第一上陸隊の大山勇夫中尉の遺体の発見現場の実地調査を行う日本軍関係者。碑坊路での事件は「ブレイキングポイント」であり上海地区での大規模軍事活動の前兆であったと日本側では考えられている (写真付属の解説の訳) (©Bettmann/CORBIS) [I]

 つまり、その死亡した中国兵は中国側によって殺害され、大山中尉殺害の理由作りのためにその死体がその場に持って来られたとの捜査結果に至っており、英仏米の警察は「大山が中国兵を殺害したために正当防衛のために射殺した」と言う中国側の主張を退けたとの事。[2]


 ファレールの証言は、事件の3日後に国民新聞(東京新聞)と新愛知新聞(中日新聞)で発表された日本の海軍省副官の談話との内容の一致を見る事が出来ます。

支那無根の主張、実地検証で確認
国民新聞、新愛知新聞 1937年8月12日

 海軍省では上海の大山事件に関し、12日午後0時30分副官談の形式をもって左の如く発表した。

【海軍省副官談】

 大山大尉・斉藤兵曹虐殺事件、該地検証の結果は左の通りである。

 8月10日正午より約八時間にわたり、我が方よりは田尻駐在武官、山内陸戦隊参謀、吉岡・福井両領事、東川憲兵少尉、支那側より、周市政府秘書長、趙淞滬警備司令部副官、上海工部局側よりクローチ特察長(英国人)ら立会い、実地検証を行ったが、 支那側は事件の直接関係者及び実見者[*1]を出さず、主として趙副官我が方の質問に対応し、その言うところ全然条理[*2]を失い、ひたすら真相を糊塗 (こと) [*3]せんとして、弁明これ (りき) めたに過ぎず、 我が方に射殺せられたりと称する支那兵の死体の如きは現地付近になく検証を行うことが出来ず、 大山大尉等が飛行場に突入せんとし先に発砲せりの支那側の主張については、10日以来所説[*4]三たびも更改 (こうかい) [*5]せる状況にして、我が方の反問[*6]・自動車の実地運転により実証に対し、遂に何ら明確なる説明出来ず、 自動車付近には撃ち殻・薬莢 (やっきょう) 等多数あり、車体の弾痕は小銃機関銃をもって遠距離近距離より乱射乱撃を行ったものであって、結局我方 (わがほう) より先に射撃せりというが如き事実は全く無根であり、 支那側は被害者両人を車内より引き出し、軍服を着用せる我が死体に対して鬼畜に等しい残酷なる行為を加えたることが確認された。

 なお、自動車の機械は完全であって、斎藤兵曹の死亡によって停車したものであることも明瞭となった。

*1. 実見者:目撃者、*2. 条理:筋道、道理、*3. 糊塗:誤摩化す、取り繕う
*4. 所説:説いている事柄、*5. 更改:過去の決定を新たなものに変える事、*6. 反問:聞き返す事


国民新聞、新愛知新聞. 『支那無根の主張、実地検証で確認』, 1937年8月12日. (『支那事変戦史』).


車両内部 (Axis History Forum) [J1]
 中国側の当時の報道では、大山中尉が二名だけで飛行場に進入し大山中尉側が先に発砲を始めたため射殺したとなっているようです[3a]

 それは前エントリーで扱った英語版や中国語版のウィキペディアでも中国側の資料のみを参考にしているため全くその通りの記述になっており、また、中国のサイトでは見たところ殆ど全てが「大山が中国側の軍事立入禁止区域である虹橋空港内の偵察を強攻しようとして警告を無視して進入を企てたため銃撃戦になり、中国兵を射殺したため大山と斉藤が射殺され、それが日本軍の大規模投入の口実にされた」等の記述となっており、現在も中国側の歴史書では中国側の正当防衛とされているようです。(具体例は追記を参照)

 しかし当時の1937年8月11日の『東京朝日新聞』では、大山中尉は武器を所持しておらず、斎藤水兵は拳銃を所持してはいたもののホルスターに入ったままと報道されており[4]、そもそも中国側の主張が上記の日本側の報道とは全く食い違っています。



徹底的な肉体損壊と身ぐるみ剥がす略奪行為

 1937年7月7日の盧溝橋事件から8月13日開戦の第二次上海事変までの全体的な流れを見ていると、日中が停戦協定を結んでも、近藤二等兵殺害事件 (7/14)、廊坊事件 (7/25)、広安門事件 (7/26)、通州事件 (7/29) などの日本人襲撃殺害事件が同月に連発しており、そのうち近藤二等兵事件や通州事件においては凄まじい残虐方法で猟奇的な殺害がされています。

 これらの事件だけでなく、中国の歴史的な処刑に関する認識を見る限りそこに見られるものは、このような肉体破壊系の殺害方法は、中国においては「処刑」の意味を持っており、また身ぐるみ剥がすという行為は死者を辱める事であり、また通州事件と同様に戦利品の略奪という盗賊行為は勝利の証であるという事などですが、肉体損壊に対する異様なこだわりというものは根本的に日本人に対する凄まじい憎悪がそこにあった事が伺えます。それは一説によると、1915年の『対華二十一か条要求』以来の国民党政府による反日教育を受けた世代が成人した頃に支那事変が起こったのだとも言われています。



上海虹橋空港 (1937年頃?) (貼吧新聞) [K]


 そして66年後・・・

「謝れ」連呼、学生暴徒化 検証 — 中国・西安寸劇事件
朝日新聞 2003年11月28日


(Guardian) [L]
・・・ 「日本人か」。中国人の男子学生に聞かれ「はい」と答えた女子学生はいきなり顔を殴られた。「なぜ殴るのか」と問い返したが答えはなく、今度は腹部をけられた。

 女子学生「日本人はすべて悪いのか」
 中国人学生「そうだ」
 女子学生「あなた方は昨晩の日本人の寸劇を実際に見たのか」
 中国人学生「見ていない」

 女子学生は駆けつけた中国人警備員に助けられた。顔から血が流れ、部屋のストーブやトイレは壊され散乱していた。 ・・・

 午後11時ごろ、再び中国人の学生らが広場に集まってきた。他大学の学生とみられる集団が赤い旗を先頭に到着するたび拍手で迎えられた。まもなく、2度目の留学生宿舎乱入が始まった。

 日本人の男子学生が殴られ、けがをした。腕時計と財布も盗まれた。部屋のトイレに隠れた女子学生はドアに穴を開けられ、顔を見られた。乱入者は「女でも殴ろうか、やめておこうか」と議論したあげく、部屋の窓ガラスを割った。・・・

朝日新聞. 『「謝れ」連呼、学生暴徒化 検証 ― 中国・西安寸劇事件』, 2003年11月28日. (西安留学生寸劇事件@news. 『国内新聞』, 2003)

 2003年の10月に西安で起きた反日暴動はまだ記憶に新しいですが、現代の中国では虐殺こそ起こらなくてもやはりデジャブのような記述が朝日新聞の記事にあります。そして彼等は90年代にエスカレートした江沢民の反日教育で育った世代でもあります。



東京朝日新聞
昭和12年8月12日(木曜日)夕刊 1面
▼両氏進級叙位
 九日夜上海で支那兵のため射殺された大山海軍中尉及び斎藤一等水兵に対し九日付をもって次の如くそれぞれ進級叙位の御沙汰があった。
従七位海軍中尉 大山 勇夫
任海軍大尉、叙正七位
海軍一等水兵  斎藤 與蔵
任海軍三等水曹
▼両勇士あす告別式
【上海11日発同盟】大山大尉、斎藤三等水曹の遺骸は10日午後7時、八字橋の火葬場において、山内陸戦隊参謀、陸戦隊第一中隊代表者及び戦友多数参列の上、荼毘に付され11日午前9時骨揚げを終了した。遺骨はひとまず大山大尉の私室に安置され、12日午後2時より陸戦隊本部において告別式挙行の予定である。
kknanking. 『第二次上海事変メモ』. 南京大虐殺 論点と検証, 2006年05月14日 18:58:42. [魚拓]


大山勇夫海軍中尉 (©Bettmann/CORBIS) [M]

斎藤與蔵一等水兵 (Axis History Forum) [J2]


Google Mapで見る大山事件現場

画面下を左右に通るのが虹橋路、画面を上下に一直線に通る空港内の道が碑坊路 (現在の名称は「綏寧路」)。
東日特電の記事によれば、大山中尉の車は画面下端の右側から中央に向かって虹橋路を東側から来て、画面中央で突き当たり碑坊路を右折して北進、その先約800-900mで発見されたとの事で、現場は現在は虹橋空港敷地内であり、写真上では画面上部の飛行機が止まっているターミナルの辺りと見られる。

查看大图

本文:2007年11月14日。写真B-J, M追加:2009年2月15日



追加資料:

中国側資料ではどのように書かれているか

 ここからは前エントリーの続き。

 前エントリーでは中国側の資料として、日本語版Wikipediaに書かれている『大公報』の8月10日の記事[3b]に言及しましたが、ウィキペディアに原文の記述やウェブ上のソース、又は写真ファイルなど現物の存在を確認出来る手段が提供されておらず、こういう形の二次情報だけでは心許ないので、中国の公的機関のウェブサイトの記述を見てみます。

 中国で大山事件は「虹橋空港事件」の呼称で“抗日戦争”の開始点としてよく知られた事件のようで、大山中尉が悪玉として中国語サイトのウェブ小説の登場人物になっているのを幾つか目にした事があります。身を呈して侵略戦争の口実を作ったという悪玉中の悪玉の化け物ヒーローのような、何となくそんな扱い。

 以下、上海市閔行区人民政府のウェブサイト掲載の軍事と歴史のページから。



虹橋空港事件
上海県誌 (上海市閔行区人民政府)

 1937年 (民国26年) 8月9日の午後5時頃、日本の豊田紡績上海工場の海軍陸戦隊の大山勇夫中尉は斉藤與蔵一等水兵を従えて、軍用車両を運転して虹橋路の東側方向から疾走し、空港ゲート (現在は虹橋空港内) に真っすぐ突き進み挑発を行った

 空港守兵 (上海保安総団第1団所属) が停車を命じたが止まらず遂に車への銃撃を開始した。日本軍車両は急速に右折して碑坊路 (当時は空港の東側、現在は空港内の道路) に入り、空港ゲートから北に100メートル余り離れた場所で撃破し、大山勇夫は車内で被弾して死亡、斉藤與蔵は車を捨てて逃げたが、その場で射殺された。

 8月13日、日本の帝国主義は「八一三」淞滬戦闘 [第二次上海事変] を発動、大挙して上海に進撃して、全国は全面的な抗日戦争に入った。

上海県志. 『虹橋机場事件』. 上海市閔行区人民政府 [魚拓]
訳:Red Fox (原文:中国語、写真は記事付属)

 この記事では「軍車」(軍用車両) と言いながら、記事付属の写真はどう見ても乗用車。こんな車で立入禁止軍施設の空港内を強行偵察に来て銃撃戦をやりに来ると一体誰が信じるのか・・・


 以下は上海市の資料庫ウェブサイトから。


第五節 抗日戦争中の戦事
上海市地方誌弁公室


1937年、虹橋空港事件を起こした日本軍の遺棄された自動車。
 日本軍が虹橋事件を作り上げた。民国26年8月9日午後5時、日本の豊田紡績上海工場の海軍陸戦隊の大山勇夫中尉と斉藤要蔵一等水兵は、車で虹橋空港に直進して来たため空港衛兵が阻止したが、後部座席の大山は拳銃を抜き出し乱射し、衛兵は少数の日本軍とのトラブルを避けるように注意を受けていたので銃での反撃は出来ず、すぐさま地面に伏せた。

 2人は車を折り返し、聞きつけて緊急出動した上海保安隊に途中で出会い、大山は発砲して保安隊兵士1名が死亡。保安隊は自衛のために銃で反撃をし、その場でこの日本軍の2名を射殺した。

 事件発生後、上海市の喩鴻鈞市長は直ちに日本の岡本在上海領事に電話をしたが、岡本は日本海軍陸戦隊の将兵に当日は外出命令を受けた者はなく、外出者があったとしても虹橋空港に行くなどあり得ないと嘯いた

 当日夜10時、喩鴻鈞市長は日本総領事館に交渉に赴き、外交ルートでの解決と事件不拡大を要求した。日本側は同意を装い、中日双方代表を利用して事件現場の「調査」に行かせて、死体を持ち帰り、それにより戦争煽動を更に一歩進めた

 8月11日午後、岡本領事は喩鴻鈞市長と会談を行ったが態度は次第に強硬になった。虹橋事件の公表で日本全国は極めて震撼したため、日本政府は事件への中国の見解を「詰問」する必要があるとし、1) 保安隊の撤退、2) 防御工事を全て撤去の2つの要求を出した。

 喩鴻鈞市長の返答は:中国政府はこの事件を極めて重視しており、「誠実で公正な態度で真相の徹底調査を行う。更に外交ルートに従って交渉を行い、円満解決を目指す」。双方の交渉は結果を出さず、日本軍はついにこの事件を口実に、8月13日に大規模軍事侵攻を発動し、虹橋空港事件は813淞滬戦争 [第二次上海事変] を誘発する事件となった。(以下略)

上海市地方誌弁公室. 区県誌〜区誌〜長寧区誌〜第28編「軍事」〜第三章「重要戦事」〜第五節「抗日戦争中境内戦事」. [魚拓]
訳:Red Fox (原文:中国語、写真は記事付属)

 二つ目の記事は、ウィキペディア日本語版で言及されている1937年8月10日の『大公報』の記事[3c]と内容が非常に似通っているため、ウィキペディアでは原文やリンクが示されていないにせよ、この内容の一致から該当記事の存在と内容は正確と見られます。

 この二つは上海市政府のウェブサイトなので、これが中国側の公式見解と考えていいでしょう。「事件不拡大、外交で解決」というのは日本側の方針[5]であったのに、いつの間にかそれが中国側の方針になり、戦争を起こしたくて仕方がない日本が大山事件を口実に大規模侵攻を開始したという、とにかく日本に関してとことん悪意に満ちた記述になっているのが、これが冷静で客観的な歴史ではない事など普通に考えれば分りそうな物。

 それを「軍国主義」という一言で片付けてしまえば何でもそれで済んでしまうような「愛国無罪」の中華クオリティな国民には結局反日は蜜の味。

 こんな事を教えられていれば反日になる訳だ・・・


2009年2月15日追加



脚註:

  1. ^ "The Current Situation in China, published in 1938 by the Toa Dobunkai, carried a report of the results of an investigation conducted by a Japanese naval landing party. Apparently Oyama sustained fatal wounds from bullets that entered the back of his head, and died instantly. After his death, the Chinese Peace Preservation Corps inflicted further injuries: “His head was split in two, half of his face had been obliterated, and his intestines were protruding. There was a hole in his heart the size of a fist". Higashinakano, Shudo. "The Nanking Massagre: Fact versus fiction". (Tokyo: Tendensha, 1998). English Edition by Sekai Shuppan (Tokyo: Sekai Shuppan, 2005), 10-11.
    「東亜同文会が1938年に出版した『新支那現勢要覧』には日本海軍陸戦隊の調査結果が掲載されている。大山は後頭部の銃撃が致命傷で即死である事は明らかでり、死亡した後にもなお中国保安隊は更に死体にダメージを与え続け、“頭部は二つに割れ、顔の半分は無くなり、内臓が飛び出し、心臓の位置には拳大の穴が空いていた”」. 東中野修道. 『「南京虐殺」の徹底検証』 (展転社, 1998). 英語版:世界出版 (2005), 11.

  2. ^ "The Chinese soldier was shot not by Sublieutenant Oyama, but by another Chinese soldier, in the back. Every one of the investigators arrived at this conclusion ― there were no objections. Farrère’s account is consistent with Japanese records of the incident. The investigation discredited the Chinese claim that Oyama was shot in self-defense, after he had shot a Chinese soldier.". ibid., 10-11.
    「その中国兵は大山中尉に撃たれたのではなく他の中国兵から背後から撃たれている。捜査官の全てが至った結論は --- 異論は一つもなかった。ファレールの証言は日本側の記録と矛盾がない。大山が中国兵を撃ったため防衛のために応戦をしたとの中国側の主張は調査によって退けられた。」. ibid., 11.

  3. ^ a b c 1937年8月10日の『大公報』では大山側が飛行場に進入しようとして先に発砲を行って銃撃戦となったと報道したとWikipediaに書かれているが、原文など『大公報』に関してはウェブ上のソースはなし。Wikipedia. 『第二次上海事変』〜中国側の報道.

  4. ^ . 8月10日の日中合同調査による海軍省の発表による東京朝日新聞にはそのように書かれていたとの記述がWikipediaにあり。東京朝日新聞の記事のウェブ上のソースはなし。Wikipedia. 『第二次上海事変』〜日本側の報道.

  5. ^ . 「昭和十二年七月二十九日、天皇陛下は近衛首相を召され外交交渉による平和解決を熱望遊ばされた。」「日本側は少しでも戦線を拡大せずに収めたいという方針から兵力を最小限に止めて戦った。そのために四万人という未曾有の犠牲者を出した」. 鈴木正男. 『支那事変は日本の侵略戦争ではない』(展転社, 2002年10月). (引用:反日ワクチン. 『上海事変の勃発』, 2006年12月7日).



写真:

  1. ^ 抗日戦争勝利六十周年. 『戦争中的日軍部隊』〜「1937年8月10日、日軍上海海軍特別陸戦隊因大山事件緊急調集」. 解放網. [魚拓]

  2. ^ Karl Kengelbacher. "Sandbag barricade at the corner of Range and North Kiangse Roads", Shanghai International Settlement (1937.8.23). (© Peter Kengelbacher Gerhardtstr.). Virtual Shanghai. "Corner Range-Road and North-Kiangse-Road is occupied by British troops. In the back the Pantheon-theater, which was defended for approx. 3 month by the Chinese." [魚拓]

  3. ^ ibid. "Chinese soldiers in Hongqiao", Shanghai. (1937.10.31). "Chinese troops in Hungjao-District: In a German steel helmet". [魚拓]

  4. ^ ibid. "Chinese soldier behind a sandbag blockhouse in Hongqiao ", Shanghai (1937.10.31). "Chinese troops in Hungjao-District: Behind sandsack barriers". [魚拓]

  5. ^ ibid. "Chinese soldier behind a sandbag blockhouse in Hongqiao", Shanghai International Settlement (1937.10.31). "Corner Range-Road and North-Kiangse-Road is occupied by British troops. In the back the Pantheon-theater, which was defended for approx. 3 month by the Chinese". [魚拓]

  6. ^ ibid. "Chinese soldier behind a sandbags in Hongqiao", Shanghai (1937.8.23). "Chinese troops in Hungjao-District: Behind sandsack barriers". [魚拓]

  7. ^ 上海県志. 『虹桥机场事件』. 上海市閔行区人民政府 [魚拓]

  8. ^ 大山事件、昭和12年8月9日。支那事変写真全集<中>(朝日新聞、昭和13年発行)Wikipedia. 『Ohyama incident.PNG』.

  9. ^ corbis. "Japanese Officers Looking Down at Land site". [魚拓]. Original caption: Japanese officers are inspecting the spot where the body of Sub-Lieutenant Isao Oyama, Commander of the first Japanese landing party in Shanghai was found. Discovery of the body at a point along Monument Road, was regarded by Japanese as a "breaking point," and was a forerunner of the present large-scale operations in the Shanghai area.
    「写真付属解説:上海で日本の第一陸戦隊の大山勇夫中尉の遺体の発見現場の実地調査を行う日本軍関係者。碑坊路での事件は“ブレイキングポイント”であり上海地区での大規模軍事活動の前兆であったと日本側では考えられている」. corbis. 『現場を見下ろす日本軍関係者』.

  10. ^ 1 2 Peter H. "The car of death". Posted in "Oyama Incident 1937". Axis History Forum. [魚拓]

  11. ^ 貼吧新聞. 『上海虹橋機場』. Posted in 『中国人的血与火,75万国惨烈保衛大上海! 』, 2006年10月5日. [魚拓]

  12. ^ Watts, Jonathan. "Chinese students demonstrate against Japanese students who had performed a jokey sketch involving fake genitals". guardian.co.uk. [魚拓]

  13. ^ corbis. "Portrait of Lieutenant Isao Oyama Sitting". [魚拓] Original caption: The late Sub-Lieutenant Isao Oyama, the handsome Commander of the First Japanese Landing Party in Shanghai, who was slain when the group was ambushed in their automobile on Monument Road, is shown here. The Japanese regarded the incident as a "breaking point" and opened large-scale operations in the Shanghai sector.
    「写真付属解説:晩年の大山勇夫中尉、この日本の上海第一上陸隊のハンサムな指揮官は碑坊路の車両で待ち伏せをしていたグループに殺害された。この事件は日本側では”ブレーキングポイント”と考えられ、上海地区での大規模軍事行動の開始となった」. corbis. 『座っている大山勇夫中尉の肖像写真』.




支那事変関連エントリー:
歴史から消された広安門事件と廊坊事件 (2007.7.11)
清瀬一郎:東京裁判冒頭陳述 (2007.7.19)
南京事件考 (2007.8.7)
東條英機元首相 公的遺書 全文 (2007.8.14)
英語・中国語版Wikipediaにおける大山事件と第二次上海事変の記述 (2007.8.18)
中国の死刑写真とBBC『南京大虐殺』の酷似 (2007.10.28)
上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (2007.11.4)
日本人捕虜の残虐処刑写真に関する中国人の議論 (2007.11.9)
猟奇的な大山中尉殺害事件 (2007.11.14)
通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会 (2009.3.20)




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コメント

大山事件

ご利用有難うございます。
TBでご紹介頂いていることを知りました。
真実をそのまま多くの日本人に知らせて行きたいものですね。
今後は南京以後の事変の特電もそのうち掲載する予定です。

  • 2007/11/15(木) 17:38:21 |
  • URL |
  • 小楠
  • [ 編集]

奴等の性質を知れば知るほど関わりたくない連中だと改めて思います。
死者に無知を打つ事自体理解できませんが
あの大陸には慈悲と言う言葉はないんでしょうか?
やさしさと言う言葉すらないような・・・
あるのは暴力だけみたいな気がしてなりません。

  • 2007/11/15(木) 22:47:15 |
  • URL |
  • 七神
  • [ 編集]

文太さん、お邪魔いたします。

刑事事件でも遺体に過剰な傷がみられた場合は怨恨の線が浮かんできますね。国家としての活動である戦争と個人としての私闘の区別が全くついていなかった証左だと思います。
戦争という非日常ではこの境界は限りなく曖昧になっていく物ではありますが、平時である西安の反日暴動の記事を読むと、「阿Q正伝」に於ける魯迅の指摘を青年人民は理解する気がないのだなと改めて認識させられます。
個人的鬱憤の解消を政治活動に求めた阿Q。活動の一環として(少なくとも本人はそう認識している)セコい悪事に手を出す阿Q。

「まさしく、正しく、阿Qだなあ」と思いました。

  • 2007/11/15(木) 23:49:31 |
  • URL |
  • ぐい呑み
  • [ 編集]

小楠さん

小楠さんに今は絶版の貴重な一次資料のテキスト起こしをして頂いたので、それを如何に伝えるかという、こういうエントリーも可能になりました。
今後も楽しみにしております。

  • 2007/11/16(金) 17:07:11 |
  • URL |
  • 文太
  • [ 編集]

七神さん

例えば朝日記事のリンク先にある当時のTBSの報道を見ると、西安の日本人学生が「普段親しげにしていた人が何でああなるの?」「あの時暴動で日本人を襲撃した学生が、今でも知らん顔してキャンパス内にいる」などの発言が印象的でしたが、そう言えば通州では普段友好的だった保安隊に日本人居留民が虐殺されています。

一方朝日の記事には暴動に会って中国側の大学関係者が多数負傷した記述もありますが、中国人でも親日と反日が両方いるので(支那事変の時代もそう)、中国というのは一枚岩とは全く言えない国ではあります。ただ集団発狂状態になり易くモラル観の基準が違う人達が一定の割合でいる面は大きいでしょうね。

  • 2007/11/16(金) 17:08:52 |
  • URL |
  • 文太
  • [ 編集]

ぐい呑みさん

以前東海岸のダウンタウンのスラム隣接地域に住んでいた時に毎日のように見たのが、街じゅうにホームレスがいて、彼等はそこに車が止めてあれば「窓ガラスを壊して中の物を盗むのは当然の事」だと思っているし、「銀行には金があるんだから何で強盗しちゃいけないんだ?」「犯罪を犯したって刑を務めれば奇麗さっぱりクリーンだ」など犯罪への罪の認識が全くなかったり、金を恵んでもらえば感謝しないで「もっとくれ」だし、「阿Q正伝」のような世界はアメリカにもあります。例えば阿Qのように読み書きも出来なければ、自分が見聞きした事でしか価値観判断基準はない訳です。

一方、私の知っている中国人は例えばアメリカに留学などで来る人など、都市部出身のある程度の裕福層である筈なのですが、それにしても中国人はモラルや常識に関して個人差が凄まじいのです。恐らく共産主義になる以前の中国の凄まじい貧富と教育レベルの差が均質化するのはやはり数十年では足りないのかなという印象もあります。

つまりそれは罪悪意識の概念の基準が全く違う世界であって、例えば義和団事件や『阿Q正伝』で処刑見物を楽しみにする野次馬根性旺盛な民衆、大山事件や通州で猟奇殺害のついでに略奪をする中国人保安隊、西安で便乗して大騒ぎして日本人を殴ったついでに盗みを働く中国人学生、やはり時代が違っても文化と人の心は受け継がれるものなのでしょう。

  • 2007/11/16(金) 17:09:55 |
  • URL |
  • 文太
  • [ 編集]

しらないことばかりで、当時の内外の記事や資料をみると、やはり驚きますね。知った風にいる自分の無知が恥ずかしいです。当時の中国にいた日本をはじめとする諸外国の人々の、日記や記事や記録はもっと調べてみたいです。それにしても・・・大陸に関わらなければよかったのに、と思います。けれども後知恵では何とでもいえますね。
以前、旧制の女子校の記念写真集のような本をみたことがあります。日本のみならず、朝鮮半島や中国大陸にあった女学校の皆さんが、それぞれ写っていました(今でいう学年写真やクラス写真でしょうか)。地図上で、各学校が黒丸で記されていたのですが、大陸や半島にあった日本校の多いこと。日本人以外の生徒もいたのでしょうが、そこに通っていた日本人学生、その家族は、戦後日本に戻れたのだろうかと、胸が痛みました(図書館でみた本で、今は手元にありません。百科事典のような大きな分厚い本だったと思います)。

  • 2007/12/01(土) 04:17:59 |
  • URL |
  • こん
  • [ 編集]

こんさん

このエントリーの記事の場合は戦前に出版された本に収録されたものなので、『反日ワクチン』さんにテキスト起こしをして頂いたのでこうしてネット上でも見る事が出来るので、やはりネットの時代の恩恵ですね。

英語には「connect the dots」という言い回しがあります。これは「数多くの点を結び付けると全体像が見えて来る」などの意味で使われている言葉ですが、仰るように当時の日記や記事の記録を見て行けば、その積み重ねで全体像がよりリアリティを持って見る事が出来ると思います。

大陸に関わらなければ良かった・・・確かにその通りなのですが、当時の日本が何故そういう方向に進まざるを得なかったかと言うのも、当時の時代背景において様々な理由や思惑が複雑に絡み合った結果であった訳で、いい悪いで論じるのは難しくはあります。

当時の学校の生徒は無事であったら今でも存命している世代ですが、探せば意外と身近にも満州生まれの人もいて、どうやって帰って来たかの話も聞く機会もありましたが、本当に様々な状況があって幸運な人から不運な人まであったようですね。

  • 2007/12/01(土) 13:58:32 |
  • URL |
  • 文太
  • [ 編集]

盧溝橋事件をはじめ、大山事件などはシナ側の挑発行為であったと思います。
シナ兵がドイツ製ヘルメットを被っているのは不思議なことですね。ドイツ軍人がシナ軍を教育、訓練したといわれています。日本軍はシナ軍のドイツ製戦車を鹵獲していますから、ドイツのシナ支援は相当なものですね。(どこかで写真を見たことがあります。)
歴史の教科書には、当時の日本とシナの外交交渉について記述がないと言ってもよいと私は思います。

本当に残念なことです。

  • 2009/06/07(日) 23:45:30 |
  • URL |
  • no name
  • [ 編集]

レス

特に、昨年の北京五輪に関連して、聖火リレーなど世界各国での騒動における中国人の徹底抗戦ぶり、それからYouTubeなどネット上での中国人による凄まじい挑発行為なども、会話や解決の意思は全くなくただ頑なに相手に対する罵倒と侮蔑オンリーだったりなど、そうやって現代でも全く変わっていない彼等の様子を見れば、盧溝橋事件や大山事件で戦争の口実を作ったのはあちらであると確信せざるを得ないですね。実際のところ。

あちらから見れば、戦場になったのは大陸であり中国が日本を攻めた訳ではないという、そういう「分りやすい理由」で被害者意識が強いという点はやはり大きく、そういうイメージ的な問題で国際的アピールに限らず日本国内でも「日本が侵略した」というイメージになり易い点、不利である事には違いはないのですが。

日中の関係悪化や第二次大戦の構図が決まる以前にもともと独中は関係が近かったようなので、第二次上海事変の1937年というと微妙な時期でしょうね。

  • 2009/06/08(月) 14:45:58 |
  • URL |
  • 文太 (Red Fox)
  • [ 編集]

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