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今から69年前の12月1日、大本営陸軍部は中支那方面軍司令官に「海軍と協同して敵国の首都南京を攻略すべし」との
奥宮正武は南京攻略に参加した一人である。彼の著書『私の見た南京事件』には「十二月八日、常州に進出、そこを基地として、南京に向かって進軍中の第九師団の前面の敵の基地を爆撃した」と記されている。
10日、艦爆六機を率いて上海を発進し、南京に近付いていた第九師団の前方にある光華門を爆撃した。その時初めて、奥宮は同師団の先頭に立って敢闘中の部隊が脇阪部隊であることを知った…。
11日、艦爆隊は南京城内の故宮飛行場を爆撃、そこには支那軍の砲兵陣地があった。奥宮が空から見た皇軍の様子が目に浮かぶ。奥宮の目には軍の先頭に立つ日章旗もはっきり見えたであろう。陥落寸前の南京がそこにあった。
7日には蒋介石は密かに飛行機で逃亡していた。8日、南京の全ての城門に土嚢が積まれ閉鎖される。南京防衛軍司令官、唐生智は支那軍に対し、負傷兵入城禁止令を出した。つまり自軍の将兵を見捨てたのだ。その混乱は極めて深刻な状況だったであろう。*2 伝宣:勅旨を伝達すること
さて、ここで上海での三カ月に亘る激戦に勝利した我が軍が、なぜ残敵を追撃して南京までなだれ込んだのか…? 当時、政府のみならず軍中枢においても事変不拡大に腐心していた。石原莞爾なども同様の考えだったが、皇軍の威信をいたく傷つけられた事件が7月25日に発生した。
上海から南京まで約300キロ、昔から「南船北馬」[*5]と言われるとおり、南の地域、殊に長江沿いはクリークが多い。国民党軍は敗走しながら我が軍の追撃を遅らせるため橋を
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夫よあなたは強かった 骨まで凍る極寒に 背も届かぬクリークに 三日も浸かっていたとやら 十日も食べずにいたとやら よくこそ勝ってくださった |
と歌われている。このような苦境にありながらも、各師団は郷土の名誉を賭けて一路南京を目指したのである。敗走する敵と
* 暴戻(ぼうれい):荒々しく道理にそむいていること。残酷で徳義にもとること
*5 南船北馬:あちらこちらと続けて旅行をする事
第二次上海事変
昭和12年の七夕の日に起きた廬溝橋事件をきっかけに日中は事変を拡大、戦争の様相を
当時上海は海軍陸戦隊約5千名が守備していたが、8月9日に大山中尉が支那保安隊に銃殺される事件が起きた。支那側の言い分は「大山中尉他一名の兵士の二人で、支那保安隊が警備中の虹橋飛行場に車で乱入し銃撃してきたから、応戦して射殺した」である。こんな話が果たして信用できるだろうか…? 数で勝る支那軍が生意気にも海軍陸戦隊に挑戦してきたものであるのは明白である。
我が軍は上海沖に派遣していた空母三隻から艦爆を出動させ敵陣を攻撃した。続いて13日からは本格的な戦闘が開始された。政府も上海支援のため派遣軍を編成する。
14日からは世界初の渡洋爆撃が開始された。台湾や済州島はじめ、長崎の大村飛行場から飛び立った九十六式陸攻は海を越え、上海、蘇州、抗州などを爆撃した。いきなりの空襲は「戦場はまだ遠い」と安心していた支那人をさぞ驚かせたと同時に怒り狂わせたことだろう。空襲の不愉快さは経験ある方ならよく分かるはずである。
さて、三カ月に及ぶ激戦の末、11月11日に上海は占領された。あれほど頑強に戦った支那軍が、なぜ大混乱を起こして敗走したのか? 蒋介石が撤退命令を発令したのは11月9日である。もし、もっと早く計画的撤退をやっていれば、混乱は避け得ただろう。混乱に拍車をかけたのは、我が第十軍柳川兵団8万が抗州湾に5日に上陸した後であったことだ。支那軍には、日本軍による挟み撃ちの恐怖が迫ったことだろう。
蒋介石が上海の死守に固執していたのには訳がある。上海は南京同様、多くの外国人が居留する国際都市であり、当然各マスコミの特派員も多数滞在していた。つまり「日本の横暴」を宣伝して諸外国の同情と支援を得ようと言う算段だった筈だが、これが裏目に出て大変な犠牲を払うことになった訳である。
支那軍は数でこそ優勢だったが、日本軍の高い志気に加え海軍による航空支援や大砲や火器も勝っていた。そこへ増援部隊の上陸である。勢いに乗った我が軍は分散して敗軍を追撃、南京目指して突進する。飯も満足に喰えないままの一日70キロの追撃は無茶である…。ある兵は投降した捕虜に荷物を担がせたり、中には小銃まで捕虜に持たせた兵がおり、ばれて隊長にひどく叱られたこともあったという。いくらなんでも敵に銃を預けるなど笑い話のようだが、如何に強行軍だったかが伺える。
南京城攻撃
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11日の戦況を蘇州に司令部を置いていた松井石根は「軍は右より第十六、第九、第百四、第六師団を以て今朝より南京城の攻撃を開始す。城兵の抵抗相当強靭にして、我が砲兵の進出未だ及ばざるため、この攻撃に二、三日を要する見込み」と記している。すでに三方を包囲され、唯一の脱出口である揚子江方面も我が海軍砲艦が、機雷を除去しつつ南京城に迫っていた。南京守備を強行した唐生智は全ての城門を閉ざし、いわゆる背水の陣を敷いた。
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午後5時、唐は師長以上を集めて会議を開き、蒋の撤退命令を読み上げたのち、各指揮官に
夕暮れの市街火煙が炎々と燃え盛る中、支那兵は慌ただしく往来していた。唐自身は9時過ぎに脱出に成功していた。この部下及び一般市民をまったく無対策のまま放置して逃亡したのである。南京の悲劇と言われるものは我が軍突入以前にすでに悲惨を極めていたのである。
*7 殷々:大きな音が鳴り響くさま
南京陥落
さていよいよ南京陥落の日である。公式には13日午後4時、中山門から進攻した第十六師団が国民政府庁舎に日章旗を立てたときを陥落としている。城内には三方から我が軍約七万が突入、残敵掃討が始まる。城内は唐司令官の逃亡後、支那軍による放火略奪が頻発していた。我が軍は突入してすぐさま残敵掃討に着手する。路上に遺棄された武器や軍服から、敵は平服に着替えて安全区に逃げ込んだ公算が大きくなった。
「便衣兵」…これは南京だけでなく第一次大戦でも行われ、悲惨な経験から強く戒められていたものだ。南京で同じ悲劇が演じられたわけである。よく虐殺と言われるが、南京における犠牲者の半分は支那軍同士の衝突の結果であることを見落としてはならない。支那軍は上海での失敗を南京でまたやったのである。上海では柳川兵団の上陸に慌てふためき、南京では司令官の逃亡により混乱… 何一つ計画性のない抵抗がいたずらに犠牲者を増したものと言わざるを得ない。
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13日、夕刻陥落以降、南京城内は我が軍7万の兵士により徹底的な残敵掃討が展開された。上海から南京へ…皇軍として郷土の名誉のためにも手柄を立てたい一心の進軍だった。時の日本政府の優柔不断により、補給線の確保もままならない状態での南京占領は、当然物資の徴発をせざるを得ず、市民から見れば、敗走する国民党兵士以上に恐怖であっただろう。それは残念な略奪や暴行事件の原因となった。激戦に継ぐ激戦で気性も荒くなっていたのは無理からぬところだろう。
それに加えてウンザリするほどの捕虜をかかえ込み、各部隊の困惑は手記や戦闘詳報からも感じられる。大量の捕虜処分が問題視されているが、当時の占領軍に他に方策があっただろうか? 釈放しても武器を手に反撃に出ない確証はないのである。かと言って収容して与える食糧もなし…。更に残敵掃討が厳重を極めた理由として17日に予定された南京入城式典がある。そして軍司令官の中に朝香宮鳩彦王がおられたこともあり、万一にも不測な事態は許されない。それがあの容赦ない摘発に繋がったと言える。

南京入城
12月17日、午後1時30分、南京入城式が挙行された。邑江門より入城する皇軍の先頭は、馬上に跨る松井司令官である。このときの模様は新聞各社はじめ、ラジオでも放送された。この放送録音盤を復刻したものが昭和40年にNHKから発行された「昭和の記録」の中に収められている。
それはかすかなざわめきを背景に次のように伝えている。…こちらは南京でございます。南京の国民政府内の入城式場でございます。歓呼、天に湧き‥軍靴、地を覆す。我が待望の南京陥落は世界中の視聴を集めつつ、歴史的事実として実現致したのであります…
(次にアナウンサーが代わり路上脇からの実況かと思われるが)…松井最高指揮官の発声により、万歳の三唱でございます…(松井)大ぃ元帥陛下ぁ〜 ばんざぁ〜い ! ばんざぁ〜い! ばんざぁ〜い…。
しかし…戦いはこの後、更に八年も続くのである。
後記
『南京大虐殺』…
この言葉を聞くようになって久しいが、支那や連合国が使うならいざ知らず、日本人が平気で使うのはまことに違和感を感じます。愛国心とはなんぞやと改めて考えるとき、我々の親や兄弟ひいては先祖の苦労に想いを馳せることから始まるように思うんです。支那が言う『南京大虐殺』の実態は明らかに我が皇軍の戦果であり、そこで傷ついた兵隊さんにこそ我々は思うべきだと思います。
南京陥落万歳!! 皇軍精鋭、わけても出征愛読者諸氏に感謝を表し、併せて遙かに健康を祈ります。前線並びに銃後愛読者諸氏の熱烈な支持によって、わが『話』はひと月毎に発行部数が激増し、新年号は発売数日で売切、直接本社へ駆け付けられた方も余儀なくお断りした位。益々よい雑誌を作らねばと編輯部一同感激しています。 (昭和13年2月・編輯室打ち上げ話)から |
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Posted by jeffrojeffro (2007.3.15) |
2007.7.11『日本人よ日本人たれ!』(後記)
全文:mixiコミュニティ 2007.8.6
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