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南京事件考


光華門、昭和13(1938)年1月頃(日本海軍、第13航空隊撮影)、奥村正武『私の見た南京事件』(PHP研究所) 掲載写真 (電脳日本の歴史研究会)
 これまでもあきら氏のミクシィ日記から、通州事件の記事や清瀬一郎の東京裁判の冒頭陳述を紹介して来たが、今回は南京事件に関して昨年の暮れに11回に渡ってミクシィの日記で連載されたものをまとまった形に再編集した。1937年7月7日の北支事変(盧溝橋事件)から12月13日の南京陥落までを、当時をリアルタイムで経験されている世代のあきらさんならではの視点で、分かり易くまとめてあるので紹介させて頂く。




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南 京 事 件 考

 今から69年前の12月1日、大本営陸軍部は中支那方面軍司令官に「海軍と協同して敵国の首都南京を攻略すべし」との奉勅 (ほうちょく) [1]命令が発せられた。同日、大本営海軍部からも支那方面艦隊司令官に同様の趣旨の奉勅命令伝宣 (でんせん) [2] 。上海での激戦に勝利した我が軍は抗州湾に上陸した柳川兵団第10軍と合流、南京を目指す。4日は大混乱を起こして敗走する支那軍を追いつつ一路南京へ追撃の (あゆみ) を進めていた。翌5日には『私の見た南京事件』の著者、奥宮正武 (おくみやまさたけ) が上海の飛行場に降り立つ。

 奥宮正武は南京攻略に参加した一人である。彼の著書『私の見た南京事件』には「十二月八日、常州に進出、そこを基地として、南京に向かって進軍中の第九師団の前面の敵の基地を爆撃した」と記されている。

 10日、艦爆六機を率いて上海を発進し、南京に近付いていた第九師団の前方にある光華門を爆撃した。その時初めて、奥宮は同師団の先頭に立って敢闘中の部隊が脇阪部隊であることを知った…。

 11日、艦爆隊は南京城内の故宮飛行場を爆撃、そこには支那軍の砲兵陣地があった。奥宮が空から見た皇軍の様子が目に浮かぶ。奥宮の目には軍の先頭に立つ日章旗もはっきり見えたであろう。陥落寸前の南京がそこにあった。

 7日には蒋介石は密かに飛行機で逃亡していた。8日、南京の全ての城門に土嚢が積まれ閉鎖される。南京防衛軍司令官、唐生智は支那軍に対し、負傷兵入城禁止令を出した。つまり自軍の将兵を見捨てたのだ。その混乱は極めて深刻な状況だったであろう。
1 奉勅 (ほうちょく) 命令:陸海軍の命令
2 伝宣:勅旨を伝達すること


暴支膺懲 (ぼうしようちょう)

 さて、ここで上海での三カ月に亘る激戦に勝利した我が軍が、なぜ残敵を追撃して南京までなだれ込んだのか…? 当時、政府のみならず軍中枢においても事変不拡大に腐心していた。石原莞爾なども同様の考えだったが、皇軍の威信をいたく傷つけられた事件が7月25日に発生した。所謂 (いわゆる) 「郎坊事件」である。我が軍が故障した軍用電線を修理していた最中に支那軍に襲われたのである。

 この事件をきっかけに石原作戦部長も「徹底的に懲らしめられたし」と現地に打電する。29日付け東京朝日新聞は一面の見出しに『皇軍遂に膺懲 (ようちょう) [3]の兵を進む』と報じた。当時は「暴戻 (ぼうれい) [4]支那を膺懲」とよく言われていた。早い話「言ってもわからぬ支那はぶっ叩いてやらんとわからん」と言う事であるが、おかげで我が軍は補給も満足にないまま、「泥濘 (ぬかるみ) とクリークに苦しみながらの進軍となった訳である。

 上海から南京まで約300キロ、昔から「南船北馬」[5]と言われるとおり、南の地域、殊に長江沿いはクリークが多い。国民党軍は敗走しながら我が軍の追撃を遅らせるため橋を (ことごと) く破壊した。軍歌『父よあなたは強かった』の二番では…

  夫よあなたは強かった
骨まで凍る極寒に
背も届かぬクリークに
三日も浸かっていたとやら
十日も食べずにいたとやら
よくこそ勝ってくださった


と歌われている。このような苦境にありながらも、各師団は郷土の名誉を賭けて一路南京を目指したのである。敗走する敵と () えども、武器を持った軍隊には変わりなく、クリークの渡河 (とか) に手間取ると見るや、すぐさま襲撃してきたりと苦戦の連続だった。そして11月19日蘇州を占領する。
3 膺懲(ようちょう):懲らしめる
4. 暴戻(ぼうれい):荒々しく道理にそむいていること。残酷で徳義にもとること
5 南船北馬:あちらこちらと続けて旅行をする事


第二次上海事変

 昭和12年の七夕の日に起きた廬溝橋事件をきっかけに日中は事変を拡大、戦争の様相を (てい) してきた訳だが、我が国はアメリカなどから石油などを輸入していた関係上、あくまで「事変」として外交を進めていた。政府の不拡大方針に (かか) わらず、郎坊では軍の威信を傷つけられ、通州に於ける邦人虐殺事件は日本人をあまねく怒らせ、その上で戦火は上海に飛び火した。これが第二次上海事変である。

 当時上海は海軍陸戦隊約5千名が守備していたが、8月9日に大山中尉が支那保安隊に銃殺される事件が起きた。支那側の言い分は「大山中尉他一名の兵士の二人で、支那保安隊が警備中の虹橋飛行場に車で乱入し銃撃してきたから、応戦して射殺した」である。こんな話が果たして信用できるだろうか…? 数で勝る支那軍が生意気にも海軍陸戦隊に挑戦してきたものであるのは明白である。

 我が軍は上海沖に派遣していた空母三隻から艦爆を出動させ敵陣を攻撃した。続いて13日からは本格的な戦闘が開始された。政府も上海支援のため派遣軍を編成する。

 14日からは世界初の渡洋爆撃が開始された。台湾や済州島はじめ、長崎の大村飛行場から飛び立った九十六式陸攻は海を越え、上海、蘇州、抗州などを爆撃した。いきなりの空襲は「戦場はまだ遠い」と安心していた支那人をさぞ驚かせたと同時に怒り狂わせたことだろう。空襲の不愉快さは経験ある方ならよく分かるはずである。

 さて、三カ月に及ぶ激戦の末、11月11日に上海は占領された。あれほど頑強に戦った支那軍が、なぜ大混乱を起こして敗走したのか? 蒋介石が撤退命令を発令したのは11月9日である。もし、もっと早く計画的撤退をやっていれば、混乱は避け得ただろう。混乱に拍車をかけたのは、我が第十軍柳川兵団8万が抗州湾に5日に上陸した後であったことだ。支那軍には、日本軍による挟み撃ちの恐怖が迫ったことだろう。


 蒋介石が上海の死守に固執していたのには訳がある。上海は南京同様、多くの外国人が居留する国際都市であり、当然各マスコミの特派員も多数滞在していた。つまり「日本の横暴」を宣伝して諸外国の同情と支援を得ようと言う算段だった筈だが、これが裏目に出て大変な犠牲を払うことになった訳である。

 支那軍は数でこそ優勢だったが、日本軍の高い志気に加え海軍による航空支援や大砲や火器も勝っていた。そこへ増援部隊の上陸である。勢いに乗った我が軍は分散して敗軍を追撃、南京目指して突進する。飯も満足に喰えないままの一日70キロの追撃は無茶である…。ある兵は投降した捕虜に荷物を担がせたり、中には小銃まで捕虜に持たせた兵がおり、ばれて隊長にひどく叱られたこともあったという。いくらなんでも敵に銃を預けるなど笑い話のようだが、如何に強行軍だったかが伺える。



南京城攻撃

写真:朝日世界ニュース
 さていよいよ、舞台は南京城になる。9日には我が軍は南京守備隊に対し、降伏勧告のビラを航空機を以って城内に散布した。降伏期限は10日正午だった。しかし城内からは反応はなく、13時、総攻撃が開始される。そのころの南京城は前線から潰走 (ついそう) [6]してきた支那軍兵士、傷病兵、難民が中山門、中華門に殺到してきた。九日には入城禁止の措置を敷いたため更に混乱を増していた。

 11日の戦況を蘇州に司令部を置いていた松井石根は「軍は右より第十六、第九、第百四、第六師団を以て今朝より南京城の攻撃を開始す。城兵の抵抗相当強靭にして、我が砲兵の進出未だ及ばざるため、この攻撃に二、三日を要する見込み」と記している。すでに三方を包囲され、唯一の脱出口である揚子江方面も我が海軍砲艦が、機雷を除去しつつ南京城に迫っていた。南京守備を強行した唐生智は全ての城門を閉ざし、いわゆる背水の陣を敷いた。

写真:朝日世界ニュース
 さて、10日午後から始まった南京城攻撃は三方から一気に行われたが、唯一北側の脱出路、下関方面にも鳥龍山北側から揚子江沿いに南下した山田支隊と、他方南側から江岸に沿って北上した牛島支隊の展開をみて、南京城内の支那軍は完全に袋のネズミとなった。我が軍と支那軍の激戦は壮烈を極め、砲声殷々 (いんいん) [7]たる12日午後、唐生智は蒋介石からの撤退命令を受けた。

 午後5時、唐は師長以上を集めて会議を開き、蒋の撤退命令を読み上げたのち、各指揮官に夫々 (それぞれ) 夜6時から明朝6時までに南京撤退を命じた。日本軍の包囲を突破しての脱出を命じたのだ。撤退にあたり、日本軍に利用されないために、支那軍による城内重要建築物の放火破壊が始まった。第三十六師の中山北路に面する軍政部、鉄道部などを焼毀 (しょうき) したのを始め、一時間以内に市内の主要な建物は激しい火と煙に包まれた。

 夕暮れの市街火煙が炎々と燃え盛る中、支那兵は慌ただしく往来していた。唐自身は9時過ぎに脱出に成功していた。この部下及び一般市民をまったく無対策のまま放置して逃亡したのである。南京の悲劇と言われるものは我が軍突入以前にすでに悲惨を極めていたのである。

6. 潰走 (ついそう):戦いに負けて秩序無く逃げる事
7. 殷々 (いんいん):大きな音が鳴り響くさま


南京陥落

 さていよいよ南京陥落の日である。公式には13日午後4時、中山門から進攻した第十六師団が国民政府庁舎に日章旗を立てたときを陥落としている。城内には三方から我が軍約七万が突入、残敵掃討が始まる。城内は唐司令官の逃亡後、支那軍による放火略奪が頻発していた。我が軍は突入してすぐさま残敵掃討に着手する。路上に遺棄された武器や軍服から、敵は平服に着替えて安全区に逃げ込んだ公算が大きくなった。

 「便衣兵」…これは南京だけでなく第一次大戦でも行われ、悲惨な経験から強く戒められていたものだ。南京で同じ悲劇が演じられたわけである。よく虐殺と言われるが、南京における犠牲者の半分は支那軍同士の衝突の結果であることを見落としてはならない。支那軍は上海での失敗を南京でまたやったのである。上海では柳川兵団の上陸に慌てふためき、南京では司令官の逃亡により混乱… 何一つ計画性のない抵抗がいたずらに犠牲者を増したものと言わざるを得ない。

写真:朝日世界ニュース
 先にも書いたように紅卍会の埋葬報告を一応信用するとして、南京城外での埋葬数4万2000、南京城内に於ける埋葬数は2000に満たない。この数字の語るものは極めて重要である。

 13日、夕刻陥落以降、南京城内は我が軍7万の兵士により徹底的な残敵掃討が展開された。上海から南京へ…皇軍として郷土の名誉のためにも手柄を立てたい一心の進軍だった。時の日本政府の優柔不断により、補給線の確保もままならない状態での南京占領は、当然物資の徴発をせざるを得ず、市民から見れば、敗走する国民党兵士以上に恐怖であっただろう。それは残念な略奪や暴行事件の原因となった。激戦に継ぐ激戦で気性も荒くなっていたのは無理からぬところだろう。

 それに加えてウンザリするほどの捕虜をかかえ込み、各部隊の困惑は手記や戦闘詳報からも感じられる。大量の捕虜処分が問題視されているが、当時の占領軍に他に方策があっただろうか? 釈放しても武器を手に反撃に出ない確証はないのである。かと言って収容して与える食糧もなし…。更に残敵掃討が厳重を極めた理由として17日に予定された南京入城式典がある。そして軍司令官の中に朝香宮鳩彦王がおられたこともあり、万一にも不測な事態は許されない。それがあの容赦ない摘発に繋がったと言える。





南京入城

 12月17日、午後1時30分、南京入城式が挙行された。邑江門より入城する皇軍の先頭は、馬上に跨る松井司令官である。このときの模様は新聞各社はじめ、ラジオでも放送された。この放送録音盤を復刻したものが昭和40年にNHKから発行された「昭和の記録」の中に収められている。

 それはかすかなざわめきを背景に次のように伝えている。

…こちらは南京でございます。南京の国民政府内の入城式場でございます。歓呼、天に湧き‥軍靴、地を覆す。我が待望の南京陥落は世界中の視聴を集めつつ、歴史的事実として実現致したのであります…

(次にアナウンサーが代わり路上脇からの実況かと思われるが)

…松井最高指揮官の発声により、万歳の三唱でございます…(松井)大ぃ元帥陛下ぁ~ ばんざぁ~い ! ばんざぁ~い! ばんざぁ~い…。

 しかし…戦いはこの後、更に八年も続くのである。



後記

『南京大虐殺』…
 この言葉を聞くようになって久しいが、支那や連合国が使うならいざ知らず、日本人が平気で使うのはまことに違和感を感じます。愛国心とはなんぞやと改めて考えるとき、我々の親や兄弟ひいては先祖の苦労に想いを馳せることから始まるように思うんです。支那が言う『南京大虐殺』の実態は明らかに我が皇軍の戦果であり、そこで傷ついた兵隊さんにこそ我々は思うべきだと思います。

 週刊文春の前身である月刊『話』から当時の文章をあげておきます。

南京陥落万歳!!

 皇軍精鋭、わけても出征愛読者諸氏に感謝を表し、併せて遙かに健康を祈ります。前線並びに銃後愛読者諸氏の熱烈な支持によって、わが『話』はひと月毎に発行部数が激増し、新年号は発売数日で売切、直接本社へ駆け付けられた方も余儀なくお断りした位。益々よい雑誌を作らねばと編輯部一同感激しています。
(昭和13年2月・編輯室打ち上げ話)から



以上あきら氏の日記より
南京入城 (6'04")
jeffrojeffro. 『これが真実、南京入城だ!』. YouTube, March 15, 2007.



オリジナル:あきら氏の日記 2006.12.5-17『南京事件考』 (本文)/
2007.7.11『日本人よ日本人たれ!』(後記)
全文:mixiコミュニティ 2007.8.6



支那事変関連エントリー:
歴史から消された広安門事件と廊坊事件 (2007.7.11)
清瀬一郎:東京裁判冒頭陳述 (2007.7.19)
南京事件考 (2007.8.7)
東條英機元首相 公的遺書 全文 (2007.8.14)
英語・中国語版Wikipediaにおける大山事件と第二次上海事変の記述 (2007.8.18)
中国の死刑写真とBBC『南京大虐殺』の酷似 (2007.10.28)
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猟奇的な大山中尉殺害事件 (2007.11.14)
通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会 (2009.3.20)
清朝時代の処刑写真を日本のものとして展示しているサイト (2009.9.26)
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コメント

日本にいながら中国のプロパガンダに騙されて日本を貶める日本人・・・っていうは、どういう意図があるんでしょうねえ。

  • 2007/08/07(火) 18:28:59 |
  • URL |
  • bao #uP0j07LY
  • [ 編集]

文太さん
スレ違いですが、Leftyへのあなたのコメント、痛快でした。昔mumurさんの世界の遼遠氏とは、同じ東大でも彼は落ちますね。ぱ行君が「東大での証拠を出せ」なんて迫ったのも昔でした。
このコメは此処に相応しくないけれどお許し下さい。

  • 2007/08/07(火) 19:19:09 |
  • URL |
  • 戦後教育を悲しむ #-
  • [ 編集]

>>baoさん
あきらさんはつまり、当時の日本人の視点から書いてると言う物がとても自然なのが、やはりリアルタイムの方ならではと思うんですよ。日本側の視点ではこうだった筈なのが、戦後すっかり否定されてただの殺人鬼にされてしまった訳ですが。戦後の日本人の節操の無さと帰還兵に対する冷たさはよく聞く所ではありますが、この前の選挙を見ても日本人の節操のなさは全く変わってないなと思いますね。


>>戦後教育を悲しむさん
そう言えばそんな事がありましたね。ネット上でのHNとは匿名ですから、つまり本来は身元や地位を隠すための物なのに、そこで学歴やキャリアを出すのは、何となく滑稽な感じはするんですよ。実名や実社会での芸名などを出さない限り証明出来ない事ですからね。

「東大にだってバカはいる」はいいんですが、そうすると「東大に入れなかった人はもっとバカだ」に限りなく近い意味になってしまうので、だからああいう発言は大学内だけに限っておいた方がいいんですよ。

遼遠氏と言えば名前に以下のリンクをつけてました。
http://mod.mods.jp

  • 2007/08/08(水) 15:23:33 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

文太さん
参院選の結果は・・・

正直がっかりしました。ヤレヤレです。

  • 2007/08/08(水) 23:32:30 |
  • URL |
  • bao #uP0j07LY
  • [ 編集]

baoさん
南京の大屠殺記念館の建設は我が国の社会党が支那を焚き付けて作らせたもんですからね。真の敵は国内にいるってことです。こんなんだから国家反逆罪やスパイ防止法なんか出来るわけがないですね。とにかく愛国心=軍国主義なんてほざく馬鹿が多すぎます。

  • 2007/08/09(木) 21:57:53 |
  • URL |
  • あきら #-
  • [ 編集]

>>baoさん
また55年体制崩壊の時の間違いを繰り返すのかと、やはりがっかりしましたね。と言ってもあの時は自民党もヤバかったので。

  • 2007/08/11(土) 18:02:18 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

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