![]() |
1937年(昭和12年)7月29日午前2時過ぎに北京の東の通州 (現在は北京市通州区) で起こった「通州事件」。
これは日中の軍事衝突が開始した7月7日の盧溝橋事件から、本格的全面戦争状態に突入した8月13日の第二次上海事変の間に連続して起こった日本人襲撃惨殺事件で最大規模のものであり、当時通州にあった冀東防共自治政府の中国人保安隊が、通州に居住していた日本人と朝鮮人の軍人と民間人230人を残虐な方法で虐殺した事件である。
7月25日の廊坊事件、26日の広安門事件に続いて起こったこの日本人大量虐殺事件は当時日本でも大々的に報道され、それによって対中世論が一気に悪化したと、当時を知る方はそのように話している。
まだ死体も全部は片付けられていない事件4日後の8月2日、生々しい状況下での通州事件の生存者による座談会が行われ、それが昭和12年10月号の月刊『話』に掲載されている。
盧溝橋事件から3週間、そしてその11日後の第二次上海事変に始まる日中の8年にわたる泥沼戦争に入る直前の現地の混乱した状況下でのリアルタイムでの生の証言、そして日中が本格戦闘に入って間もない同年9月発売の月刊『話』に掲載されたこの座談会はまた、その当時のリアルタイムの臨場感を持って伝わって来るものがある。
なおこの座談会は運良く難を逃れた無傷の生存者のものであり、『東京裁判却下 未提出弁護側資料』に見られるような現場に駆けつけた軍関係者の目撃証言の凄惨さとは違った角度であるが、歴史的事件の体験談だけでなく、事件4日後の時点での現地在住民間人が何を見聞きして知っていたかは、これは超一級の貴重な記録である。
この記事が掲載された月刊『話』は現在の週刊文春の前身。
日支事変現地特ダネ特撮!!
通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会 |
座談会前記
天人
門に残る無数の弾痕
![]() |
調査員は皆、何回も通州に来たことがある人達ばかりだったが、城門を見ると「ひどくなっているなぁ」と
これは三十日の夕刻、保安隊反乱の報を聴き、南苑攻撃中の〇〇部隊が救援を命ぜられて到着した時、この城門を楯に頑強に抗戦した敵を撃滅した際の乱闘を物語るものである。門の
城門を入ると、ムッとした屍臭が鼻を突いて
![]() |
支那服のもの、洋服のもの和服のもの色々様々な服装をしていたが、流石は日本婦人だけあって髪の乱れもかき上げとっさの間にも身だしなみだけは忘れないゆかしさには感心させられた。男子は頭と両手を包帯した者が一人いたきりで後は皆、死体の収容だとか調査、仮埋葬、後かたづけなどに働きに行っているそうだ。
その内、ある婦人が進み出てつゝましやかに「御苦労様で御座います」と挨拶をしたが我々は胸がせまって何と返答して良いやら言葉に窮した。…「なんともお気の毒で御座いました、我々はどうお慰めしてよいやらわからない位です」と分別のありそうな調査員中の一人が答えた。
一行は思い思いの調査に取りかかった。
![]() 昭和12年の絵葉書『北支那事変』より ◆暴虐の跡◆ 上・通州南門/下・通州特務機関壁の支那軍弾痕 (yutakamaharukita) [B] |
凄絶!
![]() 被害甚大の近水楼。 (各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』/反日ワクチン) [C] |
日本人の家屋は必ず見る影もなく荒らされて居り、破壊された家屋を見て、あそこもやられたなと思うと必ずそれが日本人の家屋なのである。死臭がするなと思うと道路といわず、溝といわず
最後に
きれいな蓮池に囲まれ、玄関の前と後の方向に池を
玄関からそれに続く広間などは滅茶苦茶で
![]() 近水楼の蓮池は現在は通州西海子公園。 (2008, uYYu/Panoramio) [D] |
夜になってから〇〇隊長の許しを得て一室を提供してもらって生き残った人々の生々しい死線突破の体験談を聴くことにした。
私は北平から来た〇〇の東氏、天津から来た××の吉村氏と相談して
銃痕の散らばった壁や血沫の飛ぶドアーを背景にした、激戦の跡の一室で兵隊さんの食事の卓を囲んで座談会をやるのである。これ程、凄絶味のある座談会は恐らく前代未聞であろう。
…出席者… | ||
北京よりの調査員 | 東 達人 | |
天津よりの調査員 | 吉村 四郎 | |
生存者 | 森脇 高英、竹原 重夫、廣田 利雄、大橋松一郎、朴 永良 | |
本誌特別特派記者 | 武島 義三 |
![]() 通州事件の生存者。1937年8月。 (毎日新聞社「昭和史第8巻 日中戦争勃発」より/Wikipedia) [E] |
私は三十日の正午頃はじめて北平の〇〇で通州がやられたという報を聴きましたが
今夜は皆様より詳しくお話を承って、よくその真相を伝え一日も早く冀東地区を
森脇 廬溝橋事件勃発の時には別に関心は持たなかったようですが、次々と起こった北寧、平関両鉄道沿線の戦闘に対してはやはり動揺していた様であります。
南京系の新聞が相当、入り込んでいますし、竹原 然し冀東地区内に居る自分らは大丈夫だと言う自信は十分あった事は確かです。
支那人は多少でも自分らの生命や財産を脅かされる懸念のある時は一刻も
記者 通州事件の勃発する前後の様子や保安隊の蜂起する迄の様子をお話下さい。
廣田 我が
森脇 これは僕の考えですが保安隊には相当前から根強く中央よりの指令に働いてる煽動分子が入り込んでいたと思います。少なくも保安隊の幹部は完全にその指示に
即ち…蒋介石は日本軍に対し二十四時間以内に北支より撤退せよ、
ところが死に物狂いになってやってみたけれども少数の通州日本軍が意外に頑強で、これをやっつけるのを苦心している内に、援軍が到着するし、空襲はされる、危ないと思ったのでその鬱憤を無力の居留民の虐殺で果たし、行きがけの駄賃に金目のものを掠奪してしまったのです。
記者 当時、通州にはどの位の同胞がいたのですか。
大橋 正確な数字が判らないのです。民会や警察の名簿に載っていたのは内地人男八十名女二十二名、半島人男百四名、女七十八名、計二百九十五名とかいうことですが、北平からわざわざ避難して来た者も四、五十名居る様ですし、名簿に載ってない旅行や視察に来た人もいますから困るのです。ですから、三百八十名位の見当なのです。
竹原 それも何処か記者 今日
竹原 皆で百三十名位じゃあないですか。屍体は百二十体位ですから、合計二百五十。
記者 すると未だ百二三十の人々が生死不明ということになりますね。
大橋 これが大変なのですよ。氏名がわかっている人で屍体の発見されないのや、屍体があっても氏名や身許が判らないのもあります。判明者は荼毘に付していきますが、判らないのは腐敗しますから仮埋葬します。
![]() 破壊された通州日本居留民会事務所。本記事中では「民会事務所」と表記。(騰訊公司) [F] |
日本人を皆殺しにしろ!!
森脇 僕は六月末迄、今度殺された〇〇君の塀の中の一間を借りて厄介になっていたのですが、大連に置いてあった家内を呼び寄せることになってので、一間では不便だと言うので〇〇君のボーイに頼んでおいた所が〇〇
僕の使っていたボーイはこの家を探してくれた〇〇君のボーイの弟で十七歳で性質もよく何でも安心してさせることの出来る子供でした。その兄弟は二人でやはりこの塀の中の一室を借りて
あの日、パンパンと銃声を聴いたのは三時十五分頃だったのですが、寝間の背面に窓を作って置くのは不用心だと思ってつぶして
妻に色々と注意の言葉を与えていると小劉が血相を変えて大変です保安隊が“日本人を殺せ”と言って暴れ狂っています。〇街の角の韓国人(半島人)の家に侵入して皆殺しにした、と言うのです。それで僕もこれは大変だ保安隊の
すると大劉が
そして
倉庫の背面には上の方に明りとりの小さな窓が一つあるきりでとても暗いのです。道路の方を見てやろうと思って俵を下から段々積み上げて台をこしらえて、それに上って窓から外を見ました。すると西門の方向に黒煙が
すると
その時、大変なことにはこの倉庫に鍵がかかっていないのです。いかんと思うと
そのまゝ夜となり、持ち込んだ懐中電灯をつけてパイナップルの缶詰で
それから二時間位して日本兵が一個分隊位通るのを見て力一杯旗を出し、日本人だ万歳ッ、日本人だッ、と腹一杯叫びました。これでやっと救われたのです。外に出て太陽を見た時は実に嬉しかったです。こんなわけですから
![]() 昭和12年の絵葉書『北支那事変』より ◆戦捷を捧げて◆ 上・敵塹壕の一部/左・通州城頭に立つ皇軍の歩哨/右・通州日本特務機関の正門 (yutakamaharukita) [G] |
糞壷の中にかくれて助かる
竹原 僕の家は〇〇館と背中合わせの支房家屋で塀の中には僕が一人だけ日本人なのです。三間房子を借りていましたが、一番塀よりの部屋を便所にしていたのです。
すると直ぐ十五、六名位の暴漢が物凄い叫びをあげて塀の中に這入って来ました。
やれやれ助かった、と
そうだ、あそこがいゝと思うと、外部の様子をうかがって、そっと枕木を押し上げて飛び出し、外に出ていきなり足場もない塀に爪を立てゝかけ登り無事中に入りました。こゝなら大丈夫だと思って
それから何時間たったか判りませんが空に飛行機の爆音をきゝました。二十九軍が襲撃して中央軍の爆撃機の空爆かと思ったのです。ところが何んと嬉しいことに日の丸をくっきり描いた日本軍の飛行機です。僕はその時声そ立てられなかったが二、三回撥ね上りました。大丈夫助かる、とその時初めて思いました。そうなると急に命が惜しくなってキチンと地上に
夜があけきってから銃声は時々する位にとだえた時〇〇館の方に
森脇 今の竹原君の便所なぞは計画的にやったのでなく、不意に気がついたらしいですが、いい思い付きだったんですね。それが倉庫などだったら、何かいゝ物が入っていないかと思ってあけて見るのが人情ですが、便所だと中身がわかりきってますからね。
吉村 廣田さんも大橋さんも支那人の家に逃げこんだ組ですね。
![]() 通州城の城壁。西門を南方から映したものと見られる。 (1925か34?)(Zuo Quan) [H] |
嗚呼名も知れぬ義人[23]の死
廣田 前夜大橋君が僕の
すると二、三百名の保安隊が
「大変だ、やはり叛乱だ」と思わずぞくっとしていよいよ戸にかくれる気がしました。すると散々に荒らして我々がいないので、そのまま出て行きましたが、大橋君の部屋から日本刀を、僕の部屋から南州(注・西郷隆盛)の額を持ち去られたのは残念だったです。
これで危機一髪の難関は大橋 そうだ、あの声は今でも耳に残っているね、普通なら「助けてくれ」と叫ぶ
廣田 それから「静かにしろ、だまれ」という支那語の叱声が聞こえたが尚も「日本人はかくれろ」…と言うものだからズドンと銃声がしたのです。多分殺されたのでしょう。
大橋 声をきいただけですが惜しい男を殺しましたね。
廣田 あの時、王は震えていたが、蒲団から顔を出して「あんた達は顔が白いから、大橋 全く今じゃ笑っているけれどあの時は真剣だったですよ。
それからこゝに頑張り通して、王の食いあましの
記者 どの方も生死の紙一重の様な危機を突破せられたのですね。ありがとうございました。
亡くなった同胞の為に黙祷をさゝげましょう。
当時語られ当時出版されたこの座談会を見ると、当時現場にいた人々がどういう暮らしをしどういう価値観を持ち、何を考え、どういう体験をしたかがリアリティを持って伝わって来る。
Googleマップで見る現代の通州。通州城の濠は道路になり、城壁や城門は痕跡すら確認出来ない。
查看大图
米軍による1942-45年の通州城の地図 (一方眼は1000ヤード=914.4m)
![]() (U.S. Army Map Service, 1942-1945/University of Texas) [I] |
![]() 通州城内見取図 (『大東亜戦争への道』より/東アジア黙示録掲載) [J] |
通州事件は「反乱」か?
![]() 冀東防共自治政府。中央が殷汝耕主席 (1935.11.24) (博愛論壇) [K] |
中国側の視点からは、日本の支配を受けた中国人保安隊が反旗を翻して日本人を殺害し、日本の傀儡政権冀東防共自治政府の漢奸 (中華の裏切り者)、殷汝耕主席を拘束し、祖国に忠誠を尽くしたという英雄的行為である。
上記の地図と通州城内見取り図を見る限りでは、東西2.7km、南北が0.5~1.7kmの、面積にして3平方キロ程度と見られる通州城内は、西側に冀東政府と日本軍守備隊用地、そして東側に日本特務機関と保安隊施設があり、それらを中心にその周りを住宅などが取り囲んでいる構造に見える。
“およそ380人の邦人居留民は城内に分散して居住している”[>>1]と座談会中で証言されているように、通州城の住民の大半が中国系であり、それら通州城内居住の中国系住民は冀東自治政府側の関係者や、日本人に雇われた者や日本人相手の商売人と見られ、叛乱を起こした保安隊も冀東政府に雇われた中国人である。
そして通州城内の様子を知り尽くした保安隊は、大量の住宅から日本人の住居のみを選んで殺戮破壊行為を行い、通州在住の邦人の6割半を殺害している。
通州事件の英語名称は『Tungchow Mutiny』(通州の反乱) であり、例えば英語版ウィキペディアでは、通州城の門外に駐屯していた国民党29軍に日本が再三退去を要求し、29軍の宋哲元司令官が通州から日本を締め出したい冀東政府の殷汝耕主席と密約を結び、通州事件前日の7月28日の日本軍による国民党29軍の掃討の後に冀東保安隊の蜂起が起こったと説明されている (殷主席は通州事件以後も一貫して日本側の人物であり、この説に根拠はない[>>2])。
座談会では廣田利雄氏が29軍の武装解除は27日夜から28日未明にかけてと証言しており[>>3]
、その後支那駐屯歩兵第2連隊 (
これを「反乱」と呼ぶ根拠としては、日本の傀儡政権に雇われた中国人保安隊が冀東政府と駐留日本軍に反旗を翻したというものだ。
しかし女性子供を含む非武装の民間人虐殺を含めれば、言葉の定義としてこれを単純に「反乱」と呼んでいいのかは眉唾物であり、これは丸っきり中国側の視点から名付けたものである。
冀東防共自治政府区域図。左外の「北平市」が北京、その右側の「通县[県]」が通州。
![]() (百度百科) [L] |
1935年の北支五省、冀東政府と満州国の位置関係。
![]() (第一次大戦) [M] |
通州事件を起こしたのは正真正銘の中国人に他ならない
![]() 冀東政府が組織した「華北民衆自立団」 (1933) (新華網) [N] |
しかし通州保安隊の二人の隊長(張慶餘と張硯田)は宋哲元の国民党第29軍とかねてから接触を持っていたと書かれた張慶餘 (1895-1963) の回想記が1986年に公表されている。[>>6]
張自身は通州事件後は国民党軍に属し最終的に中将まで昇格した人物だ。1946年に退役してから共産革命以降も1963年に没するまで天津に在住しており[>>7]、清国時代の河北省に生まれ国民党軍に所属、そして後の中華人民共和国に属した人物は正真正銘の中国人である。
冀東政府が賠償をしようがしまいが、首謀者が事件後に国民党軍に属しているという経緯を踏まえれば、これが「日本側の問題であり日本と冀東で解決積みだから中国は関係ない」というのは、「民族」の定義と、中国が常日頃共産党政権の正当性を主張する根拠にしている「継承国家」という観点を全く無視した事になるのでこれは全くの見当違いである。
中国で通州事件は「同胞による武装蜂起」と認識されており、中華人民共和国が「シナ継承国家」であり「一つの中国」のスローガンを掲げている限りは、通州事件は「中国人が起こした事件」という事に他ならない。
事件二日後に報じられた保安隊顧問夫人の証言
以下は、当時報じられた東日毎電 (現在の毎日新聞) の記事で、通州保安隊総顧問の村尾昌彦大尉夫人の証言を報じたものだ。
ここでも座談会と同様に虐殺のついでに略奪行為を行う中国人の様子、そして租界外のロバ引きまでが中国人でないと疑うと暴力を振るうなど、租界外では危険な状況であった様子も伝わって来る。
村尾夫人が通州から逃れ12km徒歩とロバに乗って北京の日本警察署に辿り着いた様子は、事件2日後の7月31日に報じられている。
註:ここでの引用文は戦前の記事のため、読み易さのために句読点やフリガナを追加、漢数字をアラビア数字に置き換え、現在一般的でない漢字表記や送り仮名表記を現代のスタイルにしているので(表記の変更で文章自体は同じ)、原文はリンク先の『反日ワクチン』さんのエントリーを参照下さい。
鬼畜も及ばぬ残虐
東日大毎特電 1937年7月31日
通州反乱保安総隊顧問、村尾昌彦大尉夫人が頭に包帯をして顔その他に傷を受け、30日深夜、命からがら冀東政府長官秘書・孫錯氏夫人 (日本人) とともに北平[1]交民巷[2]に逃げ込んだ。身震いが止まず反乱隊の残虐ぶりをポツリポツリと語った。
「保安隊が反乱したので、在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち、29日の午前2時頃、守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーッと近水楼や特務機関の前に殺到して来て、10分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。
近水楼の前は日本人の死体が山のように転がっています。子供を抱えた母が三人とも死んでいるなど、私は台所の方に出て行って隠れていると、従卒がそこらにあるもの片っ端から万年筆までとって表へ行きました。そのうちに外出していたうちのボーイが帰って来て、外は危ないというので、押入の上段の布団の中にもぐっていたところ、さっきの従卒が十人ばかりの保安隊員を連れて家探しをして押入れの下まで探したが、上にいた私には気づかず九死に一生を得ました。
家の中には主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が四つ残っていました。それを主人の唯一の思い出の品として私の支那鞄の底に入れ、主人の死体には新聞をかけて心から冥福を祈り、ボーイに連れられて殷汝耕長官の秘書・孫一珊夫人の所へ飛び込み30日朝まで隠れていましたが、日本人は皆殺しにしてやるという声が冀東銀行の顧問・三島恒彦氏が近水楼で殺され、冀東政府の島田宣伝主任等も虐殺されたらしく、近水楼にいた日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港惨劇も丁度このような恐ろしさであったろうと思います。
反乱した張隊長は毎日家に遊びに来て「好朋友、好朋友」などといい非常に主人と仲良しだったのに、こんなことになるとは支那人ほど信じ難い恐ろしい人間はないでしょう。三人の遺骸は必ず私の手で取りに行きます。」
なお危険地区を突破した夫の唯一の形見を肌身離さず持ち帰った沈着なこの夫人の行動は避難邦人の賞賛と感激を受けて、同夫人に対する同情は
村尾夫人は通州内で直接暴行を受けた記述がないため、頭の包帯やその他の傷は移動中のロバ引き等から受けた暴行とも考えられる。当時の半ば無政府状態の大陸で女二人でよくぞ生きて辿り着いたものだと思う。
![]() 昭和12年の絵葉書『北支那事変』より ◆仇敵一掃◆ 上・郎坊支那兵営の残骸/下・通州城南門より残敵掃蕩 (そうとう) (yutakamaharukita) [O] |
通州事件の原因の諸説
通州事件の原因としては、1) 27日未明の国民党29軍の掃討作戦中に関東軍飛行隊が誤って冀東保安隊幹部訓練所を攻撃した「誤爆説」、2) 国民党側が日本が大敗したとラジオ放送を行い冀東保安隊を不安にさせ寝返るようにしむけた「デマ放送説」、そして近年では、3) 先述の通州保安隊隊長と国民党29軍との「密約説」などがあるが、この座談会を見る限りでは当時現地で一番言われていたのは「デマ放送説」のようである。
この座談会で森脇氏は、“国民党軍が各地で日本軍を殲滅し各要所を占拠し日本軍に撤退を通告し、従わなければ空爆を行う”[>>8]というプロパガンダ放送の具体的な内容を証言している。
これは北京特務機関補佐官として現地にいた寺平忠輔大尉が27日に“日本軍が29軍に惨敗し、29軍が近く通州を屠る事を決議した”との南京放送ニュースを聞いたと著書で書いた事[>>9]、また座談会では広田利雄氏が27日夜から28日朝にかけての29軍武装解除を冀東保安隊が手助けした際に多少の動揺があったとの証言をしているため、これらのつじつまが合う。
また同盟の安藤記者が28日夕方に同様のラジオ放送を聞き[>>10]、陸軍省新聞班の岩崎春茂砲兵少佐はデマ放送だけでなく北京の新聞社も度々号外でデマ報道を行っていたと証言しており[>>11]、この座談会でも現地在住邦人が実際に放送を聞いていたという証言が複数ある事から、いずれにしても「デマ放送説」が当時日本側では一般的な認識であったようである。
また、座談会で森脇氏は保安隊内部に工作員がいたと思われるとの証言を行っている。
本人は推測であると念を押してはいるが、後述の朝日特派員の報道や中国側の資料[>>12]でも「密約説」が当時既に発覚していたとの記述がある事から、これも「密約説」発覚を暗示させる証言となっている。
一方で、7月27日未明の日本軍による冀東保安隊宿舎への誤爆事件は29軍への掃討作戦の最中に起きたものである。
ここで森脇氏が「(日本軍の) 援軍が到着するし、空襲はされる、危ないと思ったので (逃げるついでに居留民を襲った)」[>>13]と証言しており、また広田氏の“27日夜から28日朝にかけての29軍武装解除の時に冀東保安隊に動揺の様子があった”[>>3]と言う証言は「誤爆説」と関連している、又は「密約発覚説」を暗示しているとの解釈も出来る。
実際、田中隆吉陸軍中佐は「誤爆説」が原因で「デマ報道説」が拍車をかけたと証言している[>>14]。
戦前には「デマ放送説」、1986年の張慶餘隊長の回想録が出るまでは「誤爆説」、そして近年は「密約説」が有力と言われているようだが、前者2つは既に複数の証言があり、また回想録でもプロパガンダや誇張、根拠のない虚言が入っている可能性も考慮すれば、複数の要因が重なって起きたと見るのがむしろ自然ではないかと思われる。
なお、信夫清三郎氏によれば事件の発表経緯として、当初は冀東保安隊ではなく中国人部隊の犯行として発表するように支那派遣司令部の橋本秀信参謀長から指示があった[>>15]との事だが、事件2日後の7月31日の東日大毎特電 (前述) では既に通州保安隊による反乱と報じられており、結局のところ日本側の報道管制は行われてはいないようである。
当時の中国人の認識
![]() 冀東防共自治政府 (中国中央電視台) [P] |
7月7日の盧溝橋事件から、近藤二等兵殺害事件 (7/14)、廊坊事件 (7/25)、広安門事件 (7/26) などの日本人襲撃殺害事件が同月に連発しており、国民党側としては恐らく冀東や満州国に対して不安を拡げ日本の影響力を弱めるための心理作戦として行われた意味合いもあったのは、それがプロパガンダ放送の内容とリンクしている辺りからも想像出来る。
一方で、日本側の対中世論が決定的に悪化したのがこの時期であり、『暴支膺懲』として通州事件も大々的に報じられたようだが、しかし一方で座談会に書かれている事は本土とはいささか温度差があるようにも見える。
当時の証言を見れば、通州の中国人は保安隊から脅されてもとぼけて日本人を匿い[>>18]、保安隊の事を「土匪」と呼び本音では匪賊扱いをしており[>>19]、どうもここら辺の冀東関係者の中国人の一部は心底日本人の味方であったような一面も見える。
中国人でも裏切り者として処刑される危険もあったであろう事は中国人の洋車夫が震えて隠れていた事からも推測される。
尤もこれは運良く難を免れた生存者の証言であって、中国系住民の中には日本人を庇った人達もいれば、便乗して略奪を行った層もいたのであろう。
しかし例えば座談会で森脇高英氏が“支那人は生命や財産を脅かされる懸念のある時はさっさと逃げて行くが、冀東地区内は安全という安心感から人々は平素に過ごしていた”[>>20]という証言をしており、武島記者のレポートでは通州事件の後には通州城はもぬけの空になっている。
要するに多くの住民にとっては日本寄りの冀東政府だろうが、蒋介石の国民党軍だろうが、匪賊が跋扈している城外で暮らすよりかは自分達が安全でさえあれば有利な方に付く、そして保安隊が暴れれば便乗して略奪も行い、危なくなればさっさと逃げてしまうという非常に風見鶏的な民衆であった様子が伺える。
その中で日本人と同居したり日本人に可愛がられていたようないい暮らしをしていた層が恐らく日本人に義理立てをし、中国人同士で「土匪」を見下していたという、彼等の中での階層意識みたいなものも垣間見える。
また、森脇氏は中国人の雇い人に口止めをするのに多少の金を渡しているとの証言もしており[>>21]
、金さえ渡せば味方になってくれるという、ここら辺も義理人情より実利主義の生々しい文化的側面が見えり。
そこには対華21ヶ条要求以降の強烈な反日教育で育った軍人、取り合えずならず者が掻き集められたにわか仕立ての匪賊保安隊、そして全く実利主義な民衆という、当時の大陸は何とも危なっかしい、今では考えられないような凄まじい危険地帯に日本人が進出していたという状況に見える。
猟奇的殺害方法
![]() 通州事件直後の現場状況。 (各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』/反日ワクチン) [Q] |
また清朝末期の『凌遅刑』の写真でも見られるように苦痛を与え肉体破壊の限りを尽くす事へのこだわりも、これも近代まで受け継がれた中国の伝統であり、この通州事件でも非常にそれが色濃く表れた記述が見られる。
通州事件と言えばやはりその殺害方法の残虐さで広く知られるものだが、武島記者のレポートでも言及されているのが、殺害だけでなく更に死体損壊を行うという猟奇的行為である。
殺すだけでなく建物をわざわざ荒らして破壊の限りを尽くす点、そして家捜しをして金目の物を奪ったり「戦利品」「記念品」として持ち去るなど、盗賊行為を娯楽として行っている描写がここでも見られ、これは支那事変の一連の日本人襲撃殺害事件に共通したものである。
なお、冀東保安隊が国民党軍への寝返りを意図しただけなら、ここまでの死体損壊や破壊・略奪行為を行う必然性はない訳である。
なぜここまでの残虐行為を行う必要があるのかが現代の感覚ではなかなか理解が出来ないものがあるが、やはり中国の伝統的「屠る」という行為に何か意味があると考えるのが一番しっくり来ると思う[>>22]。
それは恐らく肉体破壊系の殺害方法は、中国においては「処刑」の意味を持っており、また身ぐるみ剥がすという行為は死者を辱める事であり、また戦利品の略奪という盗賊行為は勝利の証であるという事などである。
特に20世紀前半までの中国では公開斬首処刑というものが盛んに行われており、それが近代では特殊銃弾で頭部を粉砕するという銃殺刑[>>23-24]になったのも、それは斬首刑の伝統の名残と考えられるふしもあり、肉体破壊に対するこだわりというものは、武島記者のレポートでも言及されているように、特に下半身への虐行が顕著であるという点、そこには性的辱めの意図があり、これはまさしく死者を辱める事が最大目的であるという事を物語っている。
近年では中国での死刑囚からの臓器窃取が中国国内の移植全体の95%を占める[>>25]事が国際的に非難をされており、中国ではなかなか献体が出ない原因として儒教の影響が根底にある「埋葬は無傷で」という根強い文化的願望が原因と指摘されている。[>>26]
そういう意味でも中国では「死者への冒涜」という概念が非常に強く、前近代の斬首刑から近年の銃殺刑に至るまで、刑罰の重さによって殺害方法が違うという事は現在でも行われているようであり[>>27]、中国の「屠城」など死体損壊の伝統の持つ意味はやはり「処刑」であり「死者への冒涜」という意図が明確にある行動と言える。
日本人1万5000人殺害計画
一方で、通州事件から1週間後の8月5日には天津の朝日特派員によって、通州事件と同時刻に天津租界を包囲襲撃 (第二次天津事件) した中国正規軍に天津の日本租界の日本人と朝鮮人居留民1万5000人の虐殺計画があり、日本陸軍飛行隊の爆撃の支援で失敗に終わったという記事が報じられている。
邦人大量虐殺の陰謀[天津事件の真相]
朝日特派員 永田正義 1937年8月5日
【天津五日発・朝日特派員 永田正義】通州の邦人虐殺事件は、かの惨虐非道なる尼港事件を彷彿させるもので、9000万同胞の腸を断たしめる[1]ものがあるが、天津日本租界及び軍閥系機関襲撃の支那敗残兵の遺棄した命令書や、捕虜の自白、憲兵隊、領事館、警察署などの調査によって恐るべき計画が立てられて居た事が判明した。
情報を総合するに、去月29日未明、天津租界及び軍関係諸機関を襲撃した支那軍は、天津保安隊
27日夜、日本租界及び日本軍を、29日午前2時を期して襲撃すべしとの指令が発せられた。敵は28日夕刻から南開大学[5]、市政府、保安総局、警備隊本部などに集結し武装して各部署に
敵の襲撃目標は軍関係
即ち、わが軍の第一線出動によって天津における兵力の不足を探知した支那軍は、その手薄に乗じて支那駐屯軍司令部を占領して、北支における我軍の中枢機関を潰滅せしめ、各地に善戦して居る第一線部隊との連絡を断ち窮地に陥れ、〇〇飛行場の襲撃によって
最も戦慄すべきは、日本租界を襲撃し
支那兵は第一回の襲撃失敗にも懲りず、29日
結局日本軍に察知されたか何かで作戦失敗だったようで、これだけ大規模な計画が何故失敗に終わったのかがはっきりと書かれていない戦時中の記事ではあるが、ここでも既に国民党29軍から命令を受けた天津保安隊が通州保安隊とも連携をして、各地同時多発テロ的な計画の一つが通州事件であったとの「密約説」が、命令書や自白や調査でその情報を得た日本側が当時既にそれを報じており、結局のところ「誤爆説」「デマ放送説」「密約説」の全てが当時既に言われていたという事のようである。
一斉蜂起の計画に関しては“「29日に反乱を決行する」と南京放送で流れた”と座談会で森脇氏が証言しており、これもまたつじつまが合う。
一枚岩でまとまっていなかった中国人をまとめるために国民党が非常に盛んにプロパガンダ戦を行っていた様子が複数の証言から分る。
この記事の4日後の8月9日に上海の虹橋空港で大山中尉惨殺事件が起こり、8月13日の第二次上海事変に至っている。
現在中国側の支那事変関連の文章を見れば、通州事件は蜂起で、大山事件は日本が侵略戦争の口実にするための捨て駒で、とにかく日本が「侵略戦争」を起こしたくて仕方が無かったという記述ばかりなのが非常に嘘っぽい。
対して日本側の報道を見る限りではむしろ、中国の親日派をどんどん引き込んで満蒙や華北の独立政権樹立を支援している日本をとにかく追い出したくて仕方のない国民党側があの手この手を尽くして同時多発テロなど起こし、日本側がその対応に追われているようにしか見えない。
これはさしずめ、イラク戦争におけるアメリカのような事態と通じるものすらある。
![]() 昭和12年の絵葉書『北支那事変』より 左・天津支那街東馬路に於ける皇軍の活動/右・天津県政府の残骸/下・天津東停車場前の戦後 (yutakamaharukita) [R] |
![]() 昭和12年の絵葉書『北支那事変』より ◆糧道輸送戦線◆ 上・天津日本租界河水上に皇軍の活動/下・天津特別第三区に於ける糧秣集結 (yutakamaharukita) [S] |
余談:
2003年の西安西北大学の反日暴動との共通点
また、通州事件で思い出すのがやはり2003年9月30日に西安で起こった西北大学寸劇事件の反日暴動であり、ここでも正体不明の暴徒が日本人を探し出しては暴行と略奪を行い、一方で西北大学側の教師や学生の一部はむしろそれを阻止していたという状況で、日本人を匿った中国人も多数。
ここでも共青団によるものと見られるデマビラに煽動された暴徒が少なからずいた事、それが学生だけでなく地元のならず者が中心になっての暴動であった点、そして江沢民の反日教育世代が中心になった暴動という点で、その構図としては非常に共通点が見られる。[>>28-29]
66年前と違って虐殺や死体損壊は起こらなかったまでも、西北大学共産党委員会は「もし適時に制止しなかったら、西北大学の空前の大災禍となったであろう」と事件の事を書いている。[>>30]
半世紀以上経ってもまだ似たような構図の暴動が起きるという事は歴史は繰り返すと言うか、これはまさしく民族性に他ならない訳であり、その背景を理解しなければなかなか本質は見えて来ないのだろうと思う。
![]() 共青団と見られる反日ビラ (数碼映像倶楽部) [T] |
![]() 西北大学国際文化交流会館に押し掛ける群衆とそれを阻止する大学側 (数碼映像倶楽部) [T] |
中国の反日デモ その後
TBS ニュース23 2003年12月11日 (6'52")
後書き
ここのところ当ブログの支那事変関連の複数のエントリーがウィキペディアで参考リンクにされた関係で、2年近く前のエントリーは今見るといろいろ不満が多く、最近はこれらのエントリーを手直しをしたり必要な追加情報を加えたりしていたが、通州に関しては当時は私も持て余すテーマであって、結果的に記事以外の部分をほぼ完全に全て書き直す事になったので、新エントリーとしてアップする事にした。
この月刊『話』は知人のHNあきらさんが携帯電話でテキスト起こしをしてミクシィ日記で紹介されたものをベースに、戦前の記事のため読みにくい部分にフリガナや註釈を追加して2007年7月16日にエントリーにしたものだが、今回のエントリーでは座談会記事以外は全て新たに書き下ろし、『反日ワクチン』さんから関連記事2本を加えたものである。
通州に関しては様々な本が出てネット上でも様々なサイトやブログで扱われており、海外で一次資料にあたれない状況でこういう有名な事件に手を出すという無謀な事をやるとろくな事がないのであるが (笑)、主に座談会を中心にして関連情報と合わせてみるというコンセプトにしてみた。
なお、二次資料ながら通州に関して書かれた日本語ソースは大幅に『南京事件ー南京事件-日中戦争 小さな資料集~ゆうのページ』さんに依存しているが、現在ネット上で見られる情報としては一番詳しく情報量が多くなおかつ主観に偏らない姿勢において信頼の置けるサイトであると思う。
参考サイト:
・『南京事件ー南京事件-日中戦争』(小さな資料集~ゆうのページ)・『支那人が避けて通る恥部 ── 通州事件』 (帝国電網省 2001.1.7)
・『通州事件の捜査ファイル…封殺された虐殺70周年』 (東アジア黙示録 2007.8.5)
支那事変関連エントリー:
・歴史から消された広安門事件と廊坊事件 (2007.7.11)
・清瀬一郎:東京裁判冒頭陳述 (2007.7.19)
・南京事件考 (2007.8.7)
・東條英機元首相 公的遺書 全文 (2007.8.14)
・英語・中国語版Wikipediaにおける大山事件と第二次上海事変の記述 (2007.8.18)
・中国の死刑写真とBBC『南京大虐殺』の酷似 (2007.10.28)
・上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (2007.11.4)
・日本人捕虜の残虐処刑写真に関する中国人の議論 (2007.11.9)
・猟奇的な大山中尉殺害事件 (2007.11.14)
・通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会 (2009.3.20)
・清朝時代の処刑写真を日本のものとして展示しているサイト (2009.9.26)
脚註:
- ^
大橋 正確な数字が判らないのです。民会や警察の名簿に載っていたのは内地人男八十名女二十二名、半島人男百四名、女七十八名、計二百九十五名とかいうことですが、北平からわざわざ避難して来た者も四、五十名居る様ですし、名簿に載ってない旅行や視察に来た人もいますから困るのです。ですから、三百八十名位の見当なのです。
竹原 それも何処か一廓を定めて日本人の地帯でも作って其処にでもいたならばまだしも、これだけが城内各方面にちりぢりばらばらに住んでいたのですから、尚、酷いのです。 - ^ これは台湾国防部史政局の『抗日戦史』を参考文献とする国民党側のソースであり、しかし殷汝耕は日本に留学し日本人を妻に持つ人物であり、その後に中華民國臨時政府や南京国民政府と一貫して親日政権に参加し、1947年に漢奸として処刑されているため、この説の信憑性は非常に低いと見られる。 Wikipedia. "Tungchow Mutiny".; サーチナ. 『【今日は何の日】1935年:関東軍の華北分離が実現』, 2008/11/24(月) 08:35.
- ^
其の為に通州門外に駐屯して居た約一個大隊の二十九軍の一部の不穏な動揺の色ありとの情報があったので、二十七日の夜から二十八日の払暁にかけて、日本軍が空陸呼応して攻撃し、終に敵を沈黙させて全員の武装解除をしたのです。この武装解除の時には通州保安隊の一部も駆けつけてその手助けをした位です。この時から保安隊には少し動揺の様子があったのです。
- ^ 中村粲. 『大東亜戦争への道』. 展転社, 1990. (昭和史の真実. 『惨!通州事件』, 2007/08/05 10:53).
折もおり、通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かい、留守部隊は藤尾小隊40名、山田自動車中隊50名、それに憲兵、兵站(へいたん※補給の事)、兵器部その他を合わせて110名程度の微弱な兵力でしかなかった。
- ^ これは秦郁彦氏の受け売りと見られる。
秦郁彦. 『中村粲氏への反論 謙虚な昭和史研究を』. 諸君 1989年11月号, 216. (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件への視点』).当時の日本の新聞も大々的に宣伝したものだが、実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となっておこした反乱によるもので、いわば飼犬に手を噛まれたようなもの。
秦郁彦. 『現代史の争点』. 文春文庫 , 2001, 229. (東瀛論説. 『秦郁彦 『現代史の争点』 (文藝春秋)』).通州事件は、「実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となって起こした反乱によるもの」であって、中国側の日本にたいする虐殺とはいえないこと。 - ^ 岡野篤夫. 『通州事件の真相』. 正論 1990年5月号, 225-227.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件の引き金』).
- ^ 網易NetEase. 『1937年通州事變:一場起義偽軍対日軍民的殺戮』, 2007.6.5. 12:24.
張慶餘(1895---1963),字賀軒,河北滄県申家莊人,1916年畢業於北京陸軍模範団歩兵科。属任直隸軍連、営、団、旅長等職,1933年任冀東特種警察隊第一總隊隊長。1935年11月改任偽冀東保安隊第一総隊隊長,1937年7月率部起義,転保定、洛陽、西安,於1938年隱居四川金堂県什坊鎮。後被委任為国民党軍委会中将参議。1946年夏,退役与家人定居天津,直到病逝。
張慶餘(1895-1963),字賀軒。河北滄県申家莊出身。1916年に北京陸軍模範団歩兵科卒業。軍連、営、団、旅長などの職を勤める。1933年に冀東特種警察隊第一総隊隊長に任命される。1935年11月には冀東保安隊第一総隊隊長に就任。1937年7月に部下を率いて武装蜂起をし、保定、洛陽、西安を転々とし、1938年に四川金堂県什坊鎮に隠遁。後に国民党軍事委員会の中将参議を勤める。1946年夏の退役後、家族と共に天津に定住。病死。網易NetEase. 『1937年通州事件:武装蜂起の傀儡軍による日本人軍民の殺戮』, 2007.6.5. 12:24. - ^
即ち…蒋介石は日本軍に対し二十四時間以内に北支より撤退せよ、然らざれば三百台の飛行機を以て、大挙、北平、天津を空爆するぞと通告せり…とか、支那軍は至る処に大勝を博して日軍を潰滅し北平、天津、豊台は完全に支那軍が占拠し、廊坊は奪還せり…とか支那軍飛行機は、満州国を襲撃しシンヨウ(奉天)市内は火災を生じ錦州も同様にて、目下暴動反乱が蜂起せり…とか、蒋介石は目下鄭州にあり全軍の指揮に当たっていると言う様なのですが、
- ^
寺平忠輔. 『盧溝橋事件』 (読売新聞社, 1970), 369-371.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件の引き金』).
確か七月二十七日ごろと記憶するが、北京特務機関がキャッチした南京放送ニュースは次のようにいっていた。
「日本軍は盧溝橋の戦場において、我が優勢な二十九軍と交戦の結果、支離滅裂の敗戦に陥り、豊台と郎坊とは完全に我が手に奪還してしまった。
北京及び天津方面に在る日本居留民は、家財をまとめ、目下陸続、満州、朝鮮乃至本国に向って引き揚げを急いでいるが、今日の情勢をもって推移すれば、是軍が我が華北一帯から、完全に姿を消してしまうのもここ旬日を出ないであろう。
現に我が中央軍は、津浦、京漢両鉄道によって、陸続華北の戦野に兵を進めつつあり。また蒋委員長も、今すでに河南省鄭州に達し、一両日中には保定に赴いて自ら戦線を督励するはずである」
そして最後に
「なお、最近北京における軍事会議の結果、蒋委員長は近く二十九軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにして、満州失地恢復の第一声を挙げる事を決議した」と叫んでいる。 - ^ 秦郁彦. 『盧溝橋事件の研究』. (新風社, 1948), 317.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件の引き金』).
通州で反乱にぶつかり九死に一生を得た同盟の安藤記者も、二十八日夕方に冀東政府内で同主旨のラジオ放送を聞いているから、張慶餘らはこのデマに踊って反乱に踏み切ったのかも知れない。誤爆や萱島連隊の移動は、それを促進する材料となったのであろう。
- ^ 岩崎春茂. 『戦の北支より帰りて』. 支那事変 戦線より帰りて. (朝日新聞, 1937.8.25), 48-49.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件の引き金』).
支那側は、或は南京の方面からラヂオ放送に依りまして、又天津及び北京に於きましては新聞社は各々号外を発行致しまして次のやうなことを発表して居ります。「支那軍は二十八日豊台方面の日本軍を殲滅し、目下日本軍は各方面に潰走中である」といふ宣伝をぢゃんぢゃんやつたのであります。
- ^ 「保安隊広大官兵憤憤不平,難咽這口屈辱気,保安隊第一総隊隊長張慶余立即把第二総隊隊長張硯田及教導総隊沈維乾找来密談:“城南的戦鬥和日機轟炸教導総隊営地,已経激起保安隊官兵的義憤,我們怎麼辦?”張慶余首先微求二人的意見。沈維乾説:“不是魚死就是網破。依我看,現在就可以動手。”張硯田有些顧慮:“我們的行動已經暴露了,日本人已有了準備,動手以後再同29軍接應不上,全軍就要覆沒。”」; 百度百科. 『通州事件』.
- ^
ところが死に物狂いになってやってみたけれども少数の通州日本軍が意外に頑強で、これをやっつけるのを苦心している内に、援軍が到着するし、空襲はされる、危ないと思ったのでその鬱憤を無力の居留民の虐殺で果たし、行きがけの駄賃に金目のものを掠奪してしまったのです。
- ^ 田中隆吉. 『裁かれる歴史』. (新風社, 1948), 47-48.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件の引き金』).
この軽爆隊は軽率にも、二十九軍の一大隊を友軍と誤まり、友軍である冀東保安隊を敵と見て痛烈なる爆撃を浴びせた。冀東保安隊は激怒した。そして攻撃を中止して二十九軍と合流し叛乱を起した。殊にこの叛乱に拍車を掛けたものは日本軍が南苑に於て大敗を喫したとの宣伝であつた。
- ^ 信夫清三郎. 『聖断の歴史学』. (勁草書房, 1992/06), 115-116.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件への視点』).
<では発表します>と言って、私が部屋を出ようとすると、この発表を好ましく思っておらなかった橋本参謀長(秀信中佐)は「保安隊とせずに中国人の部隊にしてくれ」との注文だった。勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私は、ものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った。
- ^
信夫清三郎. 『聖断の歴史学』. (勁草書房, 1992/06), 115-116.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件への視点』, 115-116).
居留民の家は一軒のこらず襲撃をうけ、掠奪と殺戮にあった。掠奪には保安隊員だけでなく市民も加わった。日本人の旅館近水楼の掠奪は徹底的であった。...
戦史家児島襄は、「在留邦人三百八十五人のうち幼児十二人をふくむ二百二十三人が殺され、そのうち三十四人は性別不明なまでに惨殺されていた」と指摘し、「生き残った者は、かろうじて教会に逃げこみ、あるいは例外的な中国人の好意でかくまわれ、中国服を着用して変装できた人々であった」としるした。 - ^ 鳥飼研究所. 『近衛文磨首相の暴支膺懲発言と上奏文』.
- ^
すると直ぐ十五、六名位の暴漢が物凄い叫びをあげて塀の中に這入って来ました。「日本人在那児」 (日本人は何処にいるか) と言うのです。誰も答えません。すると誰かゞ知っているらしく僕の家に飛び込んでガラガラ家財道具をひっくりかえしながら探していましたが、そのうち外に出て他の五軒の支那人の家を起して一々中に入って調べていました。「那児去了摩」(何処へ行ったか) と聴くと「不知道」 (知らん) と答えるばかりです。
- ^
廣田 あの時、王は震えていたが、蒲団から顔を出して「あんた達は顔が白いから、若し此処へ土匪が来たときに大人と思われて危ないから、土間の隅にある釜のススを塗れ」と言われて二人はあわてて塗りましたっけね。
- ^
竹原 然し冀東地区内に居る自分らは大丈夫だと言う自信は十分あった事は確かです。其の証拠に事変が起こってからでも公園に夕涼みの散歩をする者の数は多く、白河の岸で雲雀を鳴かせている人達は平素と変わりありませんでした。支那人は多少でも自分らの生命や財産を脅かされる懸念のある時は一刻も愚図々々 しないで何処かへ遁げて行きますよ。
- ^
そして若しこの中にいるのを密告でもされるといけないと言うので粮桟の男達四人と大劉小劉に五円宛、番頭に十円の札をくれてやりました。
- ^ Higashinakano, Shudo. "The Nanking Massagre: Fact versus fiction". (Tokyo: Tendensha, 1998). English Edition by Sekai Shuppan (Tokyo: Sekai Shuppan, 2005), 329. (英語版より訳).
【屠城】 中国において、降伏を拒絶する敵軍を滅ぼす事を屠城と言う。諸橋轍次編全13巻の『大漢和辞典』では、軍に関する章『荀子』でその例として『不屠城』(ここでの「屠城」とは「城を陥れて城中の人を殺戮すること」である)が挙げられている。紀元前3世紀に活躍した荀子は、屠城をしないよう兵士に訓戒を出している。その単語「屠る」は抵抗する敵の城壁を破壊し、その城砦都市の民衆をまるで獣のように虐殺する攻撃者の行動を表す。「屠城」と、単に城砦都市を攻め落とす意味の「拔城」とはその意味に明確な違いがある。
同辞書によると「中国の軍人のリーダー達の『堅壁清野』戦術、つまり城壁を強化し野を焼き払う事、それは征服する敵に戦利品を残さない軍事的戦術である」とある。その作戦が行なわれる時、征服軍は食べ物も隠れ家も労働者も得ることは出来ない。その「堅壁清野」は4世紀まで遡った「晋書」の時代にも言及されている。「城壁は強化され、畑は焼かれ、何も残らない」と。蒋介石が南京戦で行なったように、その作戦が20世紀まで行なわれていたことは周知の事実である。諸橋轍次編『大漢和辞典』(大衆館1955-60)第4巻162ページを参照。 [訳=岩谷] (原文:英語)
【屠城】 40 トジヤウ 城を陥れる。城を陥れて城中の人を殺戮すること。
〔荀子、議兵〕不屠城。
〔楊注〕屠、謂毀其城、殺其民、若屠者然也。
〔後漢書、袁紹傳〕屠城殺吏。(諸橋轍次編『大漢和辞典』(大修館) より) - ^ 呉弘達. 『中共利用死囚屍体制作塑化人体標本』. 看中国, 2008年2月15日. [魚拓]
呉弘達. 『中共はプラスチネーション人体標本制作に死刑囚を利用』. シークレット・チャイナ, 2008年2月15日.據我們掌握的情況,法警大都用特殊子弾,頭部往往被打得粉碎,甚至半個頭顱飛失。
私達が把握している状況では、司法警察は特殊銃弾を用い頭部を往々にして粉砕、頭の半分が消し飛ぶに至る。 - ^ 博訊新聞のサイトでは死刑執行で頭部を粉砕された死体の写真が多数掲載されている。 博訊新聞網. 『震撼図片』, 2004-2006.
- ^ Zhang, Luqing, Yunfeng Wang, Ming Xiao, Qunying Han and Jiong Ding; Department of Human Anatomy, Nanjing Medical University, Nanjing, China; University Medical Library, Nanjing Medical University, Nanjing, China
"An ethical solution to the challenges in teaching anatomy with dissection in the Chinese culture" in Anatomical Sciences Education. (American Association of Anatomists, 2008). Abstract cited in Wiley Inter Science.
張露青、王雲峰、肖明、韓群穎、丁炯;南京医科大学人体解剖学部;南京大学医学図書館. 『解剖学実習教育の中国の文化におけるチャレンジへの倫理的解決法』. (アメリカ解剖学協会, 2008). 概略はウィリー・インターサイエンスに掲載. - ^ Congressional Executive Commission on China Annual Report 2006, p. 59; note 224, p.201: ‘‘Organ Transplants: A Zone of Accelerated Regulation’’ [Qiguan yizhi: jiakuai guizhi de didai] [器官移植:加快規制的地帯], Caijing Magazine [財経雑誌] (Online), 28 November 05, reporting that over 95 percent of organs transplanted in China come from executed prisoners. Cited in Wikipedia. Reports of organ harvesting from Falun Gong in China.
中国に関する議会・政府調査委員会. 『年次報告2006』, p.59; note 224, p. 201: 『器官移植:規制地帯の加速』, 財経雑誌, 2005年11月28日号, 95%以上の中国での臓器移植は死刑囚のものとの報告。英語版ウィキペディア. 『中国における法輪功からの臓器収穫の報告』の脚註より。 - ^ 筆者の知人の文革世代の中国人の証言によると、重罪が銃殺刑になるとの事。
- ^ 思いつくまま. 『呂寧思+何亮亮:西安西北大学事件』, 2006-06-23 16:02:10.
[何亮亮:] 西北大学共産党委員会の通告を含め、関連報道によると、実際に多くの身分のわからない外部の人が参加していますが、多分ルンペンか、社会のゴミでしょう。彼らはこの件を利用して騒ぎを起したわけですが、彼らはどれだけ中日関係の問題を理解しているでしょうか?彼らはどれだけ西北大学の3人の演技を理解しているでしょうか?ですから、私はこの事件は非常に深刻だと思います。中国社会の一部にはいくつかの問題があることがこの件から見て取れます。
- ^ 水谷尚子. 『西安・反日学生暴動 日本人留学生 「恐怖の一夜」を語る』. 文芸春秋 2003/12/10 2004年1月号. Cited in 西安留学生寸劇事件@news.
- ^ 思いつくまま. 『呂寧思+何亮亮:西安西北大学事件』, 2006-06-23 16:02:10.
何亮亮:今言ったのは西北大学内の事情、西北大学学生のこの演技に対する反応ですが、第2の事情、いわゆる「反日」デモについて話したいと思います。これは絶対に「反日」デモではありません、一種の反社会的な暴力行為です。西北大学共産党委員会はすでにはっきりと述べています。日本料理店を壊し、物を焼き、詳しいことはわかりませんが、西北大学共産党委員会は次のように書いています。すなわち、もし適時に制止しなかったら、西北大学の空前の大災禍となったであろう、と。「大災禍」(原語「浩却」)というのは漢語では極めて深刻な言葉です。私の記憶では「文革」を形容する時に、中国当局はこの言葉を使ったことがあります。ですから、当時を経験した人にとっては記憶は鮮烈です。
写真:
- ^ 毎日新聞社. "Occupied Tongzhou by IJA.JPG". 「昭和史第8巻 日中戦争勃発」. Cited in Wikipedia.
- ^ yutakamaharukita. 『絵葉書●北支那事変●通州南門 特務機関室』. Yahoo!オークション. [魚拓]
- ^ 皇徳奉賛会出版部 (宮居康太郎・編). 『支那事変戦史 後編 - 各社特派員決死の筆陣』, 1937年12月18日刊; Cited in 反日ワクチン. 『通州事件特派員特電』, 2007年7月5日.
- ^ uYYu. 『通州西海子公園』, Panoramio.
- ^ 毎日新聞社. "Survivor of Tungchow Mutiny". 「昭和史第8巻 日中戦争勃発」. Cited in Wikipedia.
- ^ 庭軒-創造一個愿美的國度. 『大東亞史觀』, 2008年05月23日 13:28. 騰訊公司. [魚拓]; 大台灣共和國 -戰鬥時刻『大東亞史觀』, 2008年11月25日 18:59. [魚拓]
- ^ yutakamaharukita. 『絵葉書●北支那事変●通州日本特務機関の正門 通州城』. Yahoo!オークション. [魚拓]
- ^ 撮影年代不明。同ページのコレクションに1924年と1935年撮影の写真が多いため、それらと同年代と見られる。太陽の位置から北面ではないため、角の見張り塔と門の位置関係が一致するのは西門のみ。 Zuo Quan. "Tung-chow wall". Picasa, Aug 21, 2006.
- ^ China City Plans, U.S. Army Map Service, 1942-45. "Tungchow" 1:50,000 1942 (6.3 MB) Eastern China. University of Texas Libraries.
- ^ 中村粲. 『大東亜戦争への道』. 展転社, 1990. Cited in 東アジア黙示録. 『通州事件の捜査ファイル…封殺された虐殺70周年』, 2007/08/05 10:53.
- ^ 独眼烏鴉 [投稿] . 『百年漢奸榜』. 博愛論壇, 2004.2.11 14:06:25.
- ^ 百度百科. 『冀東防共自治政府』.
- ^ 別宮暖朗. 『北支工作』, 第一次大戦.
- ^ 高航 [編]. 『抗戦全景--局部抗戦階段』 ~「抗戦烽火:長城抗戦[組図]」. 新華網.
- ^ yutakamaharukita. 『絵葉書●北支那事変●郎坊支那兵営 通州城南門』. [魚拓]
- ^ 中国中央電視台. 『審判漢奸(組図)』, 2008.11.24 14:06:25.
- ^ 支那事変戦史; 反日ワクチン. 『支那事変支那軍の挑発』, 2007年4月29日.
- ^ yutakamaharukita. 『絵葉書●北支那事変●天津 支那街東馬路 東停車場前』. [魚拓]
- ^ yutakamaharukita. 絵葉書●北支那事変●天津日本租界白河水上 特別第三区』. [魚拓]
- ^ 致命一撃. 『西安事件図片(自西北大学兵馬俑)』, 2003.10.31. 数碼映像倶楽部.
当ブログからの引用・転載に関して
当ブログはリンクフリーとしますが、引用や転載に関しては以下の条件においてフリーとします。条件を満たしている限りはその都度許可は必要ありません。
1. 引用元の明示(作者不明の怪文書として拡散しない)2. 内容の改変をしない(改変する場合は改変者の責任における編集である事を明記)
3. 営利目的に用いない。
なお当ブログにおける記事、写真、動画資料などの引用はフェアユースの条件または権利者の了解において行っているもので、アフィリエイトサイトの場合は条件が異なります。それらの二次転載によって権利者とトラブルになった場合は当ブログとしては責任は負いかねます。