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通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会



 1937年(昭和12年)7月29日午前2時過ぎに北京の東の通州 (現在は北京市通州区) で起こった「通州事件」。
 これは日中の軍事衝突が開始した7月7日の盧溝橋事件から、本格的全面戦争状態に突入した8月13日の第二次上海事変の間に連続して起こった日本人襲撃惨殺事件で最大規模のものであり、当時通州にあった冀東防共自治政府の中国人保安隊が、通州に居住していた日本人と朝鮮人の軍人と民間人230人を残虐な方法で虐殺した事件である。

 7月25日の廊坊事件、26日の広安門事件に続いて起こったこの日本人大量虐殺事件は当時日本でも大々的に報道され、それによって対中世論が一気に悪化したと、当時を知る方はそのように話している。

 まだ死体も全部は片付けられていない事件4日後の8月2日、生々しい状況下での通州事件の生存者による座談会が行われ、それが昭和12年10月号の月刊『話』に掲載されている。
 盧溝橋事件から3週間、そしてその11日後の第二次上海事変に始まる日中の8年にわたる泥沼戦争に入る直前の現地の混乱した状況下でのリアルタイムでの生の証言、そして日中が本格戦闘に入って間もない同年9月発売の月刊『話』に掲載されたこの座談会はまた、その当時のリアルタイムの臨場感を持って伝わって来るものがある。


 なおこの座談会は運良く難を逃れた無傷の生存者のものであり、『東京裁判却下 未提出弁護側資料』に見られるような現場に駆けつけた軍関係者の目撃証言の凄惨さとは違った角度であるが、歴史的事件の体験談だけでなく、事件4日後の時点での現地在住民間人が何を見聞きして知っていたかは、これは超一級の貴重な記録である。

 この記事が掲載された月刊『話』は現在の週刊文春の前身。


写真:1937年7月30日、通州事件翌日の通州。南門から北門方面を見る。 (毎日新聞社「昭和史第8巻 日中戦争勃発」より/Wikipedia) [A]

[『中国の処刑文化と支那事変』トップページに戻る]



月刊「話」昭和12年10月号
日支事変現地特ダネ特撮!!
 通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会 
血河屍山 (けつがしざん) [1]の現地で天人 (てんじん) [2] (とも) (ゆる) さゞる暴虐を語る!!断腸[3]痛憤 (つうふん) [4]未曾有 (みぞう) [5]の座談会だ
1 血河屍山 (けつがしざん):死体が山のように積み重なり、血が多く流れて河のようになること。激しい戦いのあとのさま、2. 天人 (てんじん):天意と人事、3. 断腸 (だんちょう):はなはだしく悲しみ苦しむこと、4. 痛憤 (つうふん):大いに憤慨すること、5. 未曾有 (みぞう):未だかつてない

座談会前記
天人 (とも) に赦さゞる通州大惨劇の跡を追う
武島義三

 門に残る無数の弾痕

 通州惨劇の悲報が伝えられてより、憤怒と焦燥と憂慮の (うち) に四日間の時日 (じじつ) が経過した八月二日、実地調査の為に派遣せられることゝなった××通州調査隊のトラックに私は便乗する事が出来た。北平 (ペーピン) 〔註・現在の北京〕通州間の一帯には未だ敗残兵が出没するとの情報があったので、調査隊の方でも万全を期して各員も拳銃なぞを装備して、まかり間違ったら、非戦闘員ながら警備兵と力を合わせて一戦をも辞せぬという悲壮な決心を眉宇 (びう) [6]に示していた。
6. 眉宇 (びう):眉の辺り

 何時 (いつ) もなら、頻繁に自動車や馬車が走り、行商人や旅人が行き交うこの街道も今日は犬の子一匹通らないで、突進するトラックの翻弄に (まか) せて () る。

 高梁 (こうりゃん) [7]を見ている内にふと、私は若しや、あの陰に反乱兵が伏せて居て不意打ちをしやあしないかと思った。すると何となく気になって、バンドを廻して腰の拳銃を腹の方に移して一人心構えをした。運転台のドアーの (ところ) に立てた日章旗は突風に (なび) いてパタパタと音を立てゝ居たので、これに威圧されてか不届者は一人も飛び出さなかった。とやこうして居る内に、早くも通州の城門外に到着した。
7. 高梁 (こうりゃん):モロコシ

 調査員は皆、何回も通州に来たことがある人達ばかりだったが、城門を見ると「ひどくなっているなぁ」と嘆声 (たんせい) を洩らした。処々 (ところどころ) に砲弾で (こわ) された個所があり、小銃や軽機関銃の弾痕は城壁の銃眼のあたりに集中されて無数の穴を (えぐ) って居た。

 これは三十日の夕刻、保安隊反乱の報を聴き、南苑攻撃中の〇〇部隊が救援を命ぜられて到着した時、この城門を楯に頑強に抗戦した敵を撃滅した際の乱闘を物語るものである。門の (かたわら) には土嚢や石塊を積んで壕が築いてあり二人の日本兵が仁王立ちとなって守備に任じていた。もう城内の治安は完全に日本軍によって維持せられているのだ。

 城門を入ると、ムッとした屍臭が鼻を突いて () ず我々を驚かした。電線はズタズタに切れて地面に垂れていた。通りに面した人家は表戸を堅く閉され、住民は () げ去って空になっている様だ。支那人の家は表から見ても別に損傷はなく壁に流弾の跡が残っている位だった。 人の声は少しもせず、蝉だけが我物顔にジイジイと鳴いて居た。

 
 程なく守備隊に着いた。砲弾に () わされた舎屋 (はいおく) の上に日の丸と監視兵が立っていた。何と言う惨憺 (さんたん) たる姿であろう、車から降りると我々の到着を知って生き残った同胞が憔悴と恐怖に血走った眼を泣きはらして出てきた。私はその一群を見るなり目頭が熱くなるのを止める事は出来なかった。頭や顔、手や足に包帯を巻いた婦人や子供、その包帯には未だ血潮がにじんでいた。男物の浴衣を着た妙齢 (みょうれい) [7]の婦人もいればオカッパ頭を鋏で虎刈にした女の子もいた。半島人の子供が「祝出征」と書いた日の丸を持って嬉しそうな表情をしてその中に立っていた。
8. 妙齢:年頃

 支那服のもの、洋服のもの和服のもの色々様々な服装をしていたが、流石は日本婦人だけあって髪の乱れもかき上げとっさの間にも身だしなみだけは忘れないゆかしさには感心させられた。男子は頭と両手を包帯した者が一人いたきりで後は皆、死体の収容だとか調査、仮埋葬、後かたづけなどに働きに行っているそうだ。

 その内、ある婦人が進み出てつゝましやかに「御苦労様で御座います」と挨拶をしたが我々は胸がせまって何と返答して良いやら言葉に窮した。…「なんともお気の毒で御座いました、我々はどうお慰めしてよいやらわからない位です」と分別のありそうな調査員中の一人が答えた。

 一行は思い思いの調査に取りかかった。



昭和12年の絵葉書『北支那事変』より ◆暴虐の跡◆ 上・通州南門/下・通州特務機関壁の支那軍弾痕 (yutakamaharukita) [B]

 凄絶! (たたかい) の跡


被害甚大の近水楼。 (各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』/反日ワクチン) [C]
 満鉄出張所、領事館警察署、民会事務所、日本人民家、商店、飲食店、冀東 (きとう) 銀行[9]、冀東政府等を順次歩いてみたが、何処もかしこもいずれ劣らぬ乱暴狼藉の跡が歴然としていた。
9. 「冀」は河北省のこと
 私は (かつ) 満州事変の時に、新京の郊外の城市や南嶺の支那兵営を激戦の直後に行って支那兵や軍馬の死屍 (しし) 累々 (るいるい) [10]として兵舎の焼け跡に余燼 (よじん) [11]濛々 (もうもう) として居るのを見た経験があるが、激戦の跡という感じは、どちらも同じだが、むごたらしさと言う点から見れば数百倍もこっちがひどいと思った。
10. 累々 (るいるい):あたり一面に重なり合ってたくさんにあるさま、11. 余塵:くすぶり

 日本人の家屋は必ず見る影もなく荒らされて居り、破壊された家屋を見て、あそこもやられたなと思うと必ずそれが日本人の家屋なのである。死臭がするなと思うと道路といわず、溝といわず死屍 (しし) が横たわっていて、それが日本人であると必ず正視の出来ない程、残虐な凶刃 (きょうじん) [12]が振るわれているのだ
12. 凶刃:人殺しの刃物

 最後に近水楼 (きんすいろう) に行ってみた。近水楼はこの前、来たときに一泊したことがあり、 () の時天津 (てんしん) にも北平 (ペーピン) にもこんないい旅館はないねぇ、天津の芙蓉 (ふよう) 館や北平の扶桑 (ふそう) 館の方が建物や設備はいいかも知れないが、とてもこの窓の眺めはない…と () めて給仕にきた女中を喜ばせたことがあったが、それ程景色のいい地点にあるのである。

 きれいな蓮池に囲まれ、玄関の前と後の方向に池を (わた) る通路があって旅館の廻りの樹木は緑 (したた) るばかりであった。「近水楼はひどいぞ」と言われて、 (あらかじ) め覚悟はして入ったがあまりの残忍な状態に変わり果てているので思わず悪寒と戦慄を感じた。

 玄関からそれに続く広間などは滅茶苦茶で血沫 (けつまつ) は飛び、どす黒い血潮は餅を置いたように厚みを持って床の上に固まっていた。持ち出した衣類や器具のこわれがそこら一面に散っていて客だか家の人だか判らない屍体が六つ、一カ所に並べられていた。私は死屍を見る毎に合掌して (ねんご) ろに霊を慰めることにしてきたが今日はそれを何回やっただろう。数え切れないほどである。私は二階に泊まった事があるので土足のまま直ぐに上がってみたが戸障子から (ふすま) 、畳まではがされてよくもこれまで荒らしたものだと思われる程だった


近水楼の蓮池は現在は通州西海子公園。 (2008, uYYu/Panoramio) [D]
 階下に降りて来ると料理場に続いた女中部屋を覗いていた五~六人の人達が…「あッ!ひどいなぁ」…と嘆声 (たんせい) を洩らして後ずさりをしたので私も肩越しに見ると、血液が一時に逆流するかと思われる程、愕然とした。そこには六~七人の女中が、頭といわず、顔、首、胸、手足、 (こと) に腹部より下に対しての残忍極まる鬼畜もなさざる虐行を敢えてしてあった

 夜になってから〇〇隊長の許しを得て一室を提供してもらって生き残った人々の生々しい死線突破の体験談を聴くことにした。

 私は北平から来た〇〇の東氏、天津から来た××の吉村氏と相談して (あらかじ) め居留民の (うち) の分別のありそうな人を選んで夕食後にすみませんが色々お話を承らせて頂きたいのですが…とかれこれ十名位に頼んで歩いた。夜の幕が全く降りて不気味な闇に包まれる頃、暗い洋灯 (ランプ) を中心にして、集まったのは私と東、吉村の三人と五名の生存者だった。内の一人は半島人で包帯姿も痛々しかった。婦人の方にも一人二人出て頂くつもりでいたが傷心に身も心も疲れて休んでいられたので遠慮することにした。

 銃痕の散らばった壁や血沫の飛ぶドアーを背景にした、激戦の跡の一室で兵隊さんの食事の卓を囲んで座談会をやるのである。これ程、凄絶味のある座談会は恐らく前代未聞であろう。







…出席者…
北京よりの調査員 東 達人
天津よりの調査員 吉村 四郎
生存者 森脇 高英竹原 重夫廣田 利雄大橋松一郎、朴 永良
本誌特別特派記者 武島 義三

 


通州事件の生存者。1937年8月。 (毎日新聞社「昭和史第8巻 日中戦争勃発」より/Wikipedia) [E]
記者 お集まり下さいまして有難うございます。未だ昂奮 (こうふん) からさめぬ精神的にも肉体的にも疲労困憊 (こんぱい) [13] (きわみ) に居られる皆様から貴重な時間を割いて戴きまして誠に有難う御座います。本日当地に参りまして諸方面よりの調査隊や救援隊の方々と一緒に惨劇の跡を見ましたが、何と申し上げてよいやら言葉を知りません。見れば見るほど、その暴虐振りに憤怒を感じ、切歯扼腕 (せっしやくわん) [14]するばかりです。

13. 困憊:疲れて動けない事、14. 切歯扼腕 (せっしやくわん):歯ぎしりしたり自分の腕を握り締めて、ひどく残念がったり怒ったりすること

 私は三十日の正午頃はじめて北平の〇〇で通州がやられたという報を聴きましたが () んな時にはデマが多いので、またデマではないかと思ったのです。

  (ところ) が時刻が経つに (したが) って真実だと言うことになり、通信機関も破壊せられていて、真相が充分判らないので本日参った次第であります。

 今夜は皆様より詳しくお話を承って、よくその真相を伝え一日も早く冀東地区を (おお) った暗雲を一掃して再び輝かしい太陽を招きたいと考えて居ります。僭越ですが私が進行係を受け持たせて頂きまして話を進めたいと存じます。先ず最初にお伺いしたいのは、北支事変勃発当初、この冀東地区にどんな反響があったかという事であります。


森脇 廬溝橋事件勃発の時には別に関心は持たなかったようですが、次々と起こった北寧、平関両鉄道沿線の戦闘に対してはやはり動揺していた様であります。

 南京系の新聞が相当、入り込んでいますし、流言 (りゅうげん) [15]誹語 (ひご) [16]が盛んの様でしたから、不安がって居た事と思います。
15. 流言:デマ、16. 誹語 (ひご):そしり

竹原 然し冀東地区内に居る自分らは大丈夫だと言う自信は十分あった事は確かです。 () の証拠に事変が起こってからでも公園に夕涼みの散歩をする者の数は多く、白河の岸で雲雀を鳴かせている人達は平素と変わりありませんでした。
 支那人は多少でも自分らの生命や財産を脅かされる懸念のある時は一刻も愚図々々 (ぐずぐず) しないで何処かへ () げて行きますよ。


記者 通州事件の勃発する前後の様子や保安隊の蜂起する迄の様子をお話下さい。

廣田 我が香月 (かつき) 〔清司〕司令官が宋哲元宛に通告した最後的な撤収要求が、支那側にさえ誠意があったならば二十七日正午に履行せられる筈なのですが、戦時行動を拡大するばかりで少しも履行の様子がないので、我が軍の南苑攻撃が開始されたのです。

  () の為に通州門外に駐屯して居た約一個大隊の二十九軍の一部の不穏な動揺の色ありとの情報があったので、二十七日の夜から二十八日の払暁 (ふつぎょう) [17]にかけて、日本軍が空陸呼応して攻撃し、 (つい) に敵を沈黙させて全員の武装解除をしたのです。この武装解除の時には通州保安隊の一部も駆けつけてその手助けをした位です。この時から保安隊には少し動揺の様子があったのです。
17. 払暁 (ふつぎょう):明け方

森脇 これは僕の考えですが保安隊には相当前から根強く中央よりの指令に働いてる煽動分子が入り込んでいたと思います。少なくも保安隊の幹部は完全にその指示に () って行動したと思っています。中央は新聞やラジオによって宣伝をやったのです。

 即ち…蒋介石は日本軍に対し二十四時間以内に北支より撤退せよ、 (しか) らざれば三百台の飛行機を (もっ) て、大挙、北平、天津を空爆するぞと通告せり…とか、支那軍は至る (ところ) に大勝を博して日軍を潰滅し北平、天津、豊台は完全に支那軍が占拠し、廊坊は奪還せり…とか支那軍飛行機は、満州国を襲撃しシンヨウ(奉天)市内は火災を生じ錦州も同様にて、目下暴動反乱が蜂起せり…とか、蒋介石は目下鄭州にあり全軍の指揮に当たっていると言う様なのですが、それで保安隊の幹部連も、そら中央がやった、我々も愚図々々 (ぐずぐず) しては居られないと言うので二十七日か八日に一同を集めてその訓示をしたそうです。南京では二十九日、冀東保安隊が反乱を決行するというので北支一斉に反撃の密令を出したので、通州と同様に天津、豊台、廊坊、順義等に逆襲があったのです。

 ところが死に物狂いになってやってみたけれども少数の通州日本軍が意外に頑強で、これをやっつけるのを苦心している内に、援軍が到着するし、空襲はされる、危ないと思ったのでその鬱憤を無力の居留民の虐殺で果たし、行きがけの駄賃に金目のものを掠奪してしまったのです。


記者 当時、通州にはどの位の同胞がいたのですか。

大橋 正確な数字が判らないのです。民会や警察の名簿に載っていたのは内地人男八十名女二十二名、半島人男百四名、女七十八名、計二百九十五名とかいうことですが、北平からわざわざ避難して来た者も四、五十名居る様ですし、名簿に載ってない旅行や視察に来た人もいますから困るのです。ですから、三百八十名位の見当なのです。

竹原 それも何処か一廓 (いっかく) [18]を定めて日本人の地帯でも作って其処 (そこ) にでもいたならばまだしも、これだけが城内各方面にちりぢりばらばらに住んでいたのですから、 (なお) 、酷いのです。それに外部からの匪賊 (ひぞく) [19]の襲撃ででもあったならこれほどではなかったのですが、平素、警備していて事情のよく判っている保安隊がやったのですから手がつけられません。保安隊員は各戸 (かっこ) の財政的状態 (まで) あらまし[20]知っていますから、こんな災禍 (さいか) を見たのです。
18. 一廓 (いっかく):一つの囲いの中の地域、19. 匪賊:集団で略奪・殺人・強盗などを行う賊、20. あらまし:大体、おおよそ、あらかた

記者 今日 (まで) の生存者、屍体発見はどの位あったのですか。

竹原 皆で百三十名位じゃあないですか。屍体は百二十体位ですから、合計二百五十。

記者 すると未だ百二三十の人々が生死不明ということになりますね。

大橋 これが大変なのですよ。氏名がわかっている人で屍体の発見されないのや、屍体があっても氏名や身許が判らないのもあります。判明者は荼毘に付していきますが、判らないのは腐敗しますから仮埋葬します。


破壊された通州日本居留民会事務所。本記事中では「民会事務所」と表記。(騰訊公司) [F]


 日本人を皆殺しにしろ!!

森脇 僕は六月末迄、今度殺された〇〇君の塀の中の一間を借りて厄介になっていたのですが、大連に置いてあった家内を呼び寄せることになってので、一間では不便だと言うので〇〇君のボーイに頼んでおいた所が〇〇大街粮桟 (だいがいリヤンツアン) (雑穀問屋)の院内にある手頃な三間房子 (さんげんぼうし) (一間幅の部屋三つ)を探してくれたので寝室兼居間、と台所と風呂、もう一つを応接間兼書斎としたのです。そして家内を呼んだ (ところ) 大連と違って日本人が近所にいないのと買物に行くのが遠くて困ると愚痴るので涼しくなったら又、いゝ (ところ) に移ろうと言っていたのです。

 僕の使っていたボーイはこの家を探してくれた〇〇君のボーイの弟で十七歳で性質もよく何でも安心してさせることの出来る子供でした。その兄弟は二人でやはりこの塀の中の一室を借りて () んでいたのですが、名前は (りゅう) ですから兄の方を大劉、弟の方を小劉と呼んでいました。


 あの日、パンパンと銃声を聴いたのは三時十五分頃だったのですが、寝間の背面に窓を作って置くのは不用心だと思ってつぶして () まったので、さっぱり様子が判らなかったのです。其処 (そこ) で起きると () ぐ服装を整えて小劉を呼んで様子を見て来いと言ってやったのです。妻も吃驚 (びっくり) して着物を来て蒲団をたゝんだりしていましたが、僕は二十九軍が襲撃して来たのを保安隊が守護隊と協力して防護に当っているのだなと思ったのです。

 妻に色々と注意の言葉を与えていると小劉が血相を変えて大変です保安隊が“日本人を殺せ”と言って暴れ狂っています。〇街の角の韓国人(半島人)の家に侵入して皆殺しにした、と言うのです。それで僕もこれは大変だ保安隊の叛乱 (むほん) ではうかうか出来ないと思って粮桟の帳房(帳場)に行って電話をかけようとすると電流が来ていないのです。故障か切断したのか判らないが電話で連絡がとれなければ自分で避難場所を探がさなければならないと思って、自分の家にもどって妻に持って出る大切なものの用意をいいつけていると小劉は屋根から日の丸を降ろして来たのです。日の丸を立てゝいてはいけないというのです。よく気がつくでしょう。

 すると大劉が呼吸 (いき) せききって帰って来て『もう街は戦争の様だ。日本人の家は片っぱしから保安隊が乱入して誰彼の見極めなく皆殺している。〇〇さんのご主人も奥さんも子供さんも酷い殺され方をしています。それから裏の〇〇さん、××さん、△△さんの家も全部やられて日本人は全滅です』--愈々 (いよいよ) 本当だなの覚悟をしていると小劉と粮桟 (リヤンツアン) の番頭が来て『この支那服を着て、一番隅の倉庫を開けてあげるから、かくれていなさい』--と言うので万策尽きて困っていた時なのですからすぐその話にのって、大劉小劉にフトンや大事な物の (つつみ) を倉庫に運ばせました。

 そして () しこの中にいるのを密告でもされるといけないと言うので粮桟 (リヤンツアン) の男達四人と大劉小劉に五円 (ずつ) 、番頭に十円の札をくれてやりました。倉庫には三、四十坪もあり、天井も高く一杯に雑穀の俵が積んでありました。その隅にフトンを () いて落ち着いたのです。銃声は益々 (はげ) しく、砲声さえ交ざって聞こえるので一大事が突発したなと思いました。

 倉庫の背面には上の方に明りとりの小さな窓が一つあるきりでとても暗いのです。道路の方を見てやろうと思って俵を下から段々積み上げて台をこしらえて、それに上って窓から外を見ました。すると西門の方向に黒煙が二条 (ふたすじ) 昇っているのです。守護隊もやられているなと思いました。すると下の道路を保安隊が十五、六名で竜刀や銃床で叩きながら何処やらへ連れて行くのです。「走罷 (ツォオバ) (歩ケッ)」「起来罷 (チーライバ) (起きろ)」と罵声怒叫して引き立てゝいます。それに女や子供の泣き声が聴こえてまるでこの世の地獄です。

 すると粮桟 (リヤンツアン) の門を叩き始めたのですが誰も出ないので保安隊員が登って内側に入りとうとう開けました。どやどやと二、三十名もが浸入 (はい) って来る様です。そうかと思うと直ぐ銃声がしました。僕は直ぐ妻に、万一の場合はこの拳銃でお前を撃ち殺ろし、自分も死ぬから、と言って決心をさせたのです。賊徒 (ぞくと) は僕の家に侵入して器物をこわしたり、叩いて我々の姿を探しているのです。

 その時、大変なことにはこの倉庫に鍵がかかっていないのです。いかんと思うと () う様にして麻袋の穀物を重ねて体の見えない様にして妻と二人で中から渾身の力をこめておさえたのです。この戸は力のある男ならば一人でもいゝが普通二人掛かりで開閉する様な大戸なのです。散々荒らした賊徒は今度、倉庫に来たのです。二、三人が戸の中央にある金網と鉄柵の間から覗き込んでいました。僕ら夫婦はこゝを最後とばかりにおさえたのです。外の奴等 (やつら) の呼吸は蒸気のように (はげ) しくハッハッと吐き込んでいました。ところが覗き込んでもいないと思ってか直ぐ立ち去って了いました。この時の嬉しさは何とも言えませんでした。そして絶えず銃声におどかされ (なが) ら恐怖の中にも必ず来るであろう、救護の手を待っていました。


 そのまゝ夜となり、持ち込んだ懐中電灯をつけてパイナップルの缶詰で (うえ) (しの) ぎ夜明を待ちました。そして (あく) る朝、銃声 (しずま) った頃に道路の彼方に日本語と足音をきいたのです。その時、二人は愕然として僕は猿の様に俵の山を馳け登りましたが、既に過ぎ去っていて判りませんでした。それから降りて、日本軍が来たに違いないと思って倉庫にあった棒切れに小劉の降ろした日の丸をつけて再び窓の所に出て硝子を破り、金網に棒の通る位の穴をあけて時機が来るのを待ちました。この時位待つということの苦しさを味わった事はありません。

 それから二時間位して日本兵が一個分隊位通るのを見て力一杯旗を出し、日本人だ万歳ッ、日本人だッ、と腹一杯叫びました。これでやっと救われたのです。外に出て太陽を見た時は実に嬉しかったです。こんなわけですから (ほか) の方々の様に兜弾や兜刃の下はくぐらなかったのです。守護隊に収容されてから意外な大事件になっているのを知って愕然としました。


昭和12年の絵葉書『北支那事変』より ◆戦捷を捧げて◆ 上・敵塹壕の一部/左・通州城頭に立つ皇軍の歩哨/右・通州日本特務機関の正門 (yutakamaharukita) [G]


 糞壷の中にかくれて助かる

竹原 僕の家は〇〇館と背中合わせの支房家屋で塀の中には僕が一人だけ日本人なのです。三間房子を借りていましたが、一番塀よりの部屋を便所にしていたのです。 (はなは) だ、尾籠 (びろう) な話ですが僕は痔が悪いので便所が永く、この塀の中に共同用のものがあるのですが、支那人が使って不潔なのでわざわざ一と部屋を掘り下げて、縦五尺幅三尺深さ四尺位の穴を掘って三年位、かえなくてもいい様な大きなのをこしらえこれに枕木を左右日本ずつ並らべて、中央に五寸くらいのあきを作って用を便ずる様な作りになっていたのです。部屋より便所の方が奇麗だと言われた位です。銃声を聴いて眼を醒ましたとき、裏の〇〇館に女の悲鳴や断末魔の叫びが聴こえ、器物を破壊する音が日本人は皆殺 (みなごろし) だという言葉の間から洩れるのです。二十九軍だなとすぐ思いました。保安隊なぞとは少しも思わなかったです。

  () げなくてはいけないと思いましたがさて何処に遁げて良いやら判らないのです。速く速くと自分をせき立てましたがどうも適当な場所がないのです。するとふと僕の頭をかすめたのは、僕の友人が (かつ) て満州の吉敦 (きつとん) 線で匪賊 (ひぞく) の襲撃に遭って列車を転覆されたのです。その時、便所に () げて助かったことを思い出しましたので、外へ出るのは危険だと思って直ぐポプリンのパジャマを着たまゝ拳銃と蟇口 (がまぐち) を持って便所に行き、枕木を二本あげてさっと中に入り足場をよくしてそっとしゃがみました。こゝでちょっとお断りしておきますが、クソ壷ではありますが未だ三ヶ月にしかならないのです。人間一人の三ヶ月分の排泄量をこんな大きな穴に入れてあるのですから、足をクソの中に浸ける様な事はないのです。

 すると直ぐ十五、六名位の暴漢が物凄い叫びをあげて塀の中に這入って来ました。「日本人在那児」 (イベンレンツァイナール) (日本人は何処にいるか) と言うのです。誰も答えません。すると誰かゞ知っているらしく僕の家に飛び込んでガラガラ家財道具をひっくりかえしながら探していましたが、そのうち外に出て他の五軒の支那人の家を起して一々中に入って調べていました。「那児去了摩」 (アールチュイラマ) (何処へ行ったか) と聴くと「不知道」 (プチドウ) (知らん) と答えるばかりです。その内に便所のドアーを開けましたが「厠房子」 (マオファンズ) (便所だ) といって中をさぐりもしないで散々目ぼしいものをあさって出て行きました。

 やれやれ助かった、と (おもう) と、「失了火了」 (シイラホワラ) (火事だッ) と言うのです。この声に塀の中の支那人たちも隣の火事を黙っていられないとばかりに夫々 (それぞれ) の家から水を持って来てジャジャかけていました。暴漢が押しこんだとき、机の上の洋灯 (ランプ) を倒したのでしょう。火事も消えたのでじっとしていると今度は軽機関銃の音が遠くに激しく聞こえるのです。このまゝクソ壷の中にいたのでは、外部との連絡はとれないしこのまゝ死んではウンの尽きだ(笑声)と思って、何処か (のが) れる場所を見つけたのです。すると僕らの塀と隣の支那家屋との間に幅二尺位の隙があるのです。何時か塀の中でキャッチボールをした時に、ボールを探しに這入 (はい) ったことがあるのです。

 そうだ、あそこがいゝと思うと、外部の様子をうかがって、そっと枕木を押し上げて飛び出し、外に出ていきなり足場もない塀に爪を立てゝかけ登り無事中に入りました。こゝなら大丈夫だと思って高梁 (こうりゃん) の茎なぞを敷いて坐ったのです。今度は大分楽です。体をのばすことも出来れば呼吸も充分に出来るのですから、銃弾の音はなおしきりだったのですが、いくらか心にゆとりが出来て拳銃を出し弾丸の勘定をしたりしました。挿弾子 (そうだんし) に八個あったのです。いざという時は七発撃ちまくって残りの一発を自分の頭に撃ち込んでやるんだと独言 (ひとりごと) をいいました。


 それから何時間たったか判りませんが空に飛行機の爆音をきゝました。二十九軍が襲撃して中央軍の爆撃機の空爆かと思ったのです。ところが何んと嬉しいことに日の丸をくっきり描いた日本軍の飛行機です。僕はその時声そ立てられなかったが二、三回撥ね上りました。大丈夫助かる、とその時初めて思いました。そうなると急に命が惜しくなってキチンと地上に端座 (たんざ) [21]して般若心経を口ずさみました。ところがあとの飛行機も来ないのです。だんだん空は暗くなり夜の (とば) りが降りて来ると西門方面の銃声は一層 (はげ) しくなりました。今夜は此処 (ここ) で籠城だと思うととても寂しくなって機械的に般若心経を暗誦 (あんしょう) [22]しました。何百回繰り返したか判りません。
21. 端座 (たんざ):きちんと座る事、正座、22. 暗誦:そらで覚えていることを口に出してとなえること
 真暗になってから、 (のが) れられたらこの機にと思って塀を昇り隣の屋根を () って二棟ほど () きに進んで見ましたが、闇の中にも〇〇君の家の狼藉 (ろうぜき) [22]の跡と転がっている屍体が見える様なのです。そう思うと (たま) らなく、体にふるえが来て、拳銃を握って () う手が屋根にあたってガタガタと小さい音をたてるのです。それから急いで又、もとの巣にもどってほっとしました。やられたな、血の臭いがした。夏の夜は短いとは誰もいうがそんな事は嘘だ。この時程、夜の長いことはなかった。
22. 狼藉:乱暴

 夜があけきってから銃声は時々する位にとだえた時〇〇館の方に戛々 (かつかつ) という足音と『こゝにもやられている』という力強い (りん) とした軍人らしい日本語が聞こえました。そら、日本軍だと思うと反射的に塀を馳け上って屋根を走り〇〇の庭にとび降りて救われたのです。僕の場合は襲来が速かったから森脇さんの様に奥さんを持っていたらとても駄目だったですね。


森脇 今の竹原君の便所なぞは計画的にやったのでなく、不意に気がついたらしいですが、いい思い付きだったんですね。それが倉庫などだったら、何かいゝ物が入っていないかと思ってあけて見るのが人情ですが、便所だと中身がわかりきってますからね。

吉村 廣田さんも大橋さんも支那人の家に逃げこんだ組ですね。


通州城の城壁。西門を南方から映したものと見られる。 (1925か34?)(Zuo Quan) [H]


 嗚呼名も知れぬ義人[23]の死
23. 義人 (ぎじん):義に対して忠実な人。自分を捨てて、正義に殉ずる人

廣田 前夜大橋君が僕の (ところ) に来て遅く (まで) 北支事変の話をしたり、将棋をさしたりして、とうとう僕の部屋に寝たのです。ところが二人とも木綿の支那服を着たままグゥグゥと高鼾 (たかいびき) をかいていたので余程 () ってから眼が醒めたのです。外は未だ小暗かったです。庭に寝ていた子牛大の犬は銃声に (おどろ) いたのか (がら) にもなく吠えるのです。二人は至って呑気にかまえて支那靴をひっかけたまゝ門の処に行ってみたのです。

 すると二、三百名の保安隊が暗灰色 (あんかいしょく) の学生服を着た学生風の一隊と凄い形相をして西の方へ行くのです。その学生隊の人達も武器を持っていて、持たない者は棒きれをさげていました。「敵襲で保安隊の出動だ、送ろう」と言って門を開けようとすると大橋君が「よせよせ」と言って止めるのです。「大丈夫だ」と言ってその手を振り切って出ようとすると、「子供は許してくださいッ、小輩不行 (ショウハイプシン) 」と狂気のように叫ぶ日本婦人が二、三人の保安隊員に引っ張られながら行くのです。日本語と支那語を交ぜてしきりに懇願 (こんがん) しているのです。

 これを見ると僕の全身の血が湧き立つ程、義憤 (ぎふん) [24]を感じたので拳を握って飛び出そうとすると、大橋君は「叛乱 (むほん) が起こったのだ」「どうして」「日本人がやられてるじゃあないか」…そうかと思っていると、急に又足音が聴こえてきたので呼吸をころしていると僕らの門が開くのです。二人はそっとそのまま門の影にかくれました。幅一間以上あるので楽々とかくれられたのです。すると七、八人の保安隊員が矢庭 (やにわ) [25]に二人の部屋に押し込んで盛んに我々を探すらしいのです。
24. 義憤 (ぎふん):道義に外れた事に対して感ずる憤り、25. 矢庭に:突然、いきなり

 「大変だ、やはり叛乱だ」と思わずぞくっとしていよいよ戸にかくれる気がしました。すると散々に荒らして我々がいないので、そのまま出て行きましたが、大橋君の部屋から日本刀を、僕の部屋から南州(注・西郷隆盛)の額を持ち去られたのは残念だったです。

 これで危機一髪の難関は (のが) れたのですが、支那人の家には少しも入らないということが判ったので、門寄りの一番端の洋車夫 (ようしゃふ) [26] (ワン) の家に遁げこみました。銃火は益々激しく砲弾の炸裂する音響は屋根をも動くかと思われた。その内に又、道路にドヤドヤと足音がした。すると鋭い声で「日本人はかくれろ!日本人はかくれろ!」と叫ぶのが聴こえました。叛徒 (はんと) [27]に拉致されながら自分の身を省みず他人に注意しているのだ。
26. :車夫 (しゃふ):車引き、27. 叛徒 (はんと):むほん人たち。逆徒

大橋 そうだ、あの声は今でも耳に残っているね、普通なら「助けてくれ」と叫ぶ (ところ) なんだがあれが日本人の真面目なんだね。内地の人によく伝えてください。どこの人だか判らないが偉い男でしたね。

廣田 それから「静かにしろ、だまれ」という支那語の叱声が聞こえたが尚も「日本人はかくれろ」…と言うものだからズドンと銃声がしたのです。多分殺されたのでしょう。

大橋 声をきいただけですが惜しい男を殺しましたね。

廣田 あの時、王は震えていたが、蒲団から顔を出して「あんた達は顔が白いから、 () 此処 (ここ) 土匪 (どひ) [27]が来たときに大人 (うし) [28]と思われて危ないから、土間の隅にある釜のススを塗れ」と言われて二人はあわてて塗りましたっけね。
27. 土匪 (どひ):土着民で武装して集団となって略奪・暴行をする賊、28. 大人 (うし):貴人・富者

大橋 全く今じゃ笑っているけれどあの時は真剣だったですよ。

 それからこゝに頑張り通して、王の食いあましの焼餅 (シャオピン) をかじって、夜を明かしたのですが、銃声のやんだ機を見て特務機関か守備隊に行こうと思って飛び出しましたが「日本人はかくれろ」という言葉が耳に残っていたので無謀なことを慎んで翌日助けられたのです。


記者 どの方も生死の紙一重の様な危機を突破せられたのですね。ありがとうございました。

 亡くなった同胞の為に黙祷をさゝげましょう。

菊池信平[編]. 『昭和十二年の「週刊文春」』. 文春新書, 2007. 159-177.
[フリガナ・脚註=岩谷] (写真はクレジットのあるものを除きあきら氏提供 。脚註はエキサイト辞書国語辞典などを参考)


 当時語られ当時出版されたこの座談会を見ると、当時現場にいた人々がどういう暮らしをしどういう価値観を持ち、何を考え、どういう体験をしたかがリアリティを持って伝わって来る。


座談会初出:あきら氏のミクシィ日記 2007年7月12-14





Googleマップで見る現代の通州。通州城の濠は道路になり、城壁や城門は痕跡すら確認出来ない。

查看大图

米軍による1942-45年の通州城の地図 (一方眼は1000ヤード=914.4m)

(U.S. Army Map Service, 1942-1945/University of Texas) [I]


通州城内見取図 (『大東亜戦争への道』より/東アジア黙示録掲載) [J]

通州事件は「反乱」か?


冀東防共自治政府。中央が殷汝耕主席 (1935.11.24) (博愛論壇) [K]
 現代に至るまで中国側の資料で支那事変はまず100%が日本の侵略戦争として扱われており、その中で通州事件は中国側の蜂起として認識されているようである。
 中国側の視点からは、日本の支配を受けた中国人保安隊が反旗を翻して日本人を殺害し、日本の傀儡政権冀東防共自治政府漢奸 (中華の裏切り者)、殷汝耕主席を拘束し、祖国に忠誠を尽くしたという英雄的行為である。

 上記の地図と通州城内見取り図を見る限りでは、東西2.7km、南北が0.5~1.7kmの、面積にして3平方キロ程度と見られる通州城内は、西側に冀東政府と日本軍守備隊用地、そして東側に日本特務機関と保安隊施設があり、それらを中心にその周りを住宅などが取り囲んでいる構造に見える。
 “およそ380人の邦人居留民は城内に分散して居住している”[>>1]と座談会中で証言されているように、通州城の住民の大半が中国系であり、それら通州城内居住の中国系住民は冀東自治政府側の関係者や、日本人に雇われた者や日本人相手の商売人と見られ、叛乱を起こした保安隊も冀東政府に雇われた中国人である。

 そして通州城内の様子を知り尽くした保安隊は、大量の住宅から日本人の住居のみを選んで殺戮破壊行為を行い、通州在住の邦人の6割半を殺害している。


 通州事件の英語名称は『Tungchow Mutiny』(通州の反乱) であり、例えば英語版ウィキペディアでは、通州城の門外に駐屯していた国民党29軍に日本が再三退去を要求し、29軍の宋哲元司令官が通州から日本を締め出したい冀東政府の殷汝耕主席と密約を結び、通州事件前日の7月28日の日本軍による国民党29軍の掃討の後に冀東保安隊の蜂起が起こったと説明されている (殷主席は通州事件以後も一貫して日本側の人物であり、この説に根拠はない[>>2])。

 座談会では廣田利雄氏が29軍の武装解除は27日夜から28日未明にかけてと証言しており[>>3] 、その後支那駐屯歩兵第2連隊 (萱島 (かやしま) 連隊) が28日の北京南苑戦闘に参加するため通州を空け[>>4]、残留した日本守備隊がわずか110名という時に、日本軍に訓練を受けた3000名とも5000名とも言われる中国人の冀東保安隊が冀東政府と居留邦人を襲撃したのが通州事件である。

 これを「反乱」と呼ぶ根拠としては、日本の傀儡政権に雇われた中国人保安隊が冀東政府と駐留日本軍に反旗を翻したというものだ。
 しかし女性子供を含む非武装の民間人虐殺を含めれば、言葉の定義としてこれを単純に「反乱」と呼んでいいのかは眉唾物であり、これは丸っきり中国側の視点から名付けたものである。


冀東防共自治政府区域図。左外の「北平市」が北京、その右側の「通县[県]」が通州。

(百度百科) [L]

1935年の北支五省、冀東政府と満州国の位置関係。

(第一次大戦) [M]


通州事件を起こしたのは正真正銘の中国人に他ならない


冀東政府が組織した「華北民衆自立団」 (1933) (新華網) [N]
 「南京大虐殺を相殺するために通州事件を持ち出すのは間違い」という意見の根拠として常套手段的に持ち出されるのが、「冀東政府は日本の傀儡政権で、その保安隊による反乱はいわば飼い犬に手を噛まれたようなもの。冀東政府が日本に賠償金120万円を支払い解決済であり、中国共産党は関わっていないため、それは“中国による日本人虐殺”とは言えないからそれで中国を批判するのは筋違い」という論理[>>5]・・・という持論の方に2ヶ月半ほど貼り付かれた事があった。

 しかし通州保安隊の二人の隊長(張慶餘と張硯田)は宋哲元の国民党第29軍とかねてから接触を持っていたと書かれた張慶餘 (1895-1963) の回想記が1986年に公表されている。[>>6]
 張自身は通州事件後は国民党軍に属し最終的に中将まで昇格した人物だ。1946年に退役してから共産革命以降も1963年に没するまで天津に在住しており[>>7]清国時代の河北省に生まれ国民党軍に所属、そして後の中華人民共和国に属した人物は正真正銘の中国人である。
 冀東政府が賠償をしようがしまいが、首謀者が事件後に国民党軍に属しているという経緯を踏まえれば、これが「日本側の問題であり日本と冀東で解決積みだから中国は関係ない」というのは、「民族」の定義と、中国が常日頃共産党政権の正当性を主張する根拠にしている「継承国家」という観点を全く無視した事になるのでこれは全くの見当違いである。

 中国で通州事件は「同胞による武装蜂起」と認識されており、中華人民共和国が「シナ継承国家」であり「一つの中国」のスローガンを掲げている限りは、通州事件は「中国人が起こした事件」という事に他ならない。


事件二日後に報じられた保安隊顧問夫人の証言

 以下は、当時報じられた東日毎電 (現在の毎日新聞) の記事で、通州保安隊総顧問の村尾昌彦大尉夫人の証言を報じたものだ。
 ここでも座談会と同様に虐殺のついでに略奪行為を行う中国人の様子、そして租界外のロバ引きまでが中国人でないと疑うと暴力を振るうなど、租界外では危険な状況であった様子も伝わって来る。
 村尾夫人が通州から逃れ12km徒歩とロバに乗って北京の日本警察署に辿り着いた様子は、事件2日後の7月31日に報じられている。

註:ここでの引用文は戦前の記事のため、読み易さのために句読点やフリガナを追加、漢数字をアラビア数字に置き換え、現在一般的でない漢字表記や送り仮名表記を現代のスタイルにしているので(表記の変更で文章自体は同じ)、原文はリンク先の『反日ワクチン』さんのエントリーを参照下さい。


鬼畜も及ばぬ残虐
東日大毎特電 1937年7月31日

 通州反乱保安総隊顧問、村尾昌彦大尉夫人が頭に包帯をして顔その他に傷を受け、30日深夜、命からがら冀東政府長官秘書・孫錯氏夫人 (日本人) とともに北平[1]交民巷[2]に逃げ込んだ。身震いが止まず反乱隊の残虐ぶりをポツリポツリと語った
1. 北平 (ペーピン):南京と首都とした国民党による当時の北京の呼称。 2. 交民巷:現在の北京市西城区交民巷。天安門広場や人民大会堂がある北京中心部。

 「保安隊が反乱したので、在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち、29日の午前2時頃、守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーッと近水楼や特務機関の前に殺到して来て、10分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。

 近水楼の前は日本人の死体が山のように転がっています。子供を抱えた母が三人とも死んでいるなど、 () た目と見られない惨状でした。私達はこの時家にいました。29日午前2時頃、保安隊長の従卒 (じゅうそつ) [3]が迎えに来たので洋服に着かえようとしたところ、その従卒がいきなり主人に向ってピストルを一発射ち、主人は胸を押え「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れました。
3. 従卒 (じゅうそつ):隊付きの将校に専属し、身のまわりの世話などをする兵卒。将校当番兵。従兵。

 私は台所の方に出て行って隠れていると、従卒がそこらにあるもの片っ端から万年筆までとって表へ行きました。そのうちに外出していたうちのボーイが帰って来て、外は危ないというので、押入の上段の布団の中にもぐっていたところ、さっきの従卒が十人ばかりの保安隊員を連れて家探しをして押入れの下まで探したが、上にいた私には気づかず九死に一生を得ました。

 家の中には主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が四つ残っていました。それを主人の唯一の思い出の品として私の支那鞄の底に入れ、主人の死体には新聞をかけて心から冥福を祈り、ボーイに連れられて殷汝耕長官の秘書・孫一珊夫人の所へ飛び込み30日朝まで隠れていましたが、日本人は皆殺しにしてやるという声が (きこ) 、いよいよ危険が迫ったので、孫夫人と二人で支那人になり済まして双橋[4]まで歩きやっとそこから驢馬 (ろば) に乗ったが、日本人か朝鮮人らしいと感づかれて驢馬曳 (ろばひき) などに叩かれましたが絶対に支那人だといい張って、やっと30日午、朝陽門[5]まで辿りつきましたが、門がしまっていたので永定門[6]に廻りやっと入り、30日夜11時日本警察署に入ることが出来ました。
4. 現在の北京市朝陽区双橋。北京から東に8km、通州から西に4km。5. 朝陽門:北京城の東の門。6. 永定門:北京城の南の第一正門。

 冀東銀行の顧問・三島恒彦氏が近水楼で殺され、冀東政府の島田宣伝主任等も虐殺されたらしく、近水楼にいた日本人は殆ど殺されているでしょう。昔シベリアの尼港惨劇も丁度このような恐ろしさであったろうと思います。

 反乱した張隊長は毎日家に遊びに来て「好朋友、好朋友」などといい非常に主人と仲良しだったのに、こんなことになるとは支那人ほど信じ難い恐ろしい人間はないでしょう。三人の遺骸は必ず私の手で取りに行きます。」


 なお危険地区を突破した夫の唯一の形見を肌身離さず持ち帰った沈着なこの夫人の行動は避難邦人の賞賛と感激を受けて、同夫人に対する同情は翕然 (きゅうぜん) [7]と集まっている。
7. 翕然 (きゅうぜん):多くのものが一つに集まり合うさま。

上海大毎特電. 『鬼畜も及ばぬ残虐』, 1937年7月31日; 皇徳奉賛会出版部 (宮居康太郎・編). 『支那事変戦史 後編 - 各社特派員決死の筆陣』, 1937年12月18日刊; (反日ワクチン. 『通州事件特派員特電』, 2007年7月5日)
[フリガナ・脚註=岩谷] (脚註はエキサイト辞書国語辞典を参考)

 村尾夫人は通州内で直接暴行を受けた記述がないため、頭の包帯やその他の傷は移動中のロバ引き等から受けた暴行とも考えられる。当時の半ば無政府状態の大陸で女二人でよくぞ生きて辿り着いたものだと思う。


昭和12年の絵葉書『北支那事変』より ◆仇敵一掃◆ 上・郎坊支那兵営の残骸/下・通州城南門より残敵掃蕩 (そうとう) (yutakamaharukita) [O]


通州事件の原因の諸説

 通州事件の原因としては、1) 27日未明の国民党29軍の掃討作戦中に関東軍飛行隊が誤って冀東保安隊幹部訓練所を攻撃した「誤爆説」、2) 国民党側が日本が大敗したとラジオ放送を行い冀東保安隊を不安にさせ寝返るようにしむけた「デマ放送説」、そして近年では、3) 先述の通州保安隊隊長と国民党29軍との「密約説」などがあるが、この座談会を見る限りでは当時現地で一番言われていたのは「デマ放送説」のようである。

 この座談会で森脇氏は、“国民党軍が各地で日本軍を殲滅し各要所を占拠し日本軍に撤退を通告し、従わなければ空爆を行う”[>>8]というプロパガンダ放送の具体的な内容を証言している。
 これは北京特務機関補佐官として現地にいた寺平忠輔大尉が27日に“日本軍が29軍に惨敗し、29軍が近く通州を屠る事を決議した”との南京放送ニュースを聞いたと著書で書いた事[>>9]、また座談会では広田利雄氏が27日夜から28日朝にかけての29軍武装解除を冀東保安隊が手助けした際に多少の動揺があったとの証言をしているため、これらのつじつまが合う。

 また同盟の安藤記者が28日夕方に同様のラジオ放送を聞き[>>10]、陸軍省新聞班の岩崎春茂砲兵少佐はデマ放送だけでなく北京の新聞社も度々号外でデマ報道を行っていたと証言しており[>>11]、この座談会でも現地在住邦人が実際に放送を聞いていたという証言が複数ある事から、いずれにしても「デマ放送説」が当時日本側では一般的な認識であったようである。

 また、座談会で森脇氏は保安隊内部に工作員がいたと思われるとの証言を行っている。
 本人は推測であると念を押してはいるが、後述の朝日特派員の報道や中国側の資料[>>12]でも「密約説」が当時既に発覚していたとの記述がある事から、これも「密約説」発覚を暗示させる証言となっている。


 一方で、7月27日未明の日本軍による冀東保安隊宿舎への誤爆事件は29軍への掃討作戦の最中に起きたものである。
 ここで森脇氏が「(日本軍の) 援軍が到着するし、空襲はされる、危ないと思ったので (逃げるついでに居留民を襲った)」[>>13]と証言しており、また広田氏の“27日夜から28日朝にかけての29軍武装解除の時に冀東保安隊に動揺の様子があった”[>>3]と言う証言は「誤爆説」と関連している、又は「密約発覚説」を暗示しているとの解釈も出来る。
 実際、田中隆吉陸軍中佐は「誤爆説」が原因で「デマ報道説」が拍車をかけたと証言している[>>14]


 戦前には「デマ放送説」、1986年の張慶餘隊長の回想録が出るまでは「誤爆説」、そして近年は「密約説」が有力と言われているようだが、前者2つは既に複数の証言があり、また回想録でもプロパガンダや誇張、根拠のない虚言が入っている可能性も考慮すれば、複数の要因が重なって起きたと見るのがむしろ自然ではないかと思われる。


 なお、信夫清三郎氏によれば事件の発表経緯として、当初は冀東保安隊ではなく中国人部隊の犯行として発表するように支那派遣司令部の橋本秀信参謀長から指示があった[>>15]との事だが、事件2日後の7月31日の東日大毎特電 (前述) では既に通州保安隊による反乱と報じられており、結局のところ日本側の報道管制は行われてはいないようである。


当時の中国人の認識


冀東防共自治政府 (中国中央電視台) [P]
 信夫清三郎氏によれば、通州事件では中国人市民も略奪に加わり、日本人を匿ったのは例外的な中国人との記述があり[>>16]、またこれは当時日本で大々的に取り上げられ「暴支膺懲」の世論を煽り立てる絶好の材料とされたとの事である。[>>17]

 7月7日の盧溝橋事件から、近藤二等兵殺害事件 (7/14)、廊坊事件 (7/25)、広安門事件 (7/26) などの日本人襲撃殺害事件が同月に連発しており、国民党側としては恐らく冀東や満州国に対して不安を拡げ日本の影響力を弱めるための心理作戦として行われた意味合いもあったのは、それがプロパガンダ放送の内容とリンクしている辺りからも想像出来る。

 一方で、日本側の対中世論が決定的に悪化したのがこの時期であり、『暴支膺懲』として通州事件も大々的に報じられたようだが、しかし一方で座談会に書かれている事は本土とはいささか温度差があるようにも見える。
 当時の証言を見れば、通州の中国人は保安隊から脅されてもとぼけて日本人を匿い[>>18]、保安隊の事を「土匪」と呼び本音では匪賊扱いをしており[>>19]、どうもここら辺の冀東関係者の中国人の一部は心底日本人の味方であったような一面も見える。
 中国人でも裏切り者として処刑される危険もあったであろう事は中国人の洋車夫が震えて隠れていた事からも推測される。

 尤もこれは運良く難を免れた生存者の証言であって、中国系住民の中には日本人を庇った人達もいれば、便乗して略奪を行った層もいたのであろう。


 しかし例えば座談会で森脇高英氏が“支那人は生命や財産を脅かされる懸念のある時はさっさと逃げて行くが、冀東地区内は安全という安心感から人々は平素に過ごしていた”[>>20]という証言をしており、武島記者のレポートでは通州事件の後には通州城はもぬけの空になっている。
 要するに多くの住民にとっては日本寄りの冀東政府だろうが、蒋介石の国民党軍だろうが、匪賊が跋扈している城外で暮らすよりかは自分達が安全でさえあれば有利な方に付く、そして保安隊が暴れれば便乗して略奪も行い、危なくなればさっさと逃げてしまうという非常に風見鶏的な民衆であった様子が伺える。

 その中で日本人と同居したり日本人に可愛がられていたようないい暮らしをしていた層が恐らく日本人に義理立てをし、中国人同士で「土匪」を見下していたという、彼等の中での階層意識みたいなものも垣間見える。

 また、森脇氏は中国人の雇い人に口止めをするのに多少の金を渡しているとの証言もしており[>>21] 、金さえ渡せば味方になってくれるという、ここら辺も義理人情より実利主義の生々しい文化的側面が見えり。
 そこには対華21ヶ条要求以降の強烈な反日教育で育った軍人、取り合えずならず者が掻き集められたにわか仕立ての匪賊保安隊、そして全く実利主義な民衆という、当時の大陸は何とも危なっかしい、今では考えられないような凄まじい危険地帯に日本人が進出していたという状況に見える。


猟奇的殺害方法


通州事件直後の現場状況。 (各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』/反日ワクチン) [Q]
 中国では古来より敵地を滅ぼす際に老若男女に対する猟奇的虐殺と略奪行為を行う「屠城」という伝統的習慣がある。
 また清朝末期の『凌遅刑』写真でも見られるように苦痛を与え肉体破壊の限りを尽くす事へのこだわりも、これも近代まで受け継がれた中国の伝統であり、この通州事件でも非常にそれが色濃く表れた記述が見られる。

 通州事件と言えばやはりその殺害方法の残虐さで広く知られるものだが、武島記者のレポートでも言及されているのが、殺害だけでなく更に死体損壊を行うという猟奇的行為である。
 殺すだけでなく建物をわざわざ荒らして破壊の限りを尽くす点、そして家捜しをして金目の物を奪ったり「戦利品」「記念品」として持ち去るなど、盗賊行為を娯楽として行っている描写がここでも見られ、これは支那事変の一連の日本人襲撃殺害事件に共通したものである。

 なお、冀東保安隊が国民党軍への寝返りを意図しただけなら、ここまでの死体損壊や破壊・略奪行為を行う必然性はない訳である。
 なぜここまでの残虐行為を行う必要があるのかが現代の感覚ではなかなか理解が出来ないものがあるが、やはり中国の伝統的「屠る」という行為に何か意味があると考えるのが一番しっくり来ると思う[>>22]
 それは恐らく肉体破壊系の殺害方法は、中国においては「処刑」の意味を持っており、また身ぐるみ剥がすという行為は死者を辱める事であり、また戦利品の略奪という盗賊行為は勝利の証であるという事などである。


 特に20世紀前半までの中国では公開斬首処刑というものが盛んに行われており、それが近代では特殊銃弾で頭部を粉砕するという銃殺刑[>>23-24]になったのも、それは斬首刑の伝統の名残と考えられるふしもあり、肉体破壊に対するこだわりというものは、武島記者のレポートでも言及されているように、特に下半身への虐行が顕著であるという点、そこには性的辱めの意図があり、これはまさしく死者を辱める事が最大目的であるという事を物語っている。

 近年では中国での死刑囚からの臓器窃取が中国国内の移植全体の95%を占める[>>25]事が国際的に非難をされており、中国ではなかなか献体が出ない原因として儒教の影響が根底にある「埋葬は無傷で」という根強い文化的願望が原因と指摘されている。[>>26]
 そういう意味でも中国では「死者への冒涜」という概念が非常に強く、前近代の斬首刑から近年の銃殺刑に至るまで、刑罰の重さによって殺害方法が違うという事は現在でも行われているようであり[>>27]、中国の「屠城」など死体損壊の伝統の持つ意味はやはり「処刑」であり「死者への冒涜」という意図が明確にある行動と言える。


→関連情報:『日清戦争前夜の日本と朝鮮(20)』 より「死後凌遅の刑」 (きままに歴史資料室)


日本人1万5000人殺害計画

 一方で、通州事件から1週間後の8月5日には天津の朝日特派員によって、通州事件と同時刻に天津租界を包囲襲撃 (第二次天津事件) した中国正規軍に天津の日本租界の日本人と朝鮮人居留民1万5000人の虐殺計画があり、日本陸軍飛行隊の爆撃の支援で失敗に終わったという記事が報じられている。


邦人大量虐殺の陰謀[天津事件の真相]
朝日特派員 永田正義 1937年8月5日

 【天津五日発・朝日特派員 永田正義】通州の邦人虐殺事件は、かの惨虐非道なる尼港事件を彷彿させるもので、9000万同胞の腸を断たしめる[1]ものがあるが、天津日本租界及び軍閥系機関襲撃の支那敗残兵の遺棄した命令書や、捕虜の自白、憲兵隊、領事館、警察署などの調査によって恐るべき計画が立てられて居た事が判明した。
1. 腸を断たしめる、断腸:はなはだしく悲しみ苦しむこと。

 情報を総合するに、去月29日未明、天津租界及び軍関係諸機関を襲撃した支那軍は、天津保安隊 (およ) そ4000名、第29軍の正規兵凡そ2000名、合計凡そ6000名と称されるが、敵は第29軍の首脳部の命を受け26日頃から通州襲撃の保安隊及び正規兵と連絡をとり、北清事変議定書[2]によって正規兵は天津市内に入る事を得ざるを (もっ) て、便服[3]に着替えて大胆にもトラックを (もっ) て続々天津に侵入、機関銃、迫撃砲、小銃、青龍刀などを蔬菜 (そさい) [4]や貨物の下に隠して運び込み、 (あるい) は天津郊外の民家に隠して時の (いた) るのを待って居た。
2. 1901年の『北清事変議定書』(北京議定書) では天津は列国の駐兵権下であり、清国の警察権・駐兵権を禁止するもの。 3. 非軍属の服装。 4. 蔬菜 (そさい):野菜。青もの。

 27日夜、日本租界及び日本軍を、29日午前2時を期して襲撃すべしとの指令が発せられた。敵は28日夕刻から南開大学[5]、市政府、保安総局、警備隊本部などに集結し武装して各部署に () いた。
5. 南開大学:1919年に天津に設立された大学。周恩来の母校。

 敵の襲撃目標は軍関係 (ならび) に駐屯軍司令部、〇〇飛行場、東 (たん) 、総站[6]糧秣 (りょうまつ) 倉庫[7]などで、この外に日本租界及び租界外の東洋紡[8]、公大紡[9]鐘紡 (かねぼう) [10]の各邦人経営工場であった。
6. 站 (たん):駅。 7. 糧秣:兵員の食糧と軍馬のまぐさ。 *8. 東洋紡績。 9. 鐘淵公大紡績会社。 10. 鐘淵紡績 (かねがふちぼうせき)、カネボウ。

 即ち、わが軍の第一線出動によって天津における兵力の不足を探知した支那軍は、その手薄に乗じて支那駐屯軍司令部を占領して、北支における我軍の中枢機関を潰滅せしめ、各地に善戦して居る第一線部隊との連絡を断ち窮地に陥れ、〇〇飛行場の襲撃によって (わが) 軍の活動にに致命的損害を与え、一方東 (たん) 、総站を占領して日本軍及び弾薬糧食 (りょうしょく) [11]の輸送を不可能ならしめ、更に糧秣倉庫を掌中 (しょうちゅう) に収め、第一線日本軍の糧道 (りょうどう) [12]を断たんとしたものである。
11. 糧食:食料。 12. 糧道:食糧を運ぶ道。

 最も戦慄すべきは、日本租界を襲撃し () ず総領事館、憲兵隊、居留民団警備隊、特務機関、発電所等を占拠した後、3000人の支那兵は租界内の邦人(半島人を含む)約1万5000人を虐殺し掠奪を悉恣 (ほしいまま) にした上、日本租界を占拠し、 (ここ) [13]に青天白日旗[14]を翻して天津から邦人を一掃する意図を有して居たのである。もし租界の守備線において一角でも崩れたらんには、兵力不足の租界は敵の蹂躙するところとなり、通州以上の邦人大虐殺が行われるところであった。
13. 茲 (ここ) に:その結果。 14. 青天白日旗:中華民国国民党の党旗。

 支那兵は第一回の襲撃失敗にも懲りず、29日深更 (しんこう) [15]から30日未明にかけて第2回の夜襲を行うことになり、兵力を分散させては攻撃力を減殺 (げんさい) [16]されるところから、今度は兵力の最も脆弱な租界に全兵力を集中して、前回の失敗を取返し邦人大虐殺を行うべく作戦中、これを探知した (わが) 軍は飛行機と大砲をもって空陸相呼応 (あいこおう) して、敵の本拠たる市政府、南開大学、保安総隊、東站附近の民家を爆撃殲滅 (せんめつ) したものである。
15. 深更 (しんこう):夜ふけ、真夜中、深夜。 16. 減殺 (げんさい):減らすこと、少なくすること。

永田正義 [朝日特派員].『邦人大量虐殺の陰謀[天津事件の真相]』, 1937年8月5日. ibid. (ibid.)
[フリガナ・脚註=岩谷] (脚註はエキサイト辞書国語辞典を参考)

 結局日本軍に察知されたか何かで作戦失敗だったようで、これだけ大規模な計画が何故失敗に終わったのかがはっきりと書かれていない戦時中の記事ではあるが、ここでも既に国民党29軍から命令を受けた天津保安隊が通州保安隊とも連携をして、各地同時多発テロ的な計画の一つが通州事件であったとの「密約説」が、命令書や自白や調査でその情報を得た日本側が当時既にそれを報じており、結局のところ「誤爆説」「デマ放送説」「密約説」の全てが当時既に言われていたという事のようである。

 一斉蜂起の計画に関しては“「29日に反乱を決行する」と南京放送で流れた”と座談会で森脇氏が証言しており、これもまたつじつまが合う。
 一枚岩でまとまっていなかった中国人をまとめるために国民党が非常に盛んにプロパガンダ戦を行っていた様子が複数の証言から分る。

 この記事の4日後の8月9日に上海の虹橋空港で大山中尉惨殺事件が起こり、8月13日の第二次上海事変に至っている。


 現在中国側の支那事変関連の文章を見れば、通州事件は蜂起で、大山事件は日本が侵略戦争の口実にするための捨て駒で、とにかく日本が「侵略戦争」を起こしたくて仕方が無かったという記述ばかりなのが非常に嘘っぽい。
 対して日本側の報道を見る限りではむしろ、中国の親日派をどんどん引き込んで満蒙や華北の独立政権樹立を支援している日本をとにかく追い出したくて仕方のない国民党側があの手この手を尽くして同時多発テロなど起こし、日本側がその対応に追われているようにしか見えない。
 これはさしずめ、イラク戦争におけるアメリカのような事態と通じるものすらある。



昭和12年の絵葉書『北支那事変』より 左・天津支那街東馬路に於ける皇軍の活動/右・天津県政府の残骸/下・天津東停車場前の戦後 (yutakamaharukita) [R]


昭和12年の絵葉書『北支那事変』より ◆糧道輸送戦線◆ 上・天津日本租界河水上に皇軍の活動/下・天津特別第三区に於ける糧秣集結 (yutakamaharukita) [S]




余談:

2003年の西安西北大学の反日暴動との共通点

 また、通州事件で思い出すのがやはり2003年9月30日に西安で起こった西北大学寸劇事件の反日暴動であり、ここでも正体不明の暴徒が日本人を探し出しては暴行と略奪を行い、一方で西北大学側の教師や学生の一部はむしろそれを阻止していたという状況で、日本人を匿った中国人も多数。

 ここでも共青団によるものと見られるデマビラに煽動された暴徒が少なからずいた事、それが学生だけでなく地元のならず者が中心になっての暴動であった点、そして江沢民の反日教育世代が中心になった暴動という点で、その構図としては非常に共通点が見られる。[>>28-29]

 66年前と違って虐殺や死体損壊は起こらなかったまでも、西北大学共産党委員会は「もし適時に制止しなかったら、西北大学の空前の大災禍となったであろう」と事件の事を書いている。[>>30]
 半世紀以上経ってもまだ似たような構図の暴動が起きるという事は歴史は繰り返すと言うか、これはまさしく民族性に他ならない訳であり、その背景を理解しなければなかなか本質は見えて来ないのだろうと思う。


共青団と見られる反日ビラ (数碼映像倶楽部) [T]

西北大学国際文化交流会館に押し掛ける群衆とそれを阻止する大学側 (数碼映像倶楽部) [T]



中国の反日デモ その後
TBS ニュース23 2003年12月11日 (6'52")



後書き

 ここのところ当ブログの支那事変関連の複数のエントリーがウィキペディアで参考リンクにされた関係で、2年近く前のエントリーは今見るといろいろ不満が多く、最近はこれらのエントリーを手直しをしたり必要な追加情報を加えたりしていたが、通州に関しては当時は私も持て余すテーマであって、結果的に記事以外の部分をほぼ完全に全て書き直す事になったので、新エントリーとしてアップする事にした。

 この月刊『話』は知人のHNあきらさんが携帯電話でテキスト起こしをしてミクシィ日記で紹介されたものをベースに、戦前の記事のため読みにくい部分にフリガナや註釈を追加して2007年7月16日にエントリーにしたものだが、今回のエントリーでは座談会記事以外は全て新たに書き下ろし、『反日ワクチン』さんから関連記事2本を加えたものである。

 通州に関しては様々な本が出てネット上でも様々なサイトやブログで扱われており、海外で一次資料にあたれない状況でこういう有名な事件に手を出すという無謀な事をやるとろくな事がないのであるが (笑)、主に座談会を中心にして関連情報と合わせてみるというコンセプトにしてみた。

 なお、二次資料ながら通州に関して書かれた日本語ソースは大幅に『南京事件ー南京事件-日中戦争 小さな資料集~ゆうのページ』さんに依存しているが、現在ネット上で見られる情報としては一番詳しく情報量が多くなおかつ主観に偏らない姿勢において信頼の置けるサイトであると思う。




参考サイト:

『南京事件ー南京事件-日中戦争』(小さな資料集~ゆうのページ)
『支那人が避けて通る恥部 ── 通州事件』 (帝国電網省 2001.1.7)
『通州事件の捜査ファイル…封殺された虐殺70周年』 (東アジア黙示録 2007.8.5)




支那事変関連エントリー:
歴史から消された広安門事件と廊坊事件 (2007.7.11)
清瀬一郎:東京裁判冒頭陳述 (2007.7.19)
南京事件考 (2007.8.7)
東條英機元首相 公的遺書 全文 (2007.8.14)
英語・中国語版Wikipediaにおける大山事件と第二次上海事変の記述 (2007.8.18)
中国の死刑写真とBBC『南京大虐殺』の酷似 (2007.10.28)
上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (2007.11.4)
日本人捕虜の残虐処刑写真に関する中国人の議論 (2007.11.9)
猟奇的な大山中尉殺害事件 (2007.11.14)
通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会 (2009.3.20)
清朝時代の処刑写真を日本のものとして展示しているサイト (2009.9.26)

[『中国の処刑文化と支那事変』トップページに戻る]




脚註:

  1. ^
    大橋 正確な数字が判らないのです。民会や警察の名簿に載っていたのは内地人男八十名女二十二名、半島人男百四名、女七十八名、計二百九十五名とかいうことですが、北平からわざわざ避難して来た者も四、五十名居る様ですし、名簿に載ってない旅行や視察に来た人もいますから困るのです。ですから、三百八十名位の見当なのです。
    竹原 それも何処か一廓を定めて日本人の地帯でも作って其処にでもいたならばまだしも、これだけが城内各方面にちりぢりばらばらに住んでいたのですから、尚、酷いのです。

  2. ^ これは台湾国防部史政局の『抗日戦史』を参考文献とする国民党側のソースであり、しかし殷汝耕は日本に留学し日本人を妻に持つ人物であり、その後に中華民國臨時政府や南京国民政府と一貫して親日政権に参加し、1947年に漢奸として処刑されているため、この説の信憑性は非常に低いと見られる。 Wikipedia. "Tungchow Mutiny".; サーチナ. 『【今日は何の日】1935年:関東軍の華北分離が実現』, 2008/11/24(月) 08:35.

  3. ^
    其の為に通州門外に駐屯して居た約一個大隊の二十九軍の一部の不穏な動揺の色ありとの情報があったので、二十七日の夜から二十八日の払暁にかけて、日本軍が空陸呼応して攻撃し、終に敵を沈黙させて全員の武装解除をしたのです。この武装解除の時には通州保安隊の一部も駆けつけてその手助けをした位です。この時から保安隊には少し動揺の様子があったのです。

  4. ^ 中村粲. 『大東亜戦争への道』. 展転社, 1990. (昭和史の真実. 『惨!通州事件』, 2007/08/05 10:53).
    折もおり、通州の日本軍守備隊は、主力が南苑攻撃に向かい、留守部隊は藤尾小隊40名、山田自動車中隊50名、それに憲兵、兵站(へいたん※補給の事)、兵器部その他を合わせて110名程度の微弱な兵力でしかなかった。

  5. ^ これは秦郁彦氏の受け売りと見られる。
    秦郁彦. 『中村粲氏への反論 謙虚な昭和史研究を』. 諸君 1989年11月号, 216. (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件への視点』).
    当時の日本の新聞も大々的に宣伝したものだが、実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となっておこした反乱によるもので、いわば飼犬に手を噛まれたようなもの。

    秦郁彦. 『現代史の争点』. 文春文庫 , 2001, 229. (東瀛論説. 『秦郁彦 『現代史の争点』 (文藝春秋)』).
    通州事件は、「実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となって起こした反乱によるもの」であって、中国側の日本にたいする虐殺とはいえないこと。

  6. ^ 岡野篤夫. 『通州事件の真相』. 正論 1990年5月号, 225-227.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件の引き金』).

  7. ^ 網易NetEase. 『1937年通州事變:一場起義偽軍対日軍民的殺戮』, 2007.6.5. 12:24.
    張慶餘(1895---1963),字賀軒,河北滄県申家莊人,1916年畢業於北京陸軍模範団歩兵科。属任直隸軍連、営、団、旅長等職,1933年任冀東特種警察隊第一總隊隊長。1935年11月改任偽冀東保安隊第一総隊隊長,1937年7月率部起義,転保定、洛陽、西安,於1938年隱居四川金堂県什坊鎮。後被委任為国民党軍委会中将参議。1946年夏,退役与家人定居天津,直到病逝。

    張慶餘(1895-1963),字賀軒。河北滄県申家莊出身。1916年に北京陸軍模範団歩兵科卒業。軍連、営、団、旅長などの職を勤める。1933年に冀東特種警察隊第一総隊隊長に任命される。1935年11月には冀東保安隊第一総隊隊長に就任。1937年7月に部下を率いて武装蜂起をし、保定、洛陽、西安を転々とし、1938年に四川金堂県什坊鎮に隠遁。後に国民党軍事委員会の中将参議を勤める。1946年夏の退役後、家族と共に天津に定住。病死。
    網易NetEase. 『1937年通州事件:武装蜂起の傀儡軍による日本人軍民の殺戮』, 2007.6.5. 12:24.

  8. ^
    即ち…蒋介石は日本軍に対し二十四時間以内に北支より撤退せよ、然らざれば三百台の飛行機を以て、大挙、北平、天津を空爆するぞと通告せり…とか、支那軍は至る処に大勝を博して日軍を潰滅し北平、天津、豊台は完全に支那軍が占拠し、廊坊は奪還せり…とか支那軍飛行機は、満州国を襲撃しシンヨウ(奉天)市内は火災を生じ錦州も同様にて、目下暴動反乱が蜂起せり…とか、蒋介石は目下鄭州にあり全軍の指揮に当たっていると言う様なのですが、

  9. ^ 寺平忠輔. 『盧溝橋事件』 (読売新聞社, 1970), 369-371.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件の引き金』).
    確か七月二十七日ごろと記憶するが、北京特務機関がキャッチした南京放送ニュースは次のようにいっていた。
    「日本軍は盧溝橋の戦場において、我が優勢な二十九軍と交戦の結果、支離滅裂の敗戦に陥り、豊台と郎坊とは完全に我が手に奪還してしまった。
    北京及び天津方面に在る日本居留民は、家財をまとめ、目下陸続、満州、朝鮮乃至本国に向って引き揚げを急いでいるが、今日の情勢をもって推移すれば、是軍が我が華北一帯から、完全に姿を消してしまうのもここ旬日を出ないであろう。
    現に我が中央軍は、津浦、京漢両鉄道によって、陸続華北の戦野に兵を進めつつあり。また蒋委員長も、今すでに河南省鄭州に達し、一両日中には保定に赴いて自ら戦線を督励するはずである」
    そして最後に
    「なお、最近北京における軍事会議の結果、蒋委員長は近く二十九軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにして、満州失地恢復の第一声を挙げる事を決議した」と叫んでいる。

  10. ^ 秦郁彦. 『盧溝橋事件の研究』. (新風社, 1948), 317.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件の引き金』).
    通州で反乱にぶつかり九死に一生を得た同盟の安藤記者も、二十八日夕方に冀東政府内で同主旨のラジオ放送を聞いているから、張慶餘らはこのデマに踊って反乱に踏み切ったのかも知れない。誤爆や萱島連隊の移動は、それを促進する材料となったのであろう。

  11. ^ 岩崎春茂. 『戦の北支より帰りて』. 支那事変 戦線より帰りて. (朝日新聞, 1937.8.25), 48-49.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件の引き金』).
    支那側は、或は南京の方面からラヂオ放送に依りまして、又天津及び北京に於きましては新聞社は各々号外を発行致しまして次のやうなことを発表して居ります。「支那軍は二十八日豊台方面の日本軍を殲滅し、目下日本軍は各方面に潰走中である」といふ宣伝をぢゃんぢゃんやつたのであります。

  12. ^ 「保安隊広大官兵憤憤不平,難咽這口屈辱気,保安隊第一総隊隊長張慶余立即把第二総隊隊長張硯田及教導総隊沈維乾找来密談:“城南的戦鬥和日機轟炸教導総隊営地,已経激起保安隊官兵的義憤,我們怎麼辦?”張慶余首先微求二人的意見。沈維乾説:“不是魚死就是網破。依我看,現在就可以動手。”張硯田有些顧慮:“我們的行動已經暴露了,日本人已有了準備,動手以後再同29軍接應不上,全軍就要覆沒。”」; 百度百科. 『通州事件』.

  13. ^
    ところが死に物狂いになってやってみたけれども少数の通州日本軍が意外に頑強で、これをやっつけるのを苦心している内に、援軍が到着するし、空襲はされる、危ないと思ったのでその鬱憤を無力の居留民の虐殺で果たし、行きがけの駄賃に金目のものを掠奪してしまったのです。

  14. ^ 田中隆吉. 『裁かれる歴史』. (新風社, 1948), 47-48.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件の引き金』).
    この軽爆隊は軽率にも、二十九軍の一大隊を友軍と誤まり、友軍である冀東保安隊を敵と見て痛烈なる爆撃を浴びせた。冀東保安隊は激怒した。そして攻撃を中止して二十九軍と合流し叛乱を起した。殊にこの叛乱に拍車を掛けたものは日本軍が南苑に於て大敗を喫したとの宣伝であつた。

  15. ^ 信夫清三郎. 『聖断の歴史学』. (勁草書房, 1992/06), 115-116.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件への視点』).
    <では発表します>と言って、私が部屋を出ようとすると、この発表を好ましく思っておらなかった橋本参謀長(秀信中佐)は「保安隊とせずに中国人の部隊にしてくれ」との注文だった。勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私は、ものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った。

  16. ^ 信夫清三郎. 『聖断の歴史学』. (勁草書房, 1992/06), 115-116.; (南京事件-日中戦争 小さな資料集. 『通州事件への視点』, 115-116).
    居留民の家は一軒のこらず襲撃をうけ、掠奪と殺戮にあった。掠奪には保安隊員だけでなく市民も加わった。日本人の旅館近水楼の掠奪は徹底的であった。...
    戦史家児島襄は、「在留邦人三百八十五人のうち幼児十二人をふくむ二百二十三人が殺され、そのうち三十四人は性別不明なまでに惨殺されていた」と指摘し、「生き残った者は、かろうじて教会に逃げこみ、あるいは例外的な中国人の好意でかくまわれ、中国服を着用して変装できた人々であった」としるした。

  17. ^ 鳥飼研究所. 『近衛文磨首相の暴支膺懲発言と上奏文』.

  18. ^
    すると直ぐ十五、六名位の暴漢が物凄い叫びをあげて塀の中に這入って来ました。「日本人在那児」 (日本人は何処にいるか) と言うのです。誰も答えません。すると誰かゞ知っているらしく僕の家に飛び込んでガラガラ家財道具をひっくりかえしながら探していましたが、そのうち外に出て他の五軒の支那人の家を起して一々中に入って調べていました。「那児去了摩」(何処へ行ったか) と聴くと「不知道」 (知らん) と答えるばかりです。

  19. ^
    廣田 あの時、王は震えていたが、蒲団から顔を出して「あんた達は顔が白いから、若し此処へ土匪が来たときに大人と思われて危ないから、土間の隅にある釜のススを塗れ」と言われて二人はあわてて塗りましたっけね。

  20. ^
    竹原 然し冀東地区内に居る自分らは大丈夫だと言う自信は十分あった事は確かです。其の証拠に事変が起こってからでも公園に夕涼みの散歩をする者の数は多く、白河の岸で雲雀を鳴かせている人達は平素と変わりありませんでした。支那人は多少でも自分らの生命や財産を脅かされる懸念のある時は一刻も愚図々々 しないで何処かへ遁げて行きますよ。

  21. ^
    そして若しこの中にいるのを密告でもされるといけないと言うので粮桟の男達四人と大劉小劉に五円宛、番頭に十円の札をくれてやりました。

  22. ^ Higashinakano, Shudo. "The Nanking Massagre: Fact versus fiction". (Tokyo: Tendensha, 1998). English Edition by Sekai Shuppan (Tokyo: Sekai Shuppan, 2005), 329. (英語版より訳).
    【屠城】

     中国において、降伏を拒絶する敵軍を滅ぼす事を屠城と言う。諸橋轍次編全13巻の『大漢和辞典』では、軍に関する章『荀子』でその例として『不屠城』(ここでの「屠城」とは「城を陥れて城中の人を殺戮すること」である)が挙げられている。紀元前3世紀に活躍した荀子は、屠城をしないよう兵士に訓戒を出している。その単語「屠る」は抵抗する敵の城壁を破壊し、その城砦都市の民衆をまるで獣のように虐殺する攻撃者の行動を表す。「屠城」と、単に城砦都市を攻め落とす意味の「拔城」とはその意味に明確な違いがある。

     同辞書によると「中国の軍人のリーダー達の『堅壁清野』戦術、つまり城壁を強化し野を焼き払う事、それは征服する敵に戦利品を残さない軍事的戦術である」とある。その作戦が行なわれる時、征服軍は食べ物も隠れ家も労働者も得ることは出来ない。その「堅壁清野」は4世紀まで遡った「晋書」の時代にも言及されている。「城壁は強化され、畑は焼かれ、何も残らない」と。蒋介石が南京戦で行なったように、その作戦が20世紀まで行なわれていたことは周知の事実である。諸橋轍次編『大漢和辞典』(大衆館1955-60)第4巻162ページを参照。 [訳=岩谷] (原文:英語)


    【屠城】 40 トジヤウ
     城を陥れる。城を陥れて城中の人を殺戮すること。
    〔荀子、議兵〕不屠城。
    〔楊注〕屠、謂毀其城、殺其民、若屠者然也。
    〔後漢書、袁紹傳〕屠城殺吏。
    (諸橋轍次編『大漢和辞典』(大修館) より)

  23. ^ 呉弘達. 『中共利用死囚屍体制作塑化人体標本』. 看中国, 2008年2月15日. [魚拓]
    呉弘達. 『中共はプラスチネーション人体標本制作に死刑囚を利用』. シークレット・チャイナ, 2008年2月15日.
     據我們掌握的情況,法警大都用特殊子弾,頭部往往被打得粉碎,甚至半個頭顱飛失。
     私達が把握している状況では、司法警察は特殊銃弾を用い頭部を往々にして粉砕、頭の半分が消し飛ぶに至る。

  24. ^ 博訊新聞のサイトでは死刑執行で頭部を粉砕された死体の写真が多数掲載されている。 博訊新聞網. 『震撼図片』, 2004-2006.

  25. ^ Zhang, Luqing, Yunfeng Wang, Ming Xiao, Qunying Han and Jiong Ding; Department of Human Anatomy, Nanjing Medical University, Nanjing, China; University Medical Library, Nanjing Medical University, Nanjing, China "An ethical solution to the challenges in teaching anatomy with dissection in the Chinese culture" in Anatomical Sciences Education. (American Association of Anatomists, 2008). Abstract cited in Wiley Inter Science.
    張露青、王雲峰、肖明、韓群穎、丁炯;南京医科大学人体解剖学部;南京大学医学図書館. 『解剖学実習教育の中国の文化におけるチャレンジへの倫理的解決法』. (アメリカ解剖学協会, 2008). 概略はウィリー・インターサイエンスに掲載.

  26. ^ Congressional Executive Commission on China Annual Report 2006, p. 59; note 224, p.201: ‘‘Organ Transplants: A Zone of Accelerated Regulation’’ [Qiguan yizhi: jiakuai guizhi de didai] [器官移植:加快規制的地帯], Caijing Magazine [財経雑誌] (Online), 28 November 05, reporting that over 95 percent of organs transplanted in China come from executed prisoners. Cited in Wikipedia. Reports of organ harvesting from Falun Gong in China.
    中国に関する議会・政府調査委員会. 『年次報告2006』, p.59; note 224, p. 201: 『器官移植:規制地帯の加速』, 財経雑誌, 2005年11月28日号, 95%以上の中国での臓器移植は死刑囚のものとの報告。英語版ウィキペディア. 『中国における法輪功からの臓器収穫の報告』の脚註より。

  27. ^ 筆者の知人の文革世代の中国人の証言によると、重罪が銃殺刑になるとの事。

  28. ^ 思いつくまま. 『呂寧思+何亮亮:西安西北大学事件』, 2006-06-23 16:02:10.
    [何亮亮:] 西北大学共産党委員会の通告を含め、関連報道によると、実際に多くの身分のわからない外部の人が参加していますが、多分ルンペンか、社会のゴミでしょう。彼らはこの件を利用して騒ぎを起したわけですが、彼らはどれだけ中日関係の問題を理解しているでしょうか?彼らはどれだけ西北大学の3人の演技を理解しているでしょうか?ですから、私はこの事件は非常に深刻だと思います。中国社会の一部にはいくつかの問題があることがこの件から見て取れます。

  29. ^ 水谷尚子. 『西安・反日学生暴動 日本人留学生 「恐怖の一夜」を語る』. 文芸春秋 2003/12/10 2004年1月号. Cited in 西安留学生寸劇事件@news.

  30. ^ 思いつくまま. 『呂寧思+何亮亮:西安西北大学事件』, 2006-06-23 16:02:10.
    何亮亮:今言ったのは西北大学内の事情、西北大学学生のこの演技に対する反応ですが、第2の事情、いわゆる「反日」デモについて話したいと思います。これは絶対に「反日」デモではありません、一種の反社会的な暴力行為です。西北大学共産党委員会はすでにはっきりと述べています。日本料理店を壊し、物を焼き、詳しいことはわかりませんが、西北大学共産党委員会は次のように書いています。すなわち、もし適時に制止しなかったら、西北大学の空前の大災禍となったであろう、と。「大災禍」(原語「浩却」)というのは漢語では極めて深刻な言葉です。私の記憶では「文革」を形容する時に、中国当局はこの言葉を使ったことがあります。ですから、当時を経験した人にとっては記憶は鮮烈です。





写真:

  1. ^ 毎日新聞社. "Occupied Tongzhou by IJA.JPG". 「昭和史第8巻 日中戦争勃発」. Cited in Wikipedia.
  2. ^ yutakamaharukita. 『絵葉書●北支那事変●通州南門 特務機関室』. Yahoo!オークション. [魚拓]
  3. ^ 皇徳奉賛会出版部 (宮居康太郎・編). 『支那事変戦史 後編 - 各社特派員決死の筆陣』, 1937年12月18日刊; Cited in 反日ワクチン. 『通州事件特派員特電』, 2007年7月5日.
  4. ^ uYYu. 『通州西海子公園』, Panoramio.
  5. ^ 毎日新聞社. "Survivor of Tungchow Mutiny". 「昭和史第8巻 日中戦争勃発」. Cited in Wikipedia.
  6. ^ 庭軒-創造一個愿美的國度. 『大東亞史觀』, 2008年05月23日 13:28. 騰訊公司. [魚拓]; 大台灣共和國 -戰鬥時刻『大東亞史觀』, 2008年11月25日 18:59. [魚拓]
  7. ^ yutakamaharukita. 『絵葉書●北支那事変●通州日本特務機関の正門 通州城』. Yahoo!オークション. [魚拓]
  8. ^ 撮影年代不明。同ページのコレクションに1924年と1935年撮影の写真が多いため、それらと同年代と見られる。太陽の位置から北面ではないため、角の見張り塔と門の位置関係が一致するのは西門のみ。 Zuo Quan. "Tung-chow wall". Picasa, Aug 21, 2006.
  9. ^ China City Plans, U.S. Army Map Service, 1942-45. "Tungchow" 1:50,000 1942 (6.3 MB) Eastern China. University of Texas Libraries.
  10. ^ 中村粲. 『大東亜戦争への道』. 展転社, 1990. Cited in 東アジア黙示録. 『通州事件の捜査ファイル…封殺された虐殺70周年』, 2007/08/05 10:53.
  11. ^ 独眼烏鴉 [投稿] . 『百年漢奸榜』. 博愛論壇, 2004.2.11 14:06:25.
  12. ^ 百度百科. 『冀東防共自治政府』.
  13. ^ 別宮暖朗. 『北支工作』, 第一次大戦.
  14. ^ 高航 [編]. 『抗戦全景--局部抗戦階段』「抗戦烽火:長城抗戦[組図]」. 新華網.
  15. ^ yutakamaharukita. 『絵葉書●北支那事変●郎坊支那兵営 通州城南門』. [魚拓]
  16. ^ 中国中央電視台. 『審判漢奸(組図)』, 2008.11.24 14:06:25.
  17. ^ 支那事変戦史; 反日ワクチン. 『支那事変支那軍の挑発』, 2007年4月29日.
  18. ^ yutakamaharukita. 『絵葉書●北支那事変●天津 支那街東馬路 東停車場前』. [魚拓]
  19. ^ yutakamaharukita. 絵葉書●北支那事変●天津日本租界白河水上 特別第三区』. [魚拓]
  20. ^ 致命一撃. 『西安事件図片(自西北大学兵馬俑)』, 2003.10.31. 数碼映像倶楽部.
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はてなブックマーク - 通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会

コメント

以前の記事もWikipediaでリンクされるに相応しい、充分信頼のおける資料として成り立っていたと思いますが、
再構築されたことで近似の事件を並べてより深く多角的に見る(考察する)ことができ、尚且つ分かりやすい記事になっていると思います。

もちろんあきらさんの元のテキストもあるのですが、改めて文太さんすごいなぁと思わされました。


通州事件含めこの時代一連の事件については、国内在住でも手に負えない代物ですよw
あんまり詳しく書こうとするとボロが出るので、控えめに…


ただの残虐な反乱・殺戮というだけでなく、当時(そして今の)中国人というもの、時代や事件の背景、位置付けなどを考えながら見てみるととても興味深いですね。


ちょっと外れますが、座談会にて「ウンの尽き~」のくだりは、それほどのことが起きた状況でよくそんな風に言えるなぁなんて、やっぱりその図太さというかユーモアがある意味すごいと思いますw

ハリウッド映画なんかで、どんなシリアスな状況でもジョークを言うアメリカ人と通ずるものがあるような…


兎にも角にも編集お疲れ様です。

  • 2009/03/21(土) 06:18:22 |
  • URL |
  • アンタレス #mQQEfdr.
  • [ 編集]

アンタレスさん

勿論あきらさんのテキストがきっかけで、ここまで考えるのに2年かかったという事ですが (笑)

通州事件で思い出すのがやはり2003年の西安西北大学寸劇事件の反日暴動ですが、ここでも正体不明の暴徒が日本人を探し出しては暴行と略奪を行い、一方で西北大学側の教師学生はむしろそれを阻止していたという状況、ここでも共青団によるものと見られるデマビラに煽動された暴徒が少なからずいた事、それが地元のならず者が中心になっての暴動であった点、そして反日教育世代が中心になった暴動という点で、その構図としては非常に共通点があります。

通州だけでなく支那事変全体を理解するには、66年経っても同様の事が起こるあの民族性を考えなければ全く理解不能であり、ただその残虐さで国や民族全体を悪魔視してみたところで、又は旧エントリーに貼り付いていた方のように政治枠組みや軍事作戦・歴史事例の数例を挙げて理解した積もりになっても、そこには何の本質も見えない訳です。


200人以上殺害されてまだ死体がその辺に転がっている事件4日後に、座談会で笑って話しているという辺りが普通の感覚では理解出来ないのですが、むしろ日本軍が保安隊を鎮圧した後の安心感から興奮状態になっていたのではないかと、あきらさんが日記で言及していましたね。

イランで解放された邦人人質が解放時に明るい顔をしていたのと通じるものがあります。現実の感覚に戻るのはもう少し後になってからなんでしょう。

勿論、「分別のありそうな人を選んで」座談会に招いたと記者が座談会前記で書いているように、重症を負った人やトラウマでまともに話せないような人はここには来ていないという事ですね。

それにしても、この時代の半ば無法地帯の危険な大陸に来ようという人達はそもそも逞しかったのでしょう (笑)

  • 2009/03/22(日) 03:02:29 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

文太さん。
御無沙汰しております。通州事件の根本的な問題点を明確にしていただき感謝にたえません。だいたい冀東政府を「傀儡」などと主張するのは相手国側の言い草であり、我が国が用いるのは滑稽としか言えないものであります。この残虐事件の様相は、支那人の民族性を知るに十分なものであり、今日我が日本軍が行ったとされている幾多の惨殺事件に大きな疑問をもつきっかけになるでしょう。
当時の通州はアヘン密売の中継地でして、重要な地点であったことは間違いないかと思います。パソコンでの打ち込みは未だに苦手で、これで失礼させていただきますが、ほんとありがとうございました。このエントリーがより広く読まれることを願っております。

  • 2009/03/23(月) 11:07:04 |
  • URL |
  • あきら #-
  • [ 編集]

すごい出来栄えですね。驚きました。西北大学事件などから集団による危険な性質を現代でもシナ人は持っているのですね。4・26長野での暴乱ぶりもシナ一部隊の中に責任者の様なシナ人がいたからいいようなものの、無制御・無軌道なシナ人集団だったら日本人はシナ人の6分の1くらいの人数でしたので何かのきっかけでグチャグチャになっていたかも知れません。より一層警戒感が強まりました。

  • 2009/03/23(月) 18:56:47 |
  • URL |
  • しきしま #-
  • [ 編集]

あきらさん

どうもその節はお世話になりました。
冀東政府や満州国を「傀儡」と呼ぶのは結局日本の敗戦という歴史の結果によるものであり、日本は冀東、南京臨時政府、南京国民政府、満州国のいずれも、現地人による現地政権を支援していた訳で、イラクにおける米国とそう変わらない次元だと思うのですが、結局のところ戦後に教育界やメディアなどが中心になって戦前の完全否定を行ったために、むしろ現在の日本が連合軍の傀儡政権のようなものですね (笑)

20世紀前半の中国における公開処刑の写真は、当時の駐中米兵の子孫がウェブサイトで公開しているケースを幾つも目にする事が出来ますが,1920年代から30年代辺りに米兵が現地で闇屋から購入したと見られる清朝末期から上海クーデター辺りと見られる処刑写真の殺害方法の流儀が、まさしく「日本軍の残虐行為」として出回っている写真そのままなので、当時の闇商売で出回った出所の不確かな写真が体よく戦時中のプロパガンダに利用され、そのまま現在に至っているのだろうと、調べれば調べるほどそういう確信が強くなります。

アヘン密売に関しては、“中国毒化政策に対する中国民族の抵抗が通州事件であった”と信夫清三郎氏は分析をしていますが、中国側の資料ではアヘンに関する言及は見た限りでは皆無であり、それが冀東政府が地元の匪賊を掻き集めた保安隊による虐殺行為の直接の主要動機であったとは考えられないので、今回はテーマが大きくなり過ぎるため割愛しました。

  • 2009/03/24(火) 04:53:54 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

しきしまさん

いえいえ恐縮です。2年かけて多少は読解力が付いて来ました (笑)

従来は、例えば大紀元などの反共メディアが盛んに宣伝を行っていたように「悪いのは共産党独裁政権で民衆はその犠牲者」のようなイメージは特に欧米では持たれていたようですが、特に北京五輪の前のフリーチベット運動の一連の騒動でかなり見えて来たのが、実はそうではなくてあの「中華的全体主義」は民衆一人一人が強烈な中華主義を持っているからこそ、あの共産党政権が共産圏崩壊後も未だに健在であるという世界にも特殊な中華的構図がはっきりと見えた一件だったと思います。

それから、非常に政情不安定な時代から共産党独裁政権を経た国の人は恐らく、集団発狂しながらも自分はどこまで安全であるかという、どこまでやれば逮捕されないかなど、そういう情報には非常に敏感な筈であり、西安で死者が出なかったのは他ならぬ、中国で殺人を犯せば100%死刑になるという事が分っているからであって、その反動からか闇に紛れた群衆の暴徒となった時に凄まじい凶暴性を持つと言う面はかなり感じます。

そういう点長野では日本の警察の反応を見ながらぎりぎりの所でやっていた狡猾さは感じました。

個人個人では結構単細胞で純朴な人が多いのですが、だからこそデマに流され易く理屈そっちのけの中華主義に走る人が多いのかもしれません。

  • 2009/03/24(火) 04:57:38 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

あなたのサイトは素晴らしいと思います。
有益な情報を有難う御座います。

  • 2009/06/07(日) 21:53:45 |
  • URL |
  • no name #-
  • [ 編集]

あきらさんから、文太さんが、RedFoxで通洲事件を取り扱っておられる内容を、改めてご紹介いただきました。

戦争でもなんでも、勝てば正義というのを改めて思い知らされます。特に、支那人はこういう所は100%
ねじ曲げても、寧ろ優越感に浸れる連中が多いと、最近起こったデモに関しても、そう思ってしまいます。
この頃、うちの実家付近で、支那人らしき空き巣集団が横行しております。
回覧板が来て、注意を促しております。
日本でも留学生を名乗る支那人が、一家惨殺しており、通洲事件は、過去の事件ではない、改めて思います。
ブログの情報の方を、mixiでお借りしております。
よろしくお願いいたします。

  • 2010/07/30(金) 15:56:30 |
  • URL |
  • 白獅子 #-
  • [ 編集]

白獅子さん

昨日は通州事件の日でしたね。
このブログを始めた動機の一つが支那事変開戦に至る原因となった一連の日本人惨殺事件でしたが、2007年当時は日本国内でも戦前の日本軍は悪で残虐という論調が既成事実のようになっていた状況で、これは凌遅刑から近年の銃殺刑に至るシナ大陸の伝統であるという事実に関して声をあげる必要がありました。

その後チベットの粛正などもあり、漢民族の歴史的残虐性は今は周知の事となり、今は当初の目的はある程度は達成されたと思います。

ただし、それが行き過ぎてしまい一つの民族全体を悪魔視するのはシーシェパードやザ・コーヴが行なっているような非常に分りやすいアジテーションと同じ事であり、このやり方には行き着く先はないので、やはりその文化背景や歴史に起因する民族性を知り、映画やドラマのような非現実物語でなく現実的な視点で当時を考える事がこれからのテーマではないかと思います。

当時日本側についた中国人も数多く存在した中で、匪族から成る保安隊が日本人虐殺を行ない、彼等が同じ民族だから味方同士でも何でもないという構図は現在でも変わらないので、やはり犯罪者予備軍を日本に入れないためにどうしたら良いかを考えるのが現実的な取るべき方策ではないかと思います。

歴史論争に関してはこれは永遠に終わらない事だと思いますが、これを引き起こしたのはむしろ日本国内の左翼が国内のもめ事の道具として特亜を利用している要素は非常に大きいので、むしろ歴史論争の首謀者は国内にいる訳です。

  • 2010/07/31(土) 18:34:08 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

ゆうさんのページって全然中立視点にはなってませんよ

私は南京大虐殺の中国側主張は事実無根では有るものの、捕虜殺害は有ったので無かったとは言わない。
本質は只のプロパガンダだというスタンス。
それはもし中国人が、こういう物に嫌悪するのであれば、その後の大虐殺は行われていない筈だから(自国民やチベット・ウイグルなど)
少し話しはズレたけど、ゆうさんのサイトの写真検証法が凄く乱暴で、例えば写真の検証をする時に、どう悪魔の証明をするかだけど、中野辺教授は南京事件の証拠として挙げられている物を、地域と時間を区切る事によって、始めて悪魔の証明が成せた訳だけど、それを南京とは限らないとか、冬とは限らないとかいう詭弁でもって、「仮定として構築した枠」を壊す事により、嘘としている
たださ不思議なのが、では有った証拠は?というとマギー証言を必死で説くけど、本来南京攻落時に行われたとされる、大虐殺を証明する写真が一枚も無かった(少なくとも、これは仮定の枠は可能)という事実を無視して、肝心のマギー証言にしても、東京裁判のルール(戦勝側の偽証は罪にとは無い)を隠し、後にマギー証言が実は本人が見たものでなく、中国人からの聞き売りだった事が、日記などから明らかに成っているし、当時の新聞記事にしても都合の悪い事は一切無視で(便衣兵が紛れ込み、犯罪を犯し日本人のせいにしていた等も、発信されている)後に中国人からの又聞きだったと証言した記者の記事をもって証拠としている(その記者は後に、陥落してから入城したけど、日本人による虐殺や暴虐の類は一切なかったと語っている(週刊誌)

それでもゆうさんのページを全て否定はしない、何故なら南京事件に於ける良サイトがどんどん閉鎖するなか、中国主張肯定サイトながら、ある程度真摯な態度が見受けられるからで、普通南京事件の話しになると、肯定派は妄信するだけで会話自体が成立しない。ゆうさんと会話が成立すると言うのではなく、新しい事実に苦しいながら、必死に反論する姿勢は
評価はしている。その点は評価している。

  • 2011/12/17(土) 12:15:07 |
  • URL |
  • 通行人 #-
  • [ 編集]

はじめまして。
通州事件のことは、初めて知りました。
南京事件を教科書に載せて、なんでこんな残虐極まりない事件を載せないのでしょうか。日本を一方的に悪とする事は、
許されません。歴史を正しく学ぶためにも
教科書に載せるべきです。

  • 2012/05/20(日) 01:04:55 |
  • URL |
  • 播州人 #-
  • [ 編集]

播州人さん

こちらこそはじめまして。
ご存知の通り教科書とは史実ではなく政治ですので、中国を刺激したくないから通州は葬り去られている訳です。
それから日本が敗戦国であるために、連合国側の戦時プロパガンダで作り出された南京が未だに史実として認識されています。
しかし実際意図的に死体損壊を行うのはこれは非常に中国の死生観に根ざした行動ですので、実際大虐殺を行う文化を持っているのはどちらなのか、通州がこういう形で起こったという事実を見れば答えは自明です。
それでもネットを中心に通州は認識されて来ていますので、7-8年に比べれば日本が一方的に悪かったという認識は大分改善されている感触はあります。

通州に関してこのエントリーで扱っているのは、難を逃れて直接虐殺現場にいなかった人達の座談会ですが、実際もっと凄まじい目撃証言は見つける事は出来ます。

通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)   日本人皆殺しの地獄絵
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1

通州の現場を最初に目撃した日本軍関係者の証言
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/yougo/tsusyu.html

  • 2012/05/22(火) 06:01:28 |
  • URL |
  • 岩谷文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

はじめまして。私はドラマの「大地の子」のように「鬼っ子」であった日本人残留孤児を育て上げた中国人のスケールの広い一面も知るべきだと思うのですが。しかし、中国日本人残留孤児はいますが、朝鮮日本人残留孤児については聞いたことがありません。孤児たちは一体どうなったのでしょう。最近「和夫一家殺害事件」について知ったのですが、本当にそんな事があったのでしょうか。通州事件に通ずる戦争に潜んだ人の心の闇の世界を感じずにはいられません。

  • 2013/08/09(金) 06:43:52 |
  • URL |
  • 大地の子 #-
  • [ 編集]

大地の子さん

この座談会に登場する森脇高英氏をかくまった大劉小劉や番頭、廣田利雄氏と大橋松一郎氏をかくまった洋車夫の王(ワン)、そして村尾昌彦大尉夫人をかくまった中国人のボーイに関する記述、およびエントリー後半の考察を読んでいらっしゃるならそういう感想にはならないとは思います。
規模の大きなエントリーではありますが、要点すら読まずに一方的に別な話題を持ち込んで来るのはマナー違反ですよ。

  • 2013/08/14(水) 13:19:32 |
  • URL |
  • 岩谷文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

はじめまして、ツイッターでたまたまこちらの記事の紹介がされていましたので見に来ました。

もう驚きです・・通州事件の生き残りの方のここまで詳しい証言を初めて見ました。
また、膨大な参考資料など綺麗にまとめるのも大変だったと思います。
とかく日本のメディアなどでは先の大戦での中国の話になると南京事件などの日本軍が~系の中国のプロパガンダのようなものが多いのですが
この通州事件のような日本人が被害者になっている事実こそ日本国民は知る必要があると思います。
それを学ぶ上でこの記事は大変貴重だと思います。

  • 2014/01/23(木) 18:19:10 |
  • URL |
  • 銀時 #T.9YoUd6
  • [ 編集]

銀時さん

ありがとうございます。
これは当時出版された証言で後の時代のフィルターを経ていないという点で貴重な資料ではありますが、リアルタイムで取材をした記者と4名の被害者の証言と、その他の文献資料を比較検証する事で当時の背景がより見えて来るという、非常に興味深い作業でもありました。

当時数日置きにおきた大山中尉惨殺事件や近藤二等兵殺害事件など、当時の中国人が猟奇的肉体破壊惨殺行為を行ったという話は幾らでも出て来ますし、日本人を残虐民族だと演出するために実際に中国人が行った事が日本の敗戦や中国の反日教育によってかなり日本人のせいにされているのではないかという事は調べれば調べるほどそういう印象は強くなります。

  • 2014/02/01(土) 01:49:07 |
  • URL |
  • 岩谷文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

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