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【Students for a Free Tibet 6】中国で拘束されたエベレスト抗議メンバーの体験談

 昨年の春、チベット動乱や北京五輪聖火が欧米で強力な反対運動に会ったりなどチベット問題が世界の注目を浴びた当時、世界各地に支部を持つ米国のチベット支援団体「Students for a Free Tibet」(SFT) の活動に関する特集エントリーを組んだが、シリーズ第一回のエントリーで扱った2007年4月25日のエベレスト山ベースキャンプにおけるSFTのプロテストの後の中国当局による55時間の拘束に関して、プロテストメンバーのうちテンジン・ドルジェ氏とローレル・スザーリン氏自身による体験談がネット上に公開されているので、今回はそれらの体験談を中心にエベレストのプロテストに関して更に詳しく扱ってみようと思う。

 2006年10月にチベットからネパールに国境を越えようとしたチベット人の一団が中国の国境警備隊に射殺された様子がルーマニア人に撮影され世界にショックを与えたその半年後の、2007年4月のパンチェン・ラマの誕生日に、亡命チベット系米国人のテンジン・ドルジェ氏がエベレストでチベット国歌を斉唱する様子が生中継でネット配信された事で、その翌年の世界規模でのフリーチベット運動への喚起となったこれは象徴的なイベントである。

 そしてこれは北京オリンピックの1年4ヶ月前という、中国にとってみれば国際的評判に神経質になっているというその時期に、「チベット問題」という中国ではタブーになっている問題に触れた米国人活動家がどのように扱われたのかが非常に興味深い内容となっている。


トップ写真:2007年4月25日、エベレスト山ベースキャンプでのSFTのプロテスト。 (Students for a Free Tibet) [A1]

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テンジン・ドルジェさん本人によるエベレスト抗議の体験談

2007年4月25日、エベレストのベースキャンプで、トーチを持ってチベット国歌を斉唱するテンジン・ドルジェさん (左) と横断幕を持つローレル・スザーリンさん (右) (Students for a Free Tibet) [A2]

 エベレストから衛星中継カメラの前で声明を発表し、エベレストのプロテストのフロントマン的役割を果たしたチベット系米国人のテンジン・ドルジェSFT副代表が、プロテストの様子から中国当局による55時間の拘束に関して、この時の体験を『中国人権フォーラム』に寄稿している。

 これは翌年2008年3月のチベット動乱の時期に刊行されたものである。



エベレストは私達の味方であった
パブリックプロテストの個人的エピソード
テンジン・ドルジェ 中国人権フォーラム 2008年第一号 (2008年3月24日刊)

2007年4月に、米国の「Students for a Free Tibet」の5人の活動家が世界の屋根でプロテストを行なった。彼等のプロテストはオリンピックの開催地の北京に向かう五輪聖火がチベットを通過する事が発表される前日に行なわれた。中国外交部は「中国分断を目論んだ非合法活動を行なった」として5人が拘束され、2007年4月27日にネパールに国外追放になったと発表した。テンジン・ドルジェさんが彼自身の旅を語る。


2007年4月、エベレストにて (Students for a Free Tibet/One world, One dream, Free Tibet 2008) [N]
 いつもなら夜に無数の星が見られる事で有名なチベットの空は、真っ黒に塗り潰されたキャンバスだった。南方を見ると、思わず息をのむその風景は分厚い雲の毛布に覆われていた。それが早朝のエベレスト山の光景であった。
 エベレストでのプロテスト決行日に選ばれたこの日にエベレスト山は見えず、私達の心は沈んだ。この任務計画のために考えられ得るすべての予測と準備をもっても、唯一天候だけは考慮に入れ忘れたのである。

 エベレスト山ベースキャンプへの無舗装の道を旅していた時にも誰もその事は指摘していなかった。
 最後の頼みの綱として私は子供の時に教わった祈祷文を唱え始めた。「21の多羅」として知られるように、これは多羅菩薩を呼び出すものである。
 その祈祷の半分まで読み上げたところで、残りを覚えていない事に気が付いた。ニューヨークに長く住み過ぎていた事を後悔したが、半分だけでも何もないよりましだと思い祈り続けた (チベット人の老人達は、不完全な祈祷文は「足の不自由な菩薩」であるとジョークを言うものだ)。

 ベースキャンプに到着する数分前に、誰かが拭き取っているかのように雲が東側に動き始め、エベレストの百万ドルの風景が現われた。間もなく太陽が顔を出し、雪に覆われたその頂上をオレンジに染めた。時が来たのだ。


(Students for a Free Tibet) [A3]
 私達は「一つの世界、一つの夢、フリーチベット2008」と書かれた5メートル半の横断幕を拡げた。チベットの自由を象徴するトーチに火をつけ、帽子を取ってチベット国歌を斉唱した。チベットの地で公にチベット国歌が歌われたのはその長い歳月で初めての事である。海抜5300メートルでは肺が空気を求めあがき、声が震えた。それは容易ではなかった。
 私達のチームリーダーのシャノンがこの様子を撮影して技術スタッフのジェフに映像を送り、ジェフはラップトップコンピューターと衛星テクノロジーを駆使して、プロテストのライブ映像をニューヨークに中継した。

 それから20分位経ったと思われるが、中国人の当局者達が私達に向かって走って来て、プロテストを止めるように激しく身振りで示した。
 その場で私達が拘束された時、ジェフがテープの入ったカメラを取って、追いかけた中国当局者を振り切って逃げ去った。


拘束と取調べ

 私達のプロテストで中国当局者達はうろたえているように見えた。横断幕に中国語で書かれた「西蔵独立」の文字を見続け、信じられないといった感じで首を振った。
 プロテストグループで唯一のチベット人である私に対して当初、彼等は敵意むき出しの態度であったが、他の白人の米国人と同様に私がアメリカ国民である事が分ると、距離を置いた丁重な態度にコロっと変わった。

 当局者達は私達をベースキャンプの事務室の建物に拘束し、横断幕、トーチやカメラを押収した。

 彼等は「紛失したテープ」の懸命の捜索を始めた。
 「テープはどこだ? テープはどこだ?」 
 プロテストの映像が既に世界のヘッドラインニュースに向けて発信されている事を彼等は余りよく理解していないようだった。

 ベースキャンプの当局者達は、午前9時頃の拘束から夜遅くまで休む事なしに取り調べを続けた。「誰がチベット自治区に入る事を許可したのか? 誰が横断幕を作ったのか? 一体誰が発煙筒を作ったのか?」
 その「発煙筒」がトーチの事だと分るのに数時間かかった。

 夜になって、シガツェ公安局 (PSB) の長い車列が到着した。40人程度の武装警官と兵士から成るPSBは、真夜中に私達をベースキャンプから連れ出し、起伏の多いチベット高原の長くでこぼこの道路を移動し、その地区の中心都市のシガツェに向かった。

 道中、車列は数時間毎に警察施設に立ち寄った。私達を照明の薄暗い建物に連れて行き、それぞれ別々の部屋で取り調べを行い、私達を車に戻して移動を開始するといった具合に。
 夜は長く暗く感じられ、道路の状態が次第に良くなった。夜明けまでにヒマラヤは背後に遠くなりシガツェに近付いていた。


中国当局の演出

 翌朝シガツェに到着して、私達はおよそ24時間そこに拘束された。シガツェ地区公署の駐車場は制服を着た武警でごった返しており、彼等は私達を好奇心をもって眺めていた。それまで最も厳しい態度だった私達の担当者が突然笑顔になり朝食を誘って来た。
 この予期しない態度の変化はむしろ何か疑わしいものに感じた。私達が拘束されて以来何も食べ物は与えられなかったのに、何で今になって与えようとするのか?

 コロラド出身の私達のメンバーのキルスティンは、中国当局から与えられた物には手を付けないように言われていた (独立運動に関わったチベット人が中国当局によって毒殺された例は沢山あるからだ)。レストランのウェイターはテーブルに気前よく食べ物を並べたが、私達の誰もが手をつけたがらなかった。
 私達の間には中国当局者が座っておりお互いに話す事が出来なかったが、彼等は「食べるんだ。今食べるんだ」と私達をしきりに促した。

 結局、空腹が警戒感を上回って、湯気を出す水餃子や熱いお茶の誘惑に屈した。
 食べ物に口をつけたその時、カメラマンの集団がレストランに乱入して来た。全方向からフラッシュがたかれ、この米国人拘束が飢餓拷問だったと誰にも分らないように演出されたのだ。


不眠不休の執拗な取調べ

 朝食の後、私達はシガツェ地区公署の建物の中に一部屋に一人ずつ入れられた。シガツェでは遥かに高いプロフェッショナルのレベルの取り調べが更に続いた。
 「誰がチベット自治区に入る事を許可したのか? ラサではどこに滞在したのか? ラサからシガツェまでのバス料金は幾らか? 一つの場所から次に移動するのにどれ位かかったのか?」

 何ページにもわたる質問を尋ねられ、それぞれの答えの後にサインを書かされ指紋を取られた。私の担当の取調べ官は「テンジン、真実を言わなければならない。この書類に書いた事には法的な責任が生じるのだ」と繰り返し言っていた。
 でもそれはお笑いだ。政府が最大の犯罪組織の人治国家で、一体何が「法的な責任」なのだ?

 夜には取調べ官は疲れ果て、帰宅をしたがっていた。それで彼等は私に寝るように言った。
 電気を消して枕に頭を置いた時、既に2日間寝ていなかった事に気が付いた。しかし目をつぶるとすぐにドアがノックされ、また同じ係官が部屋に入って来て電気をつけ、もう一ラウンドの夜中の取調べで更に私を起こし続けた。

 これがあとどれ位続くのだろうと朝までにはそのように思い始めていた。彼等はこのビルに私達を閉じ込めるのか、それともまた別な場所に連れて行くのか? それとも刑務所に送られるのか?
 ネパール国境で拘束されたチベット人達が連行されて刑務所に入れられるその地がシガツェなのだ。


突然の国外追放

 私を取調べた当局者がやって来て「お前達は中国の法律を犯したので小さな罰が与えられる」と言った。これには背筋に寒気を覚えた --- 中国における小さな罰とは大きな罰の事である。彼女は私にパスポートを手渡した。その最後のページにはビザのような紙が付けられ「2007年4月29日までに中国国外追放」と書かれていた。
 それから数分も経たないうちに私達は、9台の車に分乗した40人以上の当局者にエスコートされ、ネパールに向かう路上にいた。

 今度はヒマラヤ高速道路を来た時とは逆方向にドライブし、8時間後に私達はネパール国境に着いた。そこで他のメンバーのキルスティン、シャノン、ジェフ、ローレルの全員を見た時、私は幸福感と安堵感に圧倒されていた。最初の日に逃亡したジェフは拘束されてシガツェに連れて来られていた。

 チベット人でないこれらの友人達が、身の安全を危険に晒してまでチベットの人々を支援した事に対して感謝の高まりを感じた。彼等とは数日前に初対面だったにもかかわらず、彼等の無私無欲で大きな貢献によって、彼等に対する敬意と敬愛の感覚が私の中で自然に大きくなったのである。
 チベットの自由のための闘いを支えるためにはどこまで行っても構わないと彼等が考えていたというその事実が、中国当局すらも混乱に追い込んだのだ。


中国ネパール国境の「友好の橋」。正面が中国側。 (Prakash Mathema/AFP/Getty Images) [I]
 「友好の橋」のチベット側に立った時、私達はお互いに抱き合い笑い、そしてこの経験に関して冗談を言い合った。
 中国当局は私達の写真撮影を行なおうとしていたので、私達は互いに手を組んでピースサインをした。しかし当局者は「微笑むな。もっと悲しげにするように」と私達に注意をした。

 武警制服を来た背が低く逞しい当局者がどこからともなく現われて、英語で私達を叱りつけた。彼は指を動かし私達を指した位置で機械的に止め、そしてカメラのフラッシュが再びたかれた。


 私達は友好の橋を渡ってネパールに入った。国境の線を越えたその瞬間、私は空気に自由を感じた。まるで肩の上に重りが外されたかのように体が軽く感じた。武装した中国兵が数メートル先にいるのに怖れる事もなくネパール人の子供達が笑って遊んでいた。植物はより緑に、太陽はより暖かく、自由をより素晴らしいものに感じた。
 毎年何千人ものチベット人が凍傷や死のリスクを冒してまで地球で最も高い山脈を越えて、未来の定かでないネパールに逃げるのかが今は理解出来る。

1. 編集者注:このプロテストチームは、キルスティン・ウェストビーさん、ローレル・スザーリンさん、ジェフ・フリースンさん、シャノン・サービスさん、そしてテンジン・ドルジェさんからなるが、チベット内で亡命チベット人がプロテストを行なったのはこれが初めてである。


[訳=岩谷] (原文:英語;小見出し、関連写真および写真解説は訳者が追加、導入と最後の註釈1は中国人権フォーラムの編集者による)
*本翻訳の転載には許可を必要としないが必ず出典元を明記の事。
Tenzin Dorjee. "With Everest on our side: A personal story of a public protest". China Rights Forum, 2008, No. 1 - Human Rights: Everyone's Business (March 24, 2008), 79-81. PDF file cited in Human Rights in China [PDF] [CRF 2008] [docstoc]

中尼公路 (中国ネパール友好ハイウェイ) の地図
プロテストグループはラサに数日滞在した後にエベレスト北側のベースキャンプに入り、25日朝に拘束、その日の夜に中尼公路を通って地図中央のシガツェまで連行され翌日26日朝からおよそ24時間拘留され、そこから逆戻りして27日夕刻に地図左のジャンムで解放された。

(西蔵客) [U]

 このプロテストを取り上げたメディア報道等で特記事項として挙げられているのは以下の点:

  1. 中国占領下のチベット内での外国人活動家による初のプロテスト。
  2. テンジン・ドルジェ氏は亡命チベット人でチベットに戻った初の人物。
  3. 中国占領期の1950年に国家リフォームのために作られたチベット国歌がチベット内で公に歌われたのはこれが初めて (衛星中継という形で)。

 亡命チベット人二世のドルジェ氏は、米国パスポートで中国入りをしてもチベット人であるという理由でチベット入りを許可されず、ツアーに潜り込んでチベット入りをしたとの事。[>>1]

 それから、エベレストの保安隊が米国籍チベット人の拘束というケースを想定していなかった事、そして中国当局が現地で誰と接触をしたかなどを異様に気にしている辺りから、海外のチベット人がチベット内のチベット人とコンタクトを持つ事を中国当局が嫌がっている様子がここら辺の証言からも分る。


2007年4月26日付けのウォールストリートジャーナル (nathanialfreitas/flickr) [T]
 また、この数年に実用化したテクノロジーによってエベレストからプロテストが衛星中継されたという事を現地の公安が理解していなかったために拷問的扱いが行なわれ、北京から『丁重な扱いにするように』[>>2a]との指令が出るまで24時間かかっている事から、世界のメディアに映像とニュースが流出した事によって中国当局が方針を変えざるを得なかったという構図も見えて来る。

 また、レストランでの朝食、シガツェを出発時、そして国境で撮影されたとされる写真はネット上では一切見つからず、エベレストのプロテストに関する記事も中国メディアに掲載された形跡がないため、あれだけ大々的にメディア発表をしたにもかかわらず中国国内では報道がされていないようである。





ローレル・スザーリンさん本人によるエベレスト抗議の体験談


2007年4月25日、エベレスト山ベースキャンプで声明を発表するスザーリン氏 (San Francisco Citizen) [E1]
 衛星中継カメラの前でドルジェさんとともに声明を発表したローレル・スザーリンさんは、中国当局による55時間の拘束に関して、解放された6日後にネパールからアメリカに帰国する途中で立ち寄ったタイで、知人に送ったグループメールという形で書いた体験談を後にウェブサイトで公開している。
 こちらの方が圧倒的に詳しく書かれているのでいささか長文ではあるが紹介する。

 白人系米国人の他のメンバーの中、唯一のチベット系のドルジェさんはやはりチベットに対して当事者的視点であり、SFTの副代表としての立ち位置からか中国当局に対する書き方が慎重になっているのに対し、一方のスザーリンさんの体験談では当局の扱いがより赤裸々に書かれ、中国当局がアメリカ国籍の非暴力活動家をどのように扱ったかがより具体的に語られている。

 エベレスト抗議のチームリーダーのシャノン・サービスさんの言葉を借りれば「チベットで普通に行なわれている事に比べれば遥かに生易しい」[>>3a]というように、拷問と脅迫が普通の中国でも、米国国籍者に対しては直接的な暴力行為は行なっておらず、ただしその代わりに食物も水も与えずに丸二日睡眠も許さず、劣悪な環境で脅迫行為を繰り返し自白を強要するという、人権が保証されている西側諸国の国民にとっては「実際これは法的には拷問の条件を満たしている」[>>3b]扱いだったという事である。



ローレルより、チベットでの物語
ローレル・スザーリン 2007年5月6日

(2007年4月、左よりローレル・スザーリンさん、衛星放送機材を担当したジェフ・フリースンさん、撮影を行なったシャノン・サービスさん) (Students for a Free Tibet/Metroactive) [L]
 先週中国軍に拘束された事による興奮や疲労、そして一部の人としか直接話す事が出来なかったので、一体何が起こったのかをグループメールで発信しようと思う。
 私達が先週経験したこの奇想天外で映画のような策謀劇は、これは小説規模の物語になってしまうが、まだ新鮮な記憶を頼りにその概要を書いて置きたいと思う。

 グローバルなメディアの嵐が私達の活動と拘留劇を取り巻いているので、私がエベレスト山の山腹でのチベット解放を呼びかける運動に参加して中国軍に拘留され、そして解放されたばかりである事をこれを読む殆どの人が知っている事と思う。
 この計画を達成するために、準備、出発、そして中国内の移動に関して必要な数多くの秘密や偽装やごまかしを行い、そして今、私達がどうしていたかを自由に話せる事自体が私達が救われたという事なのだ。(中略)

 私達がなぜ行動を起こしたか、なぜそれがそのような反応を引き起こしているかを理解する事が重要である。中国はチベット領有の主張に関しては猛烈に抗戦的であり、国際法や人道に違反している事に対してどのような議論も一切受けつけない。
 膨大な注目を集めるオリンピックが、チベットの人々の存亡をかけたチャンスの時だが、チベット内部にいる人々の手は縛られている。

 中国政府に雇われた悪名高いスパイ網、監視や通報者達をすり抜けるために私達のチームは複数のグループに分れ、それぞれが架空の人物設定をあらかじめ作っていた。
 メンバーは、携帯式衛星テレビ放送スタジオの機材や、セキュリティチェックポイントを通過出来る状態の横断幕の材料などを運び込んだ。(中略)

 私達は中国内陸の成都に入り、(中略) そこから陸路でチベット高原の荒れて曲がりくねった道を進み、時折地球が提供する劇的で畏敬の念を起こさせる風景を目にした。初めてヒマラヤを目にした時その感動は涙を流すには十分であり、チョモランマ (又はエベレスト山) を初めて見た時は私達はひざまずいた。


標高5300mの過酷な条件でのプロテスト

(Students for a Free Tibet) [E2]
 海抜5300mのエベレスト遠征ベースキャンプに辿り着く事自体が既に大冒険であり、全装備を担いで夜明け前1時間のハイキングの後に地球最高峰の日の出を拝むのはまた格別だった。
 ベースキャンプの気圧は海面レベルの半分であり、私達は順応する時間を設けていたにもかかわらず、高い標高では人の頭にいろいろ狂った事を起こさせるものだ。

 決行の日、吉凶星は吉を示した。
 その前日の朝には機材がこの環境下で作動するかどうかテストを行なったのだが作動しなかった。ソフトウェアはフリーズを起こし、コンピューターはクラッシュし、撮影や技術担当のメンバー達もタッチスクリーンを使うために手袋を外したら骨まで指がかじかんでしまった。
 翌日私達は丘の下にテントを持って来て、その他の中国のキャンプの風景同様、眠っているヤクの間にそれを設置した。テントの中で一晩中ヤクの糞のストーブでお湯を沸かし魔法瓶に入れ機材を暖めた。それから使い捨てカイロを全てのバッテリーとプロセッサーにつけ、それらを寝袋とセーターで包んで全ての機材を可能な限り暖めた。


プロテスト決行前、エベレストの夜明け (Students for a Free Tibet/NTD News) [F]
 私達のキャンプからプロテストを行なった場所まで登っている間、山は雲に覆われていた。私達は前進しマントラを唱え、日の出に間に合うように斜面の覆いを取り去るよう神々に祈った。
 そうしたら合図を送ったかのように雲が切れ、太陽が尾根に顔を出し、世界に向けた中継放送に取りかかる前に技術上の様々な小さな問題は自然に解決した。[a]
a. 標高5300mの高山気候のため、恐らく太陽が出た事で急速に気温が上がり機材トラブルが解消したものと見られる。

 「一つの世界、一つの夢、フリーチベット2008」(五輪マークの横に中国語とチベット語の訳も書かれたもの) と書かれた5.5mの横断幕を拡げ、チベット系米国人のメンバーのテンジン・ドルジェがチベット解放トーチに火をつけた。帽子を脱いで彼がチベット国歌を斉唱し、火をともした聖火を手にオリンピック大会のチームチベットの開会式を開始した。
 IOCが聖火リレーのルートを世界に発表するため北京で会合を開くため、前側に「IOC:チベットを通る聖火は要らない」、背中に「チームチベット」と書いたシャツを作った。

 この日を選んだ理由は、チベット仏教においてダライ・ラマに次ぐ聖人のパンチェン・ラマの18歳の誕生日という歴史的に特別な日という事である。パンチェン・ラマはダライ・ラマの次の転生を見付ける人物であり、ダライ・ラマが高齢になるに従ってこの問題は深刻になり非常に政治的になっている。
 12年前にダライ・ラマがパンチェン・ラマを見付けた時はまだ6歳の子供だったが、中国は彼を拉致して世界から隠蔽している。12年後になっても中国はまだなお彼を人々から遠ざけており、このアクションの日に彼は成人になる。チベットの人々にとって彼が安全に戻る事が第一でありそれが基本的な要求なのだ。

 ここに来た目的をカメラの前で語った後、私達3人は横断幕を掲げて丘を下り、そのまま中国五輪チームのキャンプの中心まで歩いた。私達はそこまで数分間横断幕をパレードさせたのだ --- 中国側が気が付いて何が起こっているかを理解する前に、目を覚ました周辺のチベット人のヤク飼い達に訴えた。


ビデオテープを守るためにメンバー一人が自力で脱出する


中国チームのキャンプまで横断幕を持って行進するプロテストメンバー (Students for a Free Tibet/VOA News) [G1]
 そして叙事詩的でジョージ・オーウェル風の55時間が始まった。
 ベースキャンプ保安隊に活動は止められ私達は拘束された。近くの丘の長いコンクリートの建物に連行されそこが12時間に及ぶ取調べ室となった。
 当局者達は私達をどのように扱って良いか、何をするのか分らなくてうろたえているように見えた。それでも明確だったのは、私達が行なった事は彼等が考え得る最悪の事態であり責任者が直ちに呼び戻される必要があった事だ。
 そして寒く荒涼として、コンクリートの四角い机が中央にあって、格子付き窓、天井にはヤクの肉塊が釣り下がっている典型的な中国の拘留室に連れて行かれた。

 当局者達は丘の上に立って撮影するシャノンを遠くから見つけ、彼女を連れ戻すために他の者達を呼んだ。シャノンは彼等が近付いて来るのを見つけ、彼女はテントのジェフに急いで来るように叫び、彼女が進んで来る兵士達の注意をひいている間に、ジェフがまだ録画し続けているカメラをフットボールのように小脇に抱えて走り去った。
 プロテストの一部始終は既にニューヨークに衛星中継されていたが、雑誌掲載やテレビ放送レベルのクオリティの静止写真を作るには、これらのテープを中国国外に持ち出す必要があった。
[b]


中国当局者に連行されるプロテストメンバー (Students for a Free Tibet/VOA News) [G2]
 ジェフは何時間も岩の影に隠れていたが、まず寺院の廃墟にテープを隠し、それから警察の道路封鎖の突破を2度試みた。その前の晩の夜遅く密かに私達のカメラメモリーカードなどを預けていたシークレットの味方の「おばちゃん」を探し、靴底にテープを隠した靴を渡した。彼女は注意深くその靴を履きそして自転車に乗って、それで二人ともチェックポイントを通過し、ふもとの村まで何時間もかけて辿り着いた。
 そこでも夜中に大量の警官が、エベレストから来た人物の身元を特定するためにジェフの部屋に押し入って来た。
  1. プロテストメンバーの3人が中国チームキャンプに向けて歩いている間シャノンさんは丘の上に留まって撮影を続け、そのまま3人が当局者に連行されて画面正面奥のコンクリートの建物の階段を上っている様子まで撮影、その後に彼女が当局者に発見され拘束された。
    ジェフ・フリースンさんはこの脱出劇の後に4月26日午前3時にホテルで拘束され、その後他のメンバーと同様にシガツェ地区公署に連行され、ネパール入国の際にメンバーと合流している。MiniDVテープは現場で出会った別なカップルに託して中国国外に持ち出されたとの事。
    解放翌日のカトマンズのホテルでHDVカメラとMacBookで録画をチェックしている写真がある事から、機材は没収されなかったと見られる。

拘束されながらも携帯電話でメディアインタビューを試みる


NBCニュースで拘束中のウェストビーさんが携帯電話で話したインタビューがで放送された部分。「私達はここに座っていて、食べ物と煙草が少し与えられた」 (Radio Free Tibet/NBC) [H]

ウェストビーさんのインタビューを報じたAP通信の記事。「ウェストビーさんは携帯電話でのAP通信のインタビューに対して待遇は良好であると述べた」 (CBS TV) [W]
 ベースキャンプに話を戻して・・・その時点ではまだ携帯電話が働いていたので、私達はサイレントモードにしてサポートネットワークにテキストメッセージを送り、携帯電話を介したインタビューに応じられると知らせた。
 最初はボイス・オブ・アメリカからのインタビューであり、キルスティンが彼女の初めてのメディアインタビューに答え、私達の活動と現在の状況に関して雄弁に伝えた。
 携帯が時間切れになる数分前には、彼女はトイレに行ってAP通信のライブインタビューに答えた。

取り調べが始まる

 取り調べではまず最初に私が呼ばれ、別なコンクリートの小部屋に連れて行かれた。そこには間に合わせの机が置かれマシンガンを持った若い兵士が大勢いた。
 彼等は私達のパスポートを取り上げ基本的な質問をしたが、私達が非常にまずい状況にある事を言わんとしている事は明らかに見て取れた。私達は、これは米国では年中やっている事で中国ではそれが違法である事を知らなかった等と無知で能天気な米国人旅行者の振りをした。

 取り調べの最初の3ラウンドでは私達は別々にされなかったので、質問への答えを私達はあうんの呼吸で適当な話を作り上げ、ジェフがテープを持って国外に出られるための時間稼ぎをした。
 私達が用いていた撮影テクノロジーに関して彼等が混乱していたのが分って来たため、ビデオカメラがない事の証拠を隠すために、私達が取調室の机にキャビネットのカメラケースを拡げている間に、シャノンがトイレに行くふりをしてポケットから広角レンズを穴に捨てた。

 取り調べの第一ラウンドが終わった後に、点滅灯をつけてタイヤを鳴らしたシェカールの地元警察が到着し、また最初から取り調べを行なおうとした。
 第三ラウンドでは、中国外交部のシガツェ市支部から不自然になれなれしい態度の女性「狂犬」がやって来た。今回の拘束では彼女が最悪の人物だったかもしれない。
 彼女はまずシャノンを罠にかけようとした。目からはカミソリを撃ち口からは冷たい火を吐いた。彼女はこの冷たくシロップのような甘さと厳しさの、小細工とムード作戦の殆ど暴力と言える両極端な猛撃をその後2日間続けた。
 彼女は部屋を歩くだけで私を慌てさせる事が出来る唯一の人物で、私は可能な限り彼女を避けようとした。(中略)


真夜中にあちこち移動を繰り返す

 エベレストの山腹の小部屋での取り調べの一日の後、夜にはひどく冷え込んで状況はますます混乱して恐怖感が増して来た。
 私達はベースキャンプの小部屋で寝るように言われ、それから警察車両の後部に詰め込まれ私達のテントに連れて行かれた (既に道路は警察に封鎖されキャンプへのアクセスは遮断されており、ジェフやカメラや事情を知る者を見付けるためキャンプの全ての車両やテントをフル体制で捜索した。彼等は私達が滞在した場所を見つけ、その家族の父親に対して罵声を浴びせ尋問を行なった。私達が見た時、彼は涙を流して怯えていたので、彼等をこれ以上巻き込みたくないためその家に連れて行かれる事に私達は出来る限りの抵抗をした)。

 そして0時過ぎに突然、私達はそれぞれ引き離され警察車両に乗せられ、状態の悪い岩の道を3時間かけてエベレストからティングリ村まで運ばれた。
 道中武装した中国兵が私の膝の上で眠り込み、頭を打たないために「ハローキティ」の枕を強く持って眠ったふりをしていたそのドライブは体の芯まですり減った。

 真夜中過ぎに私達は孤立無援の場所にある気味の悪い軍事施設に立ち寄り、そこで夕食を取る事になっていると言われた。
 個人的経験では私達は警察トラックに詰め込まれる貨物であり、到着した時には妙に冷静になっていた。キルスティンはトラックの後ろで孤独に、悪魔的愛をささやく「狂犬」と同乗し、出て来た時彼女は殆どヒステリックな神経衰弱になっていた。私は彼女を慰めようと務め、私達のメッセージは遠く広く広がっていて自分達が真夜中に中国の刑務所に消える事はないのだと言い聞かせた。

 そこでは人々は慌ただしく、怒鳴り声や電話の音やその他のカオスに溢れていたが、それが中国の犯罪/軍事/国際問題、プロパガンダ部の7つの共同管轄で、私達をどうするかで緊急召集されていた事は明らかに見て取れた。
 食事はなくこれからチベット第二の都市シガツェに行くと言われた。そこには更に5時間以上かかる。


脅迫と不眠飢餓拷問

 私達が出発する直前、「狂犬」がシャノンのジープのドアを開け、彼女に出るように命じた。彼女は暗い建物の小さく不吉なコンクリートの部屋に連れて行かれ、そこには少なくとも3人の男性当局者が背後にいた。
 そこで狂犬はシャノンを机に追いつめて、協力して本当の事を話すか、さもなくば氷点下のその部屋で眠るかと詰め寄り「あなたに危害が及ぶ事になる」と怒鳴った。「狂犬」がシャノンの頭を揺さぶって「はい」と言わせようとし背後の当局者に制止され引き戻されたが、シャノンは立場を固持し「私を脅迫しているのか?」と尋ねた。
 その当局者の一人はその後になってシャノンのジープに近付いて指で銃の形を示し、ガラス越しに彼女の頭を指して引き金を引くジェスチャーをした。

 私が目撃したのは、シャノンが非常に取り乱してビルから走り出て来て叫んでいた光景である。彼等は彼女を車に乗せたが彼女は反対側のドアから飛び出して私のジープに走り寄り、「領事館員に会うまでは何も答えてはいけない。私は危害を加えられると脅迫された!」と叫んだ。
 彼女は捕えられて車に戻される前に、他のジープにも行って同じ事を言った。

 それ以来トーンが変わった。水も食べ物も与えられず30時間以上も寝かせて貰えず、絶えず移動を繰り返し、周りの状況も不確かで、武装した怒った男達が絶えず私に対して何か中国語で叫んでいるのは非常にストレスが溜まる事だった。
 しかし行き先も分らないチベット高原の暗闇の移動中にシャノンは他のメンバーから完全に引き離されており、彼女は安全に関して怖れている筈だった。

 その真夜中に私達は、もう一つの孤立した気味の悪い警察施設に立ち寄ったが、今回は女性達は車に残され、私とテンドルが別々の部屋に連れて行かれた。
 その経験は現実味のない映画の夢の世界のようで、私は危害を加えられると直接は言われなかったが、度重なる混乱と荒っぽい扱い、そして片言の英語で「お前達は大問題を起こした、これは大問題だ」と言われ続け、暗闇の中を恐ろしい場所を次々とたらい回しにされた事は十分に不気味で不穏だった。


中国当局の演出

 夜明け直前に私達はシガツェに到着し、ジープは中庭のある政府施設に入った。私達はばらばらに車両に乗せられ、近くの建物に突然呼び出されるまで、飲食も睡眠も安全の保証もなしに少なくとも3時間そこに待機させられた。
 この数日前に私達はシガツェ刑務所の規模とスタイルを見ていたので、次に待っているのはコンクリートのベッドに穴の空いた床だと予想していた。
 しかしその代わりに私達は豪華な大広間に連れて行かれ、食事のために巨大な円卓の周りに着席した。

 その光景は本当に豪勢で、私達が大勢の当局者に挟まれてばらばらに座っていたにせよ、私達はまずお互いの姿を見て安心して、少し麻痺した感覚でそこに座り水を得た。
 それから「食べろ!」と指令が出され、食べ始めたと時に部屋はカメラのフラッシュとビデオ撮影班で一杯になった。それは私達がいかに良く扱われていたかを見せるための演出だった。私達は騙されたと感じたが、少なくとも今は米国領事館が関わっている事は分っていた。


ホテルで更に取り調べを受ける

 次に私達は取り調べ室の代わりにそれぞれホテルの個室に連れて行かれた。そしてまた取り調べの一日が始まった。この全てがシュールであり、時にはおかしく時には恐ろしく、足の踏み場を失うには十分奇妙だった。
 私は睡眠を許可されず、中国の法律 (正確には憲法第5条 --- それを暗記し読み上げさせられた) に違反したと言われ、彼等の質問に答えざるを得なかった。彼等が一番気に掛けていたのは、私達が誰に連絡しどこに滞在し、運転手が誰だったか、誰が横断幕とトーチを作り、何故それをしたのか、などなど。

 50人以上が私達を担当していて、彼等はエンドレスに部屋を順繰りまわっていた。それぞれの取り調べラウンドの後に37回サインと指紋を取らされ、そして私達を花束とフルーツバスケットと絵画で囲み、また同じ質問を何度もした。
 言語の壁は私達に有利に働き、彼等の厳格で厳しい一方的でナンセンスな質問を、彼等が使っている電子辞書がとても奇妙で笑える楽しいエンターテインメントにし、まるでそれはお笑いコメディのようだった。

 表向きにはシャノンと私に全ての責任があり私達が計画を立て横断幕を作ったという事にした。私達は土壇場で皆を説得していた。そしてこの試練の間中誰一人としてこの設定を壊さなかった。
 シャノンと私は婚約カップルでチベットで結婚するために来たが、ラサで目撃した事はとてもやるせなかった。だからテントシートと毛布を持って来て、中国語からチベットに翻訳出来る人を路上で見つけ (彼等はまだラサで、私達に協力した長身で太った架空の中国人男性を捜索している筈である)、そしてたまたま通りがかった旅行者を抗議活動にその場で誘ったのだと。(中略)

 次の夜遅く私は寝る事を許可されたのだが2時間後に警備員にまた起こされた。彼等は私の周りに集まって来て、私が大きなミスを冒したので急いでそれを正さなければならないと言った。
 実際その時が私の心が折れそうになった瞬間だった。鼓動は高まり心をよぎった事は「ジェフが捕まったか (実際そうだったが)。それなら私が嘘をついていた事を彼等はすでに知っているという事であり、これはまずい状況になる」だった[c]
 彼等が私にさせようとしたのは、ペンを手渡され、中華人民共和国の国家安全を脅かした事を謝罪する事である。思わず私は笑ってしまった。
 「ごめんなさいと言わせたいのか?」
 彼等が最も厳しく強硬に自白を強要した相手に対して。ごめんなさいを言うのはお前達の方だ。

 その時に私がもっと賢かったら良かったと思い残しはあるが、その時はそこから出られる開放感に浸っていたので、彼等が求めているサインをして、「中国追放」のビザが加えられたパスポートが返却された。

  1. SFT本部が衛星中継されたプロテストの動画を同日にYouTubeにアップしていたため、この時点で中国側は彼等がSFTのメンバーである事はすでに知っていたと見られる。この時ジェフ・フリースンさんは拘束されておりシガツェの同じ建物内にいたと見られる。

国外追放の盛大な儀式

 私達は大量のメディアの中を通り抜けそれぞれ警察の大型車両に急いで戻ったが、今回は前後に閃光灯護衛部隊のエスコート付きで、それぞれの車両には警察幹部、外交部職員などが乗り込んでいた。
 彼等が「総統車隊」と呼ぶ一団はチベット高原をネパールの国境まで高速で9時間横切った。私達の出発の際の写真撮影セッションの時間の長さは凄まじいものがあった。


ネパール国境近くのニャラム (3700m) 近辺の中尼公路 (中国ネパール友好高速道路)。20km先のネパール国境のジャンム (2300m) までの標高差1400mを一気に下る難所。 (carl2ai/webshots) [O]
 氷で覆われた標高5000mの道路から、私達を通過させるためにバスが道から外にどけられていた。私達を通すために巨大な機械が2トンの巨石を動かした。チベット高原からカトマンズ峡谷に3000m下るのは地球上で最もドラマチックな気候の変化の一つであり、その道路は物凄かった。
 最終的に車列は15台以上になり、その進行上にあるものを全て道から追い出した。

 車列を通過させるために道中の集落の全てが閉鎖され、道中至る所で兵士が敬礼をしていた。軍が中国側の国境の町に先回りして無線連絡をして全てのトラックをどけさせていたので、私達は時間通りに国境に到着した。

 通常は国境を越えるのに3時間はかかるのが、たったの5分で済んだという異常事態。まるで私達は公衆パレードを行なう常軌を逸したロックスターのような気分だった。私達の一行が起こした大騒動は凄まじいものがあった。これは大袈裟でも何でもない。

 最後に私達は国境にある「友好の橋」の前に並べられて最後の注意を受け、そこで再び写真撮影セッションが行われた。そしてネパールへの橋を渡っている最中に最後まで、フラッシュがたかれビデオクルーが押し寄せた。
 橋の反対側で私達は抱き合い喜びジャンプをし「フリーチベット」と叫んだ。


ネパールでは大歓迎を受ける


2007年4月29日、カトマンズで。訪問者と握手をするシャノン・サービスさん (nathanialfreitas/flickr) [J]
 ネパール入りした後私達は中国人の護送人を拒否し、彼が選んだ車両でなくカトマンズまではトラックに乗った。そこで言われたのは、地元のチベット人同盟が私達をネパールで一番高級なハイアットリゾートに招待しており、準備が出来次第メディアが待機しているいう事だった。
 カトマンズで受けた待遇は圧倒的だった。それは熱烈な感動の涙の英雄歓迎であり、私はどのように心の準備をしていいのか分らなかった。

 これが大ごとになるとは予想はしてはいたが、私達や仲間の写真が米国や世界各地のニュースに流れている間、私達の家族が議会メンバーオフィスを訪ね国務省に毎日接触し続けていたと聞いた時はそれは驚きだった。
 ネパールのハイアットホテルで、AP通信、ロイター、AFPなどのマイクやカメラの壁の前のパネルに私達5人が座った記者会見はまるで映画のようだった。


2007年4月28日、カトマンズのスロンツェン・ブリクティ寄宿制高等学校の25周年式典でスピーチを行なうテンジン・ドルジェさんとシャノン・サービスさん。 (Phayul.com) [M]
 3日間の間、私達はホテルで著名なチベット人指導者の多くの訪問を受けた。
 私達は夕食に招待され、数千人の人々の前で話すように頼まれた。チベット亡命政府のメンバーと僧侶達が作ったチベットスカーフ「カタ」をチベット女性協会とチベット青年議会のメンバーによって首にかけられた。1959年にダライ・ラマを脱出させたチベット自由の兵士の生存者達や、各地方のチベット人コミュニティ代表達の訪問を受けた。

 誰もが感情的にエキサイトしており、まるで私達が彼等の心の炎に新鮮な生命の風を送ったかのようだ。
 この歓迎は余りにも大き過ぎ、私に残った感覚は、世界から見捨てられているこの人々のために何かをする責任があるという事だった。

 チベット人は誇り高く、強力な古代の文化を持つ人々であるが、私達のささやかな行動が彼等を感動させているのだ。そのような人々からこのような賞賛を受けて私はもう少しで放心状態になるところだったが、彼等の力強い霊感のまなざしは決して衰える事はない。
 私達のささやかな行動は、明確でシンボリックな力となって全ての人々の心に響いたのだ。(中略)

 私のコミュニティと友人達、家族に対し今は愛と敬意を感じる。今回の事に声を上げて心から支えてくれた全ての人達に感謝する。再会するのが待ち切れない。

[訳=岩谷] (原文:英語;小見出し、関連写真および写真解説は訳者が追加)
*本翻訳の転載には許可を必要としないが必ず出典元を明記の事。
Sutherlin, Laurel. "a Tale From Laurel in Tibet". Tribe.net. May 6, 2007. 11:24PM [魚拓]


2007年4月28日、中国から解放されネパールのカトマンズに到着してメディアインタビューに答える(右より)キルスティン・ウェストビーさん (29)、ローレル・スザーリンさん (29)、テンジン・ドルジェさん (27)、撮影を行ったシャノン・サービスさん (31)、衛星中継機材を担当したジェフ・フリースンさん (32) (年齢は2007年4月時点) (Devendra M. Singh - AFP) [C]


2007年4月28日、カトマンズで記者会見の後。 (nathanialfreitas/flickr) [K]

中国での外国人活動家の扱い

 ここで興味深いのがやはり、北京五輪前年の国際的評判に神経質になっている中国で、米国国民の活動家を丁重に扱ったと演出をしてその様子を大量のカメラマンに撮影させるなど、いくら対外的には解放と発展のイメージを強調していても、やはり嘘とメンツとプロパガンダで出来た独裁国家中国を象徴する描写がある点である。

 スザーリン氏はメトロ・シリコンバレー紙のインタビューに対し「国際的事件を引き起こしたくないので中国政府のトップはアメリカ人に危害を加えたくない事は分っていたが、チベットの辺境地のコマンド隊がその指令を受けていたかどうかは確信が持てなかった」[>>4]と語っているが、これはチベット内で初の外国人活動家によるプロテストという前例のないケースであり、中国政府の方針が完全に辺境まで行き渡っているのかどうかへの不安があった事をスザーリン氏は述べている訳で、実際ベースキャンプやシガツェ辺りでの現場の当局の混乱ぶりがスザーリン氏の証言では描写されている。

 一方で、ドルジェ氏は先日の来日時の講演で、中国当局から飲食物が与えられなかった事に関して、現地当局は何の決定権もないため水や食べ物を与えるのもいちいち北京からの指示を待たなければならなかったから[>>5][>>2b]と述べており、つまりチベット等での逮捕者に関しては中央がOKを出さない限りは原則として食べ物や水を与えないという、こういう事が日常的に行なわれている構図が彼等の証言を総合すると見えて来る。

 しかし、スザーリン氏によればシガツェでの豪華食事会演出以前の丸一日は脅迫まがいの粗暴な扱いを受けたとあり、プロテストグループが中国当局に拘束された事が世界のニュースで報じられた事に影響されたであろう北京政府の決定[>>2c]が通達される以前には、現地警察に決定権がないどころか独断で脅迫的な取調べを行なっている点、それから「アメリカのパスポートを見せると急に態度が変わった」[>>6]件や、北京での決定が「出来るだけ丁寧に扱うように」[>>2d]にもかかわらず取調べ中は睡眠が許可されなかった事など、ここら辺からも、飢餓と睡眠不足で意識がもうろうとして意志薄弱の状態で自白を強要し、証拠がなくても自白のみで死刑にするという中国の通常のスタンダードが垣間見える記述となっている。


国外追放の盛大な儀式

 シャノン・サービスさんによれば「彼等は私達を国外追放するのに大袈裟で物々しい儀式を行ない、これは何ともシュールな光景だった」[>>7]という、警光灯が点滅しサイレンが鳴り続けた中尼公路 (中国ネパール友好高速道路) の9時間の移動で、道中の集落が全て封鎖されトラックなど路上の障害物が全て道路外に追い出された15台の警察車両による物々しい「国外追放行列」は、これはチベット地域に国家の威信を示すためなのか何だか意味不明な儀式じみた大名行列を行なう辺りはやはり、死刑囚を大観衆の前をパレードさせて公開処刑を行なうお国柄らしい。

 尤も、シガツェからネパール国境のジャンムまでは片道8-9時間かかったという距離ならジャンム到着は既に27日の夕刻となっており、その日のうちにシガツェに戻るためにここまで慌ただしいスケジュールになったとも考えられる。


ダイレクトアクションのベテラン活動家によって周到に計画されたプロテスト

 ウェストビーさんが中国当局者の目を盗んでトイレに行きそこで携帯電話でAP通信などのメディアのインタビューに応じてその音声がNBCで放送されたりなど、拘束されながらもその場で直接メディアに情報を流す事で中国当局を牽制するという非常にしたたかな作戦、そしてトイレで隠密行動を取るのは女性メンバーという当局者がチェックしにくい女性の特権を利用したやり方も、ラカス協会やグリーンピースの流れをくんだダイレクトアクション集団SFTがマニュアル研修を徹底して、1年間かけて周到に準備したプロテスト計画である事が伺える。

 このエベレストのプロテストは、国際キャンペーンの戦略として亡命チベット人のテンジン・ドルジェ氏を前面に出しチベット国歌斉唱を行なうなどインパクトのある演出をしているが、エベレストのプロテストメンバーのうち、衛星中継を担当したジェフ・フリースンさんはオルタナティブラジオ、フリースピーチTV、グリーンピース、ラカス協会などで2001年頃から反イラク戦争運動などで活動して来た人物、撮影のシャノン・サービスさんはHBO、PBS、フリースピーチTVなどでプロデューサー、ジャーナリスト、ニュースディレクターなど10年のメディアキャリアを持つベテラン、ローレル・スザーリンさんは2003年頃から自然保護団体のオキシージェン・コレクティブ等で活動をして来た、いずれも経験豊富な環境問題や反戦のダイレクトアクション活動家3人がSFTのサポートとしてこのプロテストに参加している事また特筆する点である。

 これらプロテストメンバーの過去の活動に関しては次回エントリーで詳しく扱う。





余談:

最新ハイテクを駆使したプロテスト


中国から解放された翌日、録画をチェックするジェフ・フリースンさん。机の上にあるのはアップル社のMacBook2台、SONYのHDVカムコーダーHDR-HC5とMiniDVテープのケース。2007年4月28日、カトマンズ。 (nathanialfreitas/flickr) [V]

 こういう形でのプロテストが可能になったのは、近年のインターネットと通信テクノロジーの発達と普及とは切り離せないものがある。

 北京に近い万里の長城のプロテストでは撮影した動画をネット経由でSFT本部にライブ転送したのに対し、エベレストに於いては衛星経由で映像を送ったとSTFのウェブサイトでもそのように言及されていたが、スザーリン氏のメールではそれがより具体的に言及されており、氷点下の劣悪なコンディションでかなりの苦労があった事が書かれている。

 その具体的な機材に関して詳しく書いてあるサイトがある。


チベットのテクトピア
スー・セリンガー リアリティ・サンドイッチ 2007年6月18日


エベレストで使用されたSONY HDR-HC5 (2007年2月発売) (cnet australia) [P]

SONY ECM-HW1 bluetoothワイヤレスマイク。左がマイク、右がカメラ装着レシーバー (2007年2月発売) (SONY) [S]
 (抜粋) 放送技術が必要となるプロテストをSFTが計画した時その行動は始まり、彼等は経験豊富な放送メディア活動家をリクルートした。(中略)

 5人の活動家からなるこの小グループは結婚式を行なうとして中国に入国した。
 このうち一人はここに以前にも来た事があり、テントや調理器具などの装備は現地でレンタル出来る事を確認していた。そして彼等は撮影機材がトラブルを起こす事も予測していた --- ベースキャンプの気温はバッテリーには過酷な環境であり、またこの環境下でコンピューターは正常に作動しにくい。(中略)

 4月のプロテストにおいてYouTubeは不可欠だった。それが録画され放送されなければこのプロテストはなかったも同然だからだ。
 このテクノロジーの実践には前例がなかった。ビデオ活動家のシャノン・サービスさんがテープ録画をすると同時に、6m離れたジェフ・フリースンさんのラップトップにワイヤレスで信号を転送した。
 フリースンさんはオルタナティブラジオ、フリースピーチTV、グリーンピースやラカス協会で活動をしていた人物である。

 フリースンさんは「恐らく拘束されるであろう事は分っていたので、録画映像をライブ中継する必要があった」と語った。

 ビデオカメラはソニーの一般普及用の小型のHDVカメラで、HDVは印刷メディアの掲載にも耐えられる高画質の静止画像を提供する。このカメラはBluetoothワイヤレスのマイクを装備し、それは予想以上の性能があった。
 サービスさんのカメラからワイヤレスで受信した映像を、ADコンバーターのFireWire出力からMacBookコンピューターに取り込んだ・・・これはWiiやプレイステーションやファイナルカットを使うのとさほど変わらない事である。


BGAN衛星通信システム (写真はThrane & Thrane社のExplorer 500) (Global.com) [Q]
 QuickTime Broadcasterで映像を圧縮して衛星回線の許容サイズに変換し (220kb -- 15コマ/秒、最終的に100kb/秒まで圧縮)、衛星経由で (インマルサットBGAN Javaプログラム)、 SFTのコンピューターのQuickTime Broadcasterに送られた。

 SFTは直ちに3分間のビデオをYouTubeにアップし、QuickTime Broadcasterがエラーを起こしたケースのために、画像とビデオをアップロードするバックアップとしてFlickr、YouTube、Pandoその他のアカウントがセットアップされた。

 つまり、地球上で最も辺鄙な地の一つであるそこから、情報と経済の中心地から来た一般用ハードとソフトを用いてライブ中継を行なったのである。
 またこれは、全く新しいやり方のプロテストが技術的に可能となる非常に効果的なBeta版トライアルである。どんなに残忍な情報統制も持ちこたえる事は出来ない。(以下略)

[訳=岩谷] (原文:英語;写真は訳者が追加)
*本翻訳の転載には許可を必要としないが必ず出典元を明記の事。
Salinger, Sue. "Techutopia In Tibet". Reality Sandwich. June 18, 2007. [魚拓]


ドルジェさんの襟元にSONY ECM-HW1ワイヤレスマイクが付けられている。(Students for a Free Tibet) [T]

 ここで用いられている衛星通信システム「インマルサットBGAN」 (Broadband Global Area Network) は衛星電話システムで、このBGANで初めて音声とデータ同時通信が可能になったもの。
 BGANはインド洋と大西洋地域が2005年11月にサービス開始、太平洋地域が遅れて2009年2月に開始という、これも2005年12月に開始したYouTubeと同様に非常に新しい画像音声の通信媒体。

 QuickTime Broadcasterは2002年にアップル社が発表、家庭用HDVカムコーダーは2005年7月にSONYが初めて商品化。


2007年当時のBGAN衛星通信の利用可能範囲 (Outfitter Connect) [R]
 要するに、2007年4月のプロテストに先駆ける1年ほど前に、チベットとニューヨークを衛星通信で結んで、世界規模のアクセスのある動画サイトにアップロード出来るというこのテクノロジーが実用可能となった訳で、その時期に高画質クオリティの小型HDVが商品化されるなど、北京オリンピックに先駆ける2-3年の間に実用化したテクノロジーによってこういうゲリラ的プロテストが可能となり、その結果隠蔽主義の中国当局もメンバーに下手に手出しが出来ずに対外的に手厚くもてなした演出をせざるを得ない状況になり、2008年の北京五輪とは中国当局にとっては時代的に隠蔽主義が通用しないある意味アンラッキーなタイミングとなった訳である。

 今でこそ当たり前の存在になり、様々な社会運動のツールとして用いられているYouTubeだが、これが日本で一般に認知され始めたのは2006年の夏頃であり、中国において知られるようになったのはそれより更に遅く2007年に入ってからの事。
 エベレストの保安隊がMiniDVテープの捜索にやっきになっていたというのも、2007年春のこの時期に中国の辺境の公安がBGANやYouTubeの存在をまだよく理解していなかった事を物語っている。

 尤もスザーリン氏の体験談では、最新テクノロジーといえども標高5300mの劣悪な環境での使用はメーカー側には想定されておらず様々なトラブルが起って、天候の変化に助けられはしたもののかなりの苦労があった様子が書かれており、結局のところはそれを使いこなすのは人間の工夫とアイデアであったという事である。


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関連動画:

2009年5月のテンジン・ドルジェ氏の来日時に行なわれた勝谷誠彦氏によるインタビュー。

【FREE TIBET】テンジン・ドルジェ×勝谷誠彦 (9'23")
SPA!『勝谷誠彦の ニュースバカ一代』 (週刊たかじんのそこまでやって委員会)
Part 1 (9'23")
joui2669. 【FREE TIBET】テンジン・ドルジェ×勝谷誠彦 1/2』. YouTube, 2009年6月29日.

Part 2 (4'40")
joui2669. 【FREE TIBET】テンジン・ドルジェ×勝谷誠彦 2/2』. YouTube, 2009年6月29日.


テンジン・ドルジェ副代表が昨年のチベット動乱の時期の昨年3月にNTDテレビのインタビュー番組に出演してエベレストの抗議に関して語っている番組の動画 (動画に字幕なし。エベレスト関連部分の訳はビデオ下をクリック)。


チベットの危機 --- テンジン・ドルジェさんを迎えて
NTDテレビ 2008年3月25日

聴き手:シェリー・ジャン

NTDTV. "Crisis in Tibet - Speaking with Tenzin Dorjee". YouTube, March 25, 2008.

(17'12"-22'55"の訳を見る)


エベレスト横断幕抗議の高画質の長編版。

SFTエベレストアピール2007 (10'39")
2007年4月25日
日本語字幕つき
sonamnorub314. 『SFTエベレストアピール2007』. YouTube, May 6, 2009.





関連記事

マリン出身の活動家達のフリーチベットのための闘い
ソーサリート市民がエベレスト山や万里の長城で抗議活動

パトリシア・リン・ヘンリー
メトロアクティブ 2007年10月10日

 サンフランシスコは中国に向かう五輪聖火の北米で唯一の経由地である。地元の人々は既に計画を立てているが、それはこの国際統一のシンボルがやって来る事を祝うものではない。2008年の五輪聖火は歓迎されるべきものではないという事がベイエリアに浸透する事を彼等は望んでいる。

 特に彼等は、聖火が占領されたチベットに持ち込まれる事を望んでいない。中国は五輪聖火をエベレスト山に登らせる計画である。中国で2008年に開催されるオリンピックは政治プロパガンダであり、北京聖火が通過する事を祝福する事は、中国の50年におよぶチベット占領を含む現状を世界が受け入れる事になると彼等は主張する。

 ニューヨークに本部のある団体「Students for a Free Tibet」の提携団体の一つであるSFチームチベットのシャノン・サービスさん (32) は「中国の聖火は既に“拷問聖火”と呼ばれており、“ジェノサイドオリンピック”との呼び名もある」と力説する。

 3人のソーサリート市民の一人であるサービスさんは、先日エベレスト山と万里の長城で慎重に実行された抗議活動でその信念を試した人物である。彼女とローレル・スザーリンさん (30) は4月に、中国の五輪チームがエベレスト山に聖火を運ぶ練習をしていたベースキャンプでの抗議活動を実行した。そして8月には彼等の仲間のドゥエン・マルティネスさん (26) が「一つの世界、一つの夢、フリーチベット2008」と書かれた450平方フィートの垂れ幕を万里の長城に吊るす様子をビデオ撮影した。

 チベット支援者達は、中国が世界に対して自国を正当化するためにオリンピックを利用しているため、このような非暴力の抗議が中国政府に対して最も有効な手段であると主張する。
 「今ベイエリアには私達全ての人々がやるべき必要のある大きな仕事がある。聖火がサンフランシスコを通過する事は市の汚点となるでしょう」


 サービスさんとスザーリンさんが拘束された最初の拘置所は「資金不足のハリウッド映画」のようで「天井や窓枠からヤクの肉がぶらさがっているセメントの独房だった」とスザーリンさんは言う。様々な障害にもかかわらず4月25日の非暴力抗議活動はスムーズに運んだ事は驚くべき事である。
 サービスさんは「スパイ活劇風の出し抜きやいちかばちかの駆け引きがいろいろあって、いかなるチベット人をも危険に巻き込まないために気を使いました」と語った。

 サービスさんとスザーリンさんはエベレスト山に旅行する婚約中のカップルを演じ、それで「人生の祝福の時」を故郷にライブ中継するという設定で、ハイテク衛星放送機材を持ち込んだ。

 それは彼等がチベットで必要なテクノロジーを得る唯一の方法であった。しかし寒さに弱い機材は高い標高では作動しなかったため、彼等はベースキャンプに明るい黄色のテントを建てた (許可されていなかったが誰にも止められなかった)。彼等は徹夜をしてヤクの糞をシャベルですくって火にくべ、水を加熱して水筒に入れ、機材の入った寝袋に入れた。翌朝、彼等は1時間半歩いて標高5200mまで登り、抗議活動地点まで全てを運んだ。

 スザーリンさんは「エベレスト山の上に太陽が上り、ヤクを起こすベルの音がし、それは全く神秘的で荘厳な光景だった」と語った。


 彼等は「一つの世界、一つの夢、フリーチベット2008」と書かれた横断幕を拡げた。チームメンバーのテンジン・ドルジェさんがトーチを持ってチベット国家を歌ったが、それは「フリーチベット」と言っただけで反逆罪となる地域では勇気のいる事であった。グループは横断幕を持って五輪チームのキャンプに向かって行進しそこで逮捕された。次に何が起こるかを見るために彼等は待っていた。

 スザーリンさんは「国際的事件を引き起こしたくないので中国政府のトップはアメリカ人に危害を加えたくない事は分っていたが、チベットの辺境地のコマンド隊がその指令を受けていたかどうかは確信が持てなかった。非常に恐ろしい経験だった」と話した。

 彼等は55時間拘束された。最初の30時間は飲食や寝る事が許可されなかった。そして寝る事が許可された後も頻繁に揺り起こされ、寝られない状態にされていた。

 エベレストからそれぞれが別なSUVに押し込まれ9時間かけてシガツェまで運ばれ、途中でローカルの警察施設に数度立ち寄り、捕虜達は別な車両に乗り換えるために暗闇を歩かされた。彼等はお互いの姿を時折確認するだけであり、誰かが欠けていたとしてもそれすらも分らない状況だった。

 何時間も食べ物を与えられず、そして彼等は大きな円卓、赤いベルベットの椅子とシャンデリアノある大広間に連れて行かれた。それぞれのチームメンバーは警備員や当局者に囲まれそれぞれ別々なテープルついた。彼等が食べ始めた時、彼等がどのような待遇を受けているかを撮影するカメラマンで部屋が一杯になった。15両のキャラバンで9時間国境に向かう間中サイレンが鳴り続け、悪夢の経験は終わった。

 サービスさんは「彼等は私達を国外追放するのに大袈裟で物々しい儀式を行ない、これは何ともシュールな光景だった」と語り、中国当局者はプロテスター達は十分にいい扱いを受けたと信じていると付け加えた。

 「私達が経験した事はチベットの通常に比べればマイルドな例です。彼等にとっては私達への待遇は紳士的であっても、実際これは法的に拷問の条件を満たしている。これが私達がチベットで行なわれていると言っている非常さの一端なのです」


 ビデオグラファーのドウェイン・マルティネスさんにとって忘れられない風景は、8月に万里の長城に垂れ幕を下げた後の36時間の拘束の大半を6人のメンバーが過ごした、ジージー雑音を出す蛍光灯のある窓のない茶色い会議室である。

 「私達がテーブルに肘を置いたら彼等は肘を置くなと言う。それから、足を組むな、立ち上がれ、座れなど、私達が身体的に快適でない状態に常に置かれました」

 時折、護衛は彼等の一人を指してぶつくさと「次はお前だ」と言って、メンバーが取り調べを受けるために連れて行かれた。

 また、マルティネスさんは8月8日に万里の長城でグループが垂れ幕を拡げた瞬間を覚えている。「始めた時には緊張と興奮で心臓が胸から飛び出るかと思った。それがライブ映像で発信されている事を知っていたから、広がるさざ波を考えるように自分自身に言い聞かせていた」

 プロテスター達は警備員によって万里の長城の地下室に拘留され、それから近くの町を経由し、北京の警察施設に連れて行かれ、そこで20時間過ごした。米国人2名、カナダ人2名、英国人1名のチームメンバーは取り調べに答える事を拒否し、その代わり各国大使館の代理人と話す事を要求したが、彼等が大使館員と会う事はなく、36時間の睡眠妨害や取り調べの後、投獄5日間の判決が出たと言われ中国語の書類にサインをするように言われた。彼等が拒否したところ全員が香港行きの飛行機に乗せられた。

 現在ソーサリートでは、マルティネスさん、サービスさん、そしてスザーリンさんが、北京聖火がベイエリアで無条件に歓迎されない事を人々に喚起する運動を起こしている。スザーリンさんは「チベットの人々とチベット文化の存亡がかかった時は今なのです」と語った。

[訳=岩谷] (原文:英語、写真は元記事付属)
*本翻訳の転載には許可を必要としないが必ず出典元を明記の事。
Henley, Patricia Lynn. "Marin activists fight for a free Tibet". Metroactive. 10/10/07. [魚拓]




特集『Students for a Free Tibet』
 1. エベレストに「Free Tibet」横断幕 SFTの抗議活動 (2008.3.26)
 2. 万里の長城に「Free Tibet」垂れ幕 SFT抗議活動 (2008.3.29)
 3. SFTのドルジェ氏がIOCのロゲ会長に直談判 (2008.4.1)
 4. 「チベット自由の聖火」がオリンピアを走る (2008.4.18)
 5. 金門橋に「Free Tibet」横断幕 SFTの抗議活動 (2008.4.22)
 6. 中国で拘束されたエベレスト抗議メンバーの体験談 (2009.6.3)
 7. 米国のフリーチベット運動の裏にあるもの (2009.6.5)

チベット関連エントリー

 ・チベット国境で故国のために祈る~あるチベット高僧の旅 (2008.6.3)
 ・「4月7日、パリでの抗議集会に参加しました」 (2008.4.11)
 ・オリンピックの魂がイギリスにやって来る (英インデペンデント紙) (2008.4.8)
 ・北京五輪採火式、中国国営テレビ局の生放送に幽霊? (2008.4.1)
 ・「チベットの抗議デモは北京五輪を頓挫させる事が出来るか?」アルジャジーラの読者投稿欄 (2008.3.22)



関連サイト

SFT本部事務次長テンジン・ドルジェ氏 来日講演(1) (ニュース チベット文化圏 2009.5.10)
SFC事務次長テンジン・ドルジェさんを囲んで (憧れの大地へ 雑記ブログ 2009.5.10)

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脚註:(脚註を見る)




写真:

  1. ^ 1 2 3 Photographs extracted from the video file. sonamnorub314. 『SFTエベレストアピール2007』. YouTube, May 6, 2009.
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  19. ^ 『西蔵客』の地図に編者が日本語表記を追加。 西蔵客. 『西蔵-尼泊爾全感受之旅』.
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