中国の公開処刑に関して調べものをしていて、中国の斬首写真ばかりを集めて掲載している『Beheaded Art』というサイトに行き着いた。
そのサイトのトップの解説文にはいささか捨て置けない事が書かれている。
BEHEADED ART 首のない芸術 | |
BEHEADING Beheaded Art is about public beheading. View more than 100 pictures and drawings of capital punishment by decapitation at Beheaded Art. Beheadings in China or Japan (馘首) were often photo graphed by foreigners and this is where most of the execution photos available at Beheaded Art come from. If you are offended by pictures of blood and death and decapitated (馘首) bodies – you might not enjoy this web site. 打ち首 『Beheaded Art』は公開斬首に関するものである。このサイトでは100点以上の断頭刑の写真と絵を見る事が出来る。 中国や日本の斬首 (馘首) はしばしば外国人によって撮影され、このサイトに掲載されている大半の写真がそこから来ている。 もしこれらの写真の血まみれの斬首 (馘首) 死体で気分が悪くなる方はご遠慮頂きたい。 |
このサイトには106枚の写真と21枚の絵が掲載されており、その写真の大半が中国や日本の首切り写真であるとの説明だが、見たところそれらは全て携帯用カメラが商品化された19世紀末以降の、清朝末期から辛亥革命 (1911)、そして上海クーデター (1927) 時に中国で撮影されたとみられる写真であり、日本の斬首と見られるものは見当たらない。
ところがこのうち2点3枚が日本の長崎で撮影されたと説明されており、そしてタイトル (説明文) に「Japanese」の単語を含む写真が以下の4点5枚。
『Beheaded Art』のトップページは「full details」と「thumbnails」の二つのモードがページ下部のメニューで切り替えられるようになっており、「full details」の方で説明文が表示されるようになっているが、ブラウザによっては写真を読み込まないケースがあります。その場合は「Full details」専用のURLがあるのでそちらで試してみて下さい。
なお『Beheaded Art』の元サイトは本エントリー掲載の4点より更に残虐な写真も掲載されているため、訪問する方はご注意下さい。
追記 (2014.4.1):「Beheaded Art」の元サイトが仕様変更になり各写真のリンクが全体のページに繋がってしまうだけでなく、恐らく長期放置ページのためかページトップに猥褻写真が表示されるようになっています。当エントリーでは情報ソースの証拠としてリンクは残しますが、閲覧は自己責任でお願いします。
![]() 清朝官帽 (吉祥満族) [A] |
しかしここに写っているのは刀を持った2名以外はチャイナ帽 (清朝官帽) の清兵や頭にターバンを巻いたインド兵。
絵葉書上部には中国語でも「北京東洋人殺頭」と書いてあるので、これは漢字の読めないサイト主がイタリア語から訳し忘れたか、意図的に「北京」を取り除いたかのどちらかとなる。
写真2 (元サイトの写真70) Japanese public Executions, Nagasaki Japan (1) ![]() 日本の公開処刑。長崎 (1) Beheaded Art. Japanese public Executions, Nagasaki Japan (1).
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写真3a (元サイトの写真71) Japanese public Executions, Nagasaki Japan ![]() 日本の公開処刑。長崎 (2) Beheaded Art. Japanese public Executions, Nagasaki Japan (2).
写真3b (元サイトの写真80) Public execution, Nagasaki ![]() 公開処刑、長崎 Beheaded Art. Public execution, Nagasaki.
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上記2点が日本の長崎での撮影と説明されているもの。しかしここにも清兵やインド兵が写っている。
写真4 (元サイトの写真93) The first delinquent is beheaded while French (?) and Japanese soldiers are watching ![]() フランス兵(?)と日本兵が見守る中、一人目の罪人が斬首される |
これは撮影場所や時代の記述はなし。『Beheaded Art』にはこの写真と同じ時に撮影されたとみられる連続写真数枚が掲載されており、それらの写真で確認出来るのは群衆と死刑執行人は弁髪やチャイナ帽をかぶった清国人、ヨーロッパ人らしき兵隊が処刑見物をしているのと、建物の窓が中華式の格子窓であるという事である。(連続写真に関しては本エントリー後半の写真の検証の項を参照)
諸条件から1900年の北京の北清事変における義和団の処刑写真と見られる
![]() 火縄銃を持つ清兵 (Seven Stars Trading Co.) [B] ![]() 広西辺境の清兵 (1900年頃) (昨日重現) [C] |
少なくとも写真1-3は1900年の北清事変 (義和団事件) で義和団鎮圧のために清国に派遣された大英帝国、アメリカ合衆国、帝政ロシア、フランス、ドイツ帝国、イタリア王国、オーストリア=ハンガリー帝国、大日本帝国からなる八ヶ国連合軍が、8月14日に北京を陥落させた後の義和団掃討作戦における残党処刑の際に撮影された写真であり、写真4は兵士の服装からその年の冬に連合軍占領下の北京で撮影されたものと推定される。
連合軍による義和団の掃討作戦は1900年9月に集中的に行われ、義和団の残党は連合軍側に寝返った清朝側に処刑をされ、これらの写真のように清国の兵士の立ち会いのもとで連合軍の将校が処刑を行ったケースもあったようである。
当時の清国では公開斬首処刑というものは普通に行われており、当時既に公開処刑が廃止されていた欧米の将校も清国の流儀に倣って処刑を行い、その一部に日本軍将校による処刑写真も存在しているというのがこれら上記の写真である。
現存する義和団処刑写真の殆ど全ては写真4のように清国人執行人による刑執行であり、中国サイトなどでも多くの義和団処刑写真が掲載されているのを見る事が出来る。
反日サイトなどを見るとこれらの処刑が何でもかんでも日本のせいにされているが、執行人や官憲の服装や髪型を見ればそれらが日本人でないのは一目瞭然というケースがかなりある。
従って『Beheaded Art』に掲載されている写真1の絵葉書に「日本兵による処刑」と書かれているのは、これは史実的には間違いではないが、これが「北京で行われた」の部分が抜け落ち年代が書かれていないために、1900年当時の軍装と八ヶ国連合の歴史を知らない人が見た場合に、“有名な”南京と混同されかねない誤解を生じ易い展示になっている。
この時代以降には、清国の処刑写真は欧米で絵葉書に印刷され広く出回り、辛亥革命時 (1911) や上海クーデター (1927) 辺りの処刑写真はダフ屋が外国人に売りつけたりなどして、当時中国に駐留した欧米軍の兵士が多数それらの写真を自国に持ち帰ったり、米国議会図書館の蔵書として保管されたりなど、そういう元々出所の不明な写真が近年はネットに広がっており、中国の反日サイト辺りではそれらが支那事変時の「日本兵による蛮行」の写真として掲載されるなど捏造のネタにもされている。
『Beheaded Art』は恐らく古物屋で見付けたそういった写真や絵葉書を、誰が書いたか分らない説明の真偽を確認せずにそのまま書き写しただけだろうと思われる。
いずれにしても、これらの写真が日本国内で撮影されたものではないのは明らかであり、問題は特に「長崎で撮影」と表記されている写真2と3、そして日本撮影の写真が掲載されていないにもかかわらず日本が中国と同列に扱われているサイトトップ文である。
このサイトに訂正要求を出そうかと検討中であるが、こういうクレームの場合第三者には「ナショナリズムに駆られた感情的なクレーム」との印象を持たれ易いため、学術的な根拠を提示するのが得策と思われる。
![]() 1900年、中国に駐留しているインド軍ポンペイ工兵隊第二中隊 (National Army Museum/Ministry of Defence, UK) [E] |
それで、私が出入りしているミクシィコミュニティの国内在住の方に情報提供をお願いしたところ3人から協力があり、結果的には当初の目的とはまた別に興味深い内容の展開となった。
今回の調査には、それぞれHNで貞子さん、ブログ『JPN Archinve 日本館』のHazamaさん、そしてポチョムキンさんのお三方にご協力頂いた。
1 貞子 |
サイトの持ち主は欧米人ですか。Artというタイトルには驚きますね。 指摘される写真は日本じゃないですよ。インド人などいなかったし、着ている服装、頭(おでこが異様に禿げ上がってる?帽子は中国文化)とんでもない写真だわ。当時の軍服、民間人の服装を調べないといけませんね。 普段から気になっていますが、旧日本軍が残酷だという風潮、今の日本人をよく見ていただきたいものです。もし、残酷であったのならその残酷な祖先のDNAを持っていることになり、残酷文化は今の時代にも反映されていると思うんですよね。どうでしょう、世界で日本人が犯罪者になっている確率は低いと思われますが。規律正しい民族だと思いますし、世界でもそう見られていると思いますね。 日本人とインド人の区別がつかないとは愚かなHPです。 |
2 redfox2667 |
貞子さん 「art」には「芸術」だけでなく「写真」とか「技」の意味もあるのですが、それに先行する「Beheaded」が動名詞でなく受動態形容詞であるため「斬首されたアート」の意味にしかならないので、直訳すれば「首のない芸術」ですが、『Beheaded Art』の英語には微妙にミスがあり調べてみたらこのサイトはドイツドメインのため、ドイツ語的には別な意味なのかもしれませんがその辺りはよく分りません。 インド人ですが、当時は英領インドなのでインド兵は英軍として駐留していたのではないかと思います。 それにしても、日本にインド軍や清国軍が駐留した事は歴史上一度もないのに、それがどうして長崎撮影になっているのか理解出来ません。 八ヶ国連合が掃討作戦で捕えた義和団員を、清国側としては八ヶ国連合の将校に儀礼的に処刑に立ち会わせたのではないかと思います。 明治33年の北清事変は、幕末戦争や明治の士族反乱の時代からそう遠くない時代で、日清戦争という初の国際戦争の5年後であるので、当時の軍人の処刑に対する認識というものはよく分りませんが、こういう公開斬首処刑は当時の清国では極めて普通の事であったため、これは日本だけの問題ではなく8ヶ国連合軍全体として清国の流儀に倣ったのではないかと思います。 |
3 redfox2667 | ||
ちなみに、八ヶ国連合での日本軍などの将校の写真はこれ。
白黒写真のせいもあってか、八ヶ国連合の司令官の集合写真を見るとどの国の軍服も同じように見えます。後列中央が日本軍司令官。左胸の記章が大量にあります。
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4 貞子 | |
ひとつ貴重な写真を見つけました。
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5 redfox2667 | ||
貞子さん やはりインド兵がいましたね。 各国軍の集合写真は、当時清国のどこの国の兵士が駐留していたかの根拠として示すには、これは一目瞭然で非常に分り易い例ですね。 各国とも下士官と士官クラス、季節によって服装は違うとは思うのですが、ご紹介の写真と以下の『Beheaded Art』の4番目の写真を比べた感じでは、ギャラリー左側の2人が日本兵というサイト主の表記は恐らく正しいのではないかとは思われます。フランスに関してはよく分りません。 ![]() ![]() 中国のサイトにもう少し鮮明な写真がありました。
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6 redfox2667 | |
当時の海軍の軍服に関して、ウィキペディアの『軍服(大日本帝国海軍)』に随分詳しく書いてあるので、取り合えずこれが参考になりそうです。 海軍の軍服はホック留めから金のボタンになったのが1900年 (明治33年)、そして士官クラスの軍帽の周章の金線が黒毛になったのが1904年 (明治37年)、大型肩章が付いたのが1914年 (大正3年) で、刀を持っている人物の軍帽に金線があるなら義和団事件から日露戦争の間。 同ページに1900年の日本海軍の階級別の軍服の図解イラストが載っていて、これがかなり参考になりそうです。
『Beheaded Art』の写真1-3で刀を持っている人物はどれも左胸の記章が多いので士官クラスである事は確かです。 |
7 Hazama |
![]() とりあえず近くの図書館ですぐ参照できる資料としては、「日本の軍装―幕末から日露戦争 中西 立太」という本が確認できました。 他には、「日本近代軍服史」(1972年) (風俗文化史選書〈5 日本風俗史学会編)も取り寄せ可とのことでしたが、現在予約枠を使い切っているので、こちらは時間がかかりそうです。 |
8 redfox2667 |
Hazamaさん ありがとうございます。『Beheaded Art』に映っている日本兵の軍服と全く同じ物が見つかれば年代特定が完全に出来るので(ネット上で見つかる日本軍の写真は年代や様式などの情報が不十分なものが大半で余り参考にならない)、そういったまとまった形でリストされている書籍資料が一番有力な情報を見付け易いのではないかと思います。 インド兵が写っている2枚に関してはこれは8カ国連合に間違いはないのですが、その他の写真におけるこの学生服のような軍服が全て義和団事件当時 (明治30年代) の日本軍の軍装だと確定すれば、非常に絞り込み易くなります。 |
9 ポチョムキン |
とりあえず、軍装関連サイトです・・・。 徳永古美堂(旧日本軍軍装品情報トップページ) |
10 redfox2667 |
ポチョムキンさん ■徳永古美堂 ここの軍帽に映っている「陸軍中尉正帽」が近いように見えます (前立てを除いて)。 |
海軍か陸軍か
北清事変にまず派遣されたのは5月31日の「愛宕」の海軍陸戦隊で、それから6月10日の「笠置」陸戦隊、そして7月6日~8月16日の陸軍第五師団となっているが、『Beheaded Art』に写っている日本軍将校等の軍服の特徴がこの時代の陸軍か海軍の軍装のいずれかと一致するものが見つかれば、服装からも年代が特定出来るという事になる。
11 貞子 | |
あまりヒントになるかどうか分りませんが、少し調べました。 日露戦争
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12 redfox2667 |
貞子さん 『「日露戦役回顧寫眞帖」にみる日露戦争』の下から2番目の写真、これは義和団事件の5年後の明治38年 (1905年) 撮影のものですが、『Beheaded Art』の日本兵の学生服風の軍服の写真ともデザインがかなり共通しています。当時の欧米列強の軍服ともデザインが似ているので、恐らくこれは当時のスタイルでしょうね。 ちなみに乃木大将の日露戦争第三軍は陸軍ですね。 |
13 redfox2667 | |
以下は実際に義和団の乱に出征した日本海軍陸戦隊の写真。
この写真では処刑写真とは帽子は完全に違うし服装も違うように見えます。 |
14 ポチョムキン |
1900年(明治33年)関連の時代からすると、以下の辺りが主でしょうか。
言葉を元に検索していけばさらに拾えるかもしれません。
軍服(大日本帝国陸軍) 明治19年制式 1886年7月6日に定められた。それまでのフランス型からドイツ型への大きな転換となった。第2種帽や軍衣の地質は、将校等は濃紺絨、下副官以下は紺絨であった。 明治26年制式 将校・准士官・下副官の、夏衣のみの改正で他の服装については改正はない。 明治26年正式注記:1900年(明治33年)に起きた北清事変では、白い軍服に代わってカーキ色の軍服が現地部隊に限って貸与された。 明治33年制式 明治33年9月8日に制定された「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)に基くものである。従来の陸軍将校服制及び陸軍下士以下服制等が統合されて一つの勅令となった。 明治37年戦時服 日露戦争(1904年(明治37年)2月10日宣戦布告、1905年(明治38)9月1日休戦成立。)に際しては、戦時服が「戦時又ハ事変ノ際ニ於ケル陸軍服制ニ関スル件」(明治37年勅令第29号)、その後「陸軍戦時服服制」(明治38年勅令第196号)により定められた。 明治38年戦時服 「陸軍戦時服服制」(明治38年勅令第196号)では、45式軍衣に類似した服制が定められた。 明治39年制式 1906年(明治39年)4月12日、「陸軍戦時服服制」は「陸軍軍服服制」と改められた。 Wikipedia. 『軍服 (大日本帝国陸軍)』
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15 redfox2667 |
ポチョムキンさん ウィキでの明治19年と26年の記述が気になりますね。写真は白黒で色は分りませんが明らかに暗い色のものなので、少なくとも白ではなく、紺色かカーキ色という事になります。 |
16 Hazama | |
参考になるかどうか分かりませんが、とりあえず海軍の軍帽の変遷。
「日本の軍装」(中西立太)を見る限り、軍帽は海軍の帽子より陸軍の物に似ているような気がします。 それとも陸戦隊は通常の海軍の物とは別に、独自のコスチュームを着用していたのでしょうか? 本には幻の兵種海兵隊のコスチュームまで載っているのに、海軍陸戦隊の軍服が独立して記載されていません。 |
17 Hazama | |
1886年3月改正(歩兵)
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18 Hazama | |
1886年モデル 歩兵
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19 Hazama | |
1905年式 (歩兵) これは違いますね
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20 Hazama | ||
1875年モデル 歩兵(左)近衛歩兵大尉(右)
これも違うような気がします。「日本の軍装」(中西立太)で見る限りでは、海軍に類似のユニフォームなし、1886年から1905年の間の陸軍のユニフォームに似ているとしか分かりませんでした。もう少し詳しい本を探してみます。 |
21 redfox2667 |
Hazamaさん >>18番の陸軍第二種帽の例えば黄色であれば白黒では明るく写るはずですが、『Beheaded Art』に掲載されている写真の軍帽は全体的に暗い色で、生地より明るい色の細い線が見えるため、階級によって線の太さや数に違いがあるにせよ>>18番では階級を示す線は暗い色で描かれていて、帽子の特徴が一致しないように見えます。 ただ見た感じでは帽子を除けば>>17番が一番近く見えますね。 しかし写真上は白黒写真ながら、カーキ色よりもむしろ濃紺の軍服に見えます。ただ不鮮明な白黒写真上では帽子のラインが今ひとつ分かりにくいのが難点ではあります。 |
22 ポチョムキン | ||||||||
脚絆つけてる人と件の「よく似てる絵」の比較。
2枚目の人は不鮮明だけど、1枚目3枚目の人は良く似てますね。 違いは、襟に色が付いてない、帽子に色が付いてない。 |
23 redfox2667 |
写真1と一番右のイラストは腰に着けている物入れが似ていますね。それからよく見たら写真1と3は肩章が見えますが、イラストのように肩章と襟章が同じ色には見えないので、という事は襟章がなくて肩章があるという事になります。白黒写真で明るい色に見えるという事は赤ではなく黄色などですね。 |
帽子の検証
上記の議論では『Beheaded Art』に写っているのは1886年 (明治19年) 式陸軍軍衣に一番近いという事になったが、唯一一致しないのが帽子であり、帽子に関する検証を行った。
24 ポチョムキン |
帽子だけ抜き出すとこんな感じですかね?![]() ![]() ![]() こんな感じですか? |
25 redfox2667 |
>>24の帽子のデザインですが、拡大写真の2-3人に線の存在が確認出来る以外は、その他の人物に関しては線の有無すらもこの画質ではよく分らないですね。ただ下士官クラス以下はもともと線がないので、それならそもそも見えないし、赤は白黒写真で撮ると黒く映るので、帽帯が赤ならこういう風に映るかもしれません。 それから帽章は八角形に見えますね。 線が2本かと見えるものでも、実は下側は帽子のつばが光っているだけなのかもしれません。 帽章が見えないものは横向きや後ろ向きにかぶっている可能性もあります。 |
26 Hazama | ||||
>それから帽章は八角形に見えますね。 歩兵(陸軍)の帽章は「星」。
(>>18)にも見えるとおり、将官クラスでも「星」です。近衛部隊は少し凝ったデザインになっているようです。 |
27 Hazama | |
海軍の帽章
海軍の帽章は複雑なデザインを採用しています。不鮮明ではありますが、写真の帽子は「形は陸軍・帽章は陸軍らしくない」と言った印象でしょうか? |
28 Hazama | ||
1886年モデル
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29 redfox2667 |
Hazamaさん 特に『Beheaded Art』写真3[>>3]の写真で刀を持っている人物の帽章が分り易いですが、これが星形には見えないし、>>26番の近衛兵前章のように星が付いているようにも見えないですね。 ![]() ![]() 『Beheaded Art』のその他の人物に関しては不鮮明過ぎて分りません。 海軍の帽子もいろいろな種類があるようですね。 |
30 ポチョムキン | |
>>10で指摘されている、陸軍の前立付制帽が一番近い気がしますね・・・ このタイプはどうなんでしょう? |
31 Hazama |
ああ、そうですね。あれは、正帽用の帽章かもしれません。手元の資料ではハッキリしませんが、それらしい絵もあります。そうなると、ますます陸軍っぽくなってきましたね。
記念撮影用に正帽を被って行ったのかもしれません。なぜ前立だけ外しているのか、気になるところではありますが。 |
32 redfox2667 |
特にラインの感じとか私もこれが一番近いように思います。 前立が外されているのは、普段は外しているものなのか、それとも処刑立ち会いだから外したとか、何か理由はありそうですね。 |
33 貞子 |
白黒の写真は色が判明できませんが、光沢があって光って見える部分は>>30の写真で分るようにゴールドの線があったということは理解できますね。そして皮の部分も白黒では光沢がでますよ。 |
34 ポチョムキン | |
>>24の2枚目画像右下の物と同じと思われる画像を見つけました。 ![]() ![]() ![]() ![]() これも前立てがなければそっくりの様子ですが、この帽子の詳細は不明です。 YAHOOオークションに出ていた様子なので、この出品者に問い合わせると何かわかるかも知れません。
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35 ポチョムキン | ||||||||||
あと、以下のサイトで
とあり、明治33年以前の物は「第一種帽」と呼ばれていた様子です。 「第一種帽」でググった所、
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36 redfox2667 |
>>34 これはそうですね。帽章が>>27の海軍帽章ではなく圧倒的にこちらが近く見えます。>>24の拡大写真をよく見たら、人によってかぶっている帽子の形状や線の感じが微妙に違うようにも見えるので、これは一種類ではないかもしれないですね。 オークション出品者の方でも数代後の子孫なら、そこまで詳細は知らないかもしれません。知っているとすれば、そのご先祖様がいつの戦争に出征したか位かもしれないし。 |
37 ポチョムキン |
帽子ですが、思いますに、大まかに「2種類」ある感じがしますね。 >>30のタイプと>>34のタイプが。 30のタイプには帽章の有る無しがある様子なのと、 34のタイプは、1つだけのようですね。 あと、「第一種帽」ですが、一般的には「正帽」と呼ばれている様で、「正帽」と書かれていても実際は時代の古いものである可能性も有るかと思います。 |
38 Hazama | |
私も帽章は陸軍の正帽用の物ではないかと思います。「日本の軍装」は図書館に返してしまったのですが、1886年以前のモデル(帽子)にも、1886年モデル(ただし本に載っていたのは騎兵隊用の正帽)にも、あの帽章が描かれていました。 基本的に普段の帽子(戦闘帽?)と正帽とは、帽子の形は大体同じで、頭頂部の「星」と帽章のみ違っているということでしょうか?(あと線と前立)。騎兵隊はそんな感じだったような気がします。(本返すんじゃなかった)ならば、問題の正帽も1886年モデルかなっと思うのですが・・・。 「日本近代軍服史」は結局横浜の図書館には蔵書がないとのこと。「日本海軍軍装図鑑」にはそれらしい帽子はありませんでした。
ポチョムキンさん、よく見つけましたね。写真を撮るので、一張羅を着て行ったわけですね(笑) |
39 ポチョムキン |
第一種帽で探しているうちに不意に目に入りました。 運が良かったです(笑 一張羅については、日本人として自分がその立場であった時を思いますにですね。 死刑執行、またはその立会いともなればですね。 やはり、身に着けるものはソレらしい物を用意したい気に成ります。 写真を撮るというのもあるかもしれませんが、儀礼的に。 実際はしらないですが・・・。 |
40 redfox2667 |
>>38 Hazamaさん どうもお疲れ様でした。どうやっても明治後半の日本の陸軍の服装という事であれば、もうこれは北清か日露戦争しかない訳で、インド人と清国人が映っているので北清に完全に絞られます。『Beheaded Art』へ「これが長崎でない」が提示出来る根拠としては十分揃いましたね。 |
41 redfox2667 | |
>>39 ポチョムキンさん 写真の歴史を見ると、銀盤撮影の時代から1888年に初めてロール式フイルムが登場して、北清事変の翌年の1901年のコダックのブラウニーで普及したという事ですが、北清事変の当時はかなり高額な物であった筈であり、清国への駐屯軍が当時のボックス型の大がかりなカメラを刑場に持ち込んで撮影したというのは、当時としてはかなり大袈裟なシチュエーションに思えますね。
でも返り血を浴びる斬首処刑に一張羅というのも不思議な話ですね。戊辰戦争30年後の当時の軍人の価値観はよく分りませんが、義和団4000人の掃討の後の記念写真は勝利の証だったのでしょうか。 |
劣悪な条件でプリントされたり、絵葉書に印刷されたりなどもともと不鮮明な写真で更にウェブサイトの72dpiの解像度という、細部を判別するのに困難を極める条件ながら、結局のところ、これらの処刑写真の日本兵は、陸軍の明治19年 (1886) 制式 (明治19-38年/1886-1905) の軍服に、陸軍の第一種帽 (正帽) の礼装スタイルだろうという結論に取り合えず落ち着いた。
そうすると軍装の特徴から時代的に当て嵌まるのが日清戦争 (1894-95) か北清事変 (1900) となり、インド兵の存在、それから処刑に清兵が立ち会っている点から、写真1-3は100%北清事変時の撮影、そしてフランス兵と日本兵が立ち会い清朝執行人が処刑をしている写真4はその年の冬の北京での撮影と結論を出していいと思う。
この『Beheaded Art』が一体どういう主旨で残虐写真ばかりを集めたサイトを作っているのか分らないが、同サイトの「リンクページ」には、「斬首の歴史」のような学術的アプローチもあるものの、その他には「死刑執行人のインタビュー」「アラブの死刑写真」そして、サイト主が制作したというイスラムの投石死刑のビデオが掲載されているなど、これは紛れも無く死刑マニアだと思われるが、この3年ほど更新がないサイトなので、メールを出してみたところで管理人がチェックをするかどうかは微妙な感じではある。
今回は『Beheaded Art』自体よりもむしろ調査を楽しんだような展開になったが、こうやって複数の人が情報を出し合う共同調査というものもまたいいものである。
貞子さん、Hazamaさん、ポチョムキンさんのご協力に感謝を申し上げたい。
『Beheaded Art』掲載の写真は本物か?
議論の過程で貞子さんからこれらが合成写真の可能性もあるとの指摘があり、実際写真そのものの真偽を疑い出せばその検証というものも必要となって来るが、特に写真1は絵葉書に印刷されたもので写真だか絵だか分らない画質である点、そして写真2に関しては非常に不鮮明で劣悪な状態の写真であり、これが「合成ではない」と説明するのは非常に困難である。
こういう場合に一つの目安となる方法は、ネット上にこれらの同一写真が別なソースでどれだけ存在するかという事と、そしてこれらの写真とは別ルートでプリントされたと見られるものが他にどれだけ存在するか、同一写真で写っている範囲の広いもの、そしてこれらよりも画質の鮮明な写真が存在して、それら全てが全く同内容である場合に、その信憑性は高くなるという、こういう事も根拠の一部とはなる。
ただし、仮にこれらが合成写真であったとしても、インド兵と清兵と共同で処刑を行っているという時点で日本の長崎で撮影されたという根拠が成立しなくなるので、写真が偽物であった場合もそれがこれらの写真が長崎で撮影された事を肯定する根拠にはならないため、いずれにしてもこちらの主張に関して不利な要素とはならないものである。
写真1
![]() Decapitazione di ribelli Cinesi a Pekino, eseguita dai soldati Giapponesi (Decapitation of the Chinese rebels, executed by the Japanese soldiers) 北京での中国人謀反人の斬首、日本兵によって処刑 (一行目イタリア語) 中国人謀反人の斬首、日本兵によって処刑 (括弧内の英訳) |
以下ネット上で見つかる同一写真。写真上の説明は中国語からの訳。
八ヶ国連合軍は北京郊外で義和団員を捕えその場で処刑した![]() 『八国連軍四出伐剿捕殺京郊義和団員』. 中国青年網, 2004-11-24 16:02:40 |
北京の斉化門 (現朝陽門) の外で殺戮する八ヶ国連合軍 「斉化門外連軍之殺義和団」(写真右端に書かれている説明) ![]() 「八国連軍在北京齊化門(今朝陽門)外屠」網易. 『1900年8月14日 八国連軍向北京発起総攻』. | |
さてこれは相当劣悪な画質であり、これを単独で見たのではこれが合成だかそうでないかを判別するのは不可能。しかし絵葉書と比べると被写体の人物が全く同一。刀を除いて。
このネットで見つかった写真の方は、刀を振りかざしている日本兵の手の向きに対して刀の角度が不自然であり、絵葉書の方が写真が鮮明で、ネットで見つかった写真は建物の左側の壁や屋根が写っていないなど、一体何がどうなってこの絵葉書と写真の内容に違いが生じているのか全く不明である。
それから被写体の人物が全員がカメラの方を向いているという非常に写真を意識した不自然な作りになっている。
ひょっとするとこれはあくまでも撮影用のポーズであって、撮影時に日本刀はそもそも持っていなかったのが、後から手修正された写真にも見える。
いずれにしても中国のサイトでもこれが義和団の処刑写真と紹介されている。
コメント欄でぐい呑みさんからの指摘で、この刀を構えている人物が左に鞘をつけ右足を出しているのなら、左右の手のポジションが剣術のルールとは逆であるとの指摘があった。
確かにその通りであり、これは恐らく左手が右手よりも低い位置にあるとこの人物の顔が腕に隠れてしまうために逆のフォームにさせられたという事ではないかと思われるが、修正の形跡も確認出来る事と合わせれば、これは完全に撮影用に演出された写真と見られる。
写真2
![]() Japanese public Executions, Nagasaki Japan (1) 日本の公開処刑。長崎 (1) |
写真2でネット上で見つかったのは以下。
1900年、八ヶ国連合軍が中国に侵入した時、上海の日本軍が義和団メンバーの虐殺に関わった。![]() Century China. "The Japanese Crimes Against Humanity must be exposed". |
日本兵による中国の「義和団」の処刑。撮影:カール・ルイス No. 136-0 (写真上の英語の訳) 連合軍が義和団員を殺害。執行は日本軍刀を手に持った日本軍の士官 (掲載サイトの中国語の訳) ![]() 博宝網. 『連軍殺害義和団員、劊子手是手持日本軍刀的日本軍官』, 2008-10-24 11:54:24. |
Century Chinaの方は色調がもう少し細かく出ている写真で若干は状態は良いものであるが、とにかく解像度的には余り良好でない点では同じなので、これが合成なのかそうでないかは全く判別は出来ない。
博宝網の着色写真の方は左右が逆であったため反転処理してある。サイズは小さいながらもより鮮明な写真だ。
これらの画質で見ると、日本兵、死刑立会人、清兵で数人、写真3と同じ人物がいる事が確認出来るため、写真2と3が同じ時に撮影された事が分る。
一方、「Century China」掲載の写真に修正または合成の痕跡が見られ、まず剣を構えている人物の右手の位置が微妙に違う事、右足の位置が完全に違う事、鞘の位置が完全に違う事、そして目隠しをされている左側の人物の顔の向きが違うなどの点が見られるが、その他が完全に同一であるため、いずれかが修正写真となる。ちなみにCentury Chinaの写真は中国語の本から取り込まれたように見えるが、このウェブサイト自体は日清戦争や北清事変を全て日本による大虐殺と言っているただの反日サイトで、写真に付いている文章も「上海の日本軍」という根拠不明の説明が付けられているが、この写真の後方ではインド兵と清兵が列を作り、左側の死刑立会人がやはりチャイナ帽をかぶった清国人であるため、日本軍のみを殊更に目の敵にするために提示する写真ならこれは全く意味がないものである。
いずれにしてもこの反日サイトでもこれを「中国での撮影」と説明しているので、長崎撮影は否定される。
写真3
この写真は、『中国の世紀』(ジョナサンスペンス著、大月書店)に鮮明な写真が掲載されているとの事。
![]() Public Executions, Nagasaki 公開処刑。長崎 |
『中国網』の英語ページに『Beheaded Art』の写真3と同一のものが「北京の安定門の外での日本軍による処刑」と書かれて掲載されている。
日本軍のコントロール下になった北京の安定門の外で日本軍が中国人を処刑するために刑場をセットアップした。![]() 中国網. "The Japanese troops set up execution ground for killing Chinese outside the gate of Andingmen, which was under its control." in China's Tragic Years, 1900-1901, Through a Foreign Lense, 2001. |
『漢唐論壇』より。
日本軍は清国政府の巡査協力の下、安定門外で捕獲した義和団員を斬殺した。![]() 日軍在清政府的巡捕的協助下,在安定門外斬殺捕獲的義和団員。漢唐論壇. 『歴史上的今天』, 2008-9-2 19:42:00. |
写真3でネット上で見つかるものでは、flickrにアップされている写真が見たところ一番色調が鮮明。これは英語表記で「China. Boxer Rebellion」(中国、義和団事件) と説明されているので証拠として使えそうである。
中国、義和団事件、囚人の処刑 (P・ハンコック夫人提供) 「義和団の処刑」 ![]() mxsu. "CHINA. BOXER REBELLION. EXECUTION OF PRISONERS. (DONATED BY MRS P. HANCOCK).". flickr, October 22, 2007 |
ディテール的にはこれが更に鮮明な写真。
北京東便門の外の日本軍部隊が義和団団員を虐殺。![]() 天下第一彎月刀. 『日軍部隊在北京東便門外屠殺義和團團民』. 鳳凰網, 2009-6-16 06:48 |
この写真3は中国サイトで検索しても大量に見つかり、見た限りではその全てで「義和団の処刑」と説明されているので、これが一番根拠が大量に存在するものである。
それにしてもこれらの中国サイトでは「日本軍部隊が義和団を虐殺」と説明しているが、「日本軍部隊」と言ってもこの写真の被写体9人の人物のうち6人は清国人だという事を一体どう考えているのか、全くこの連中は呆れたものである。
それから、彼等は「日本軍が義和団を殺戮した」と殊更に騒ぎ立てるが、実際に義和団の掃討作戦を中心になって行ったのはドイツ軍である。
実際、日本軍将校による義和団処刑写真は中国語と英語サイトで捜したところ、写真1-3の3点の他もう1点の4点しか存在が確認出来ない。
従って、中国のサイトですらもここまで何も見つからないという事は、これは「清朝の役人が連合軍の将校に義和団捕虜処刑に参加させた事があり、日本軍将校がそこに参加した事があるという、そういう例があった」という以上の何物でもないというレベルの話であると、そういう事になる。
いずれにしても北清事変とは、アヘン戦争後の清国におけるキリスト教勢力を排除しようとした義和団に包囲された外国人や清国人クリスチャンが北京で籠城状態となった事件であり、八ヶ国軍の派遣は欧米列強が自国民を守るためのものであった。
そして最終的に戦況不利になった清朝が連合軍側に寝返ったという、これを「日本の侵略」と定義するのはかなりお門違いであり、この連中は結局のところ中華思想と白人コンプレックスから、欧米列強の進出を許した自国の屈辱の歴史のはけ口をすべて日本に向けているだけの話なのである。
写真4
一方で写真4のような清朝の執行人による斬首写真はネット上にも大量に存在する。
![]() The first delinquent is beheaded while French (?) and Japanese soldiers are watching フランス兵(?)と日本兵が見守る中、最初の罪人が斬首される |
これが清国の死刑執行写真であるというのは、『Beheaded Art』に掲載されている以下の連続写真を見れば明らか (クリックで実サイズ表示) である。『Beheaded Art』のURLでは上記の写真はこの連続写真の4番目として整理されている。
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これらは『Beheaded Art』のサイト上で出典も、撮影場所や年代の表記もないために、これらの写真の関連は示されていないが、それが確認出来る要素は、建物が同一である事、フランス兵が同一グループである事、そして死刑執行人が全て同じ人物である等の点である。
写真1を見ると死刑執行人と共に日本兵が入場している点、写真2と3に写っている清兵が官帽 (縁が折り返され上を向いているもの) をかぶっている点、そして写真3には別な国の兵隊も写っている事から、日本兵とフランス兵は見物していたのではなく、死刑を執行する官憲の清朝側として、連合軍を代表した死刑立会人として同席していたものと見られる。
![]() 斬首死体と記念写真を撮る米兵。清国。(グロ写真のためモザイク処理。クリックで無修正) (Beheaded Art) [F] |
また同じ時期の米比戦争 (1899-1913) では米軍が相当数のフィリピン人を殺害しており、ヨーロッパでは人権が言われ公開処刑が廃止になっていた時代に、一方では非白人に対しては彼等の人権意識の全く範疇外だった人種蔑視の時代のこういう写真などを見ると、当時の日本が欧米側として八ヶ国連合軍に参加したのも、この時代に世界における日本の地位の向上を画策したものであるとそのように思える。
いずれにしても、「フランス兵(?)と日本兵が見守る中、最初の罪人が斬首される」という表記に間違いはないので、これは除外となる。
日本の斬首写真
あともう一つの問題は、『Beheaded Art』のトップ文に書かれた以下の文。中国や日本の斬首 (馘首) はしばしば外国人によって撮影され、このサイトに掲載されている大半の写真がそこから来ている。 |
日本の斬首がしばしば外国人によって撮影されたのかといえば、数は少ないにせよ日本の晒し首や磔の写真は存在はする。
公開斬首処刑写真で中国で撮影されたものが圧倒的に多いのは、その撮影年代が1890年代後半から1920年代くらいにかけてのものであり、乾板やロールフイルム方式という撮影の手軽さが飛躍的に向上し携帯用カメラが普及した時代に至っても中国では公開斬首処刑が普通に行われ、当時欧米列強が中国に進出していたために外国人が多数在住していたという背景がある。
![]() 明治4年、神奈川の殺人事件犯人の晒し首の写真。スチルフリード撮影。 (長崎大学付属図書館) [D] |
それに対して日本の処刑写真が非常に希少であるのは、幕末10年前の1858年までは日本は鎖国されていて、明治初期には公開処刑は禁止されたため、撮影可能だった年代が非常に限られている点がまず挙げられる。
また中国の写真よりも時代的に古く、1860年代当時の湿式コロジオン法という露光時間数秒~10数秒を必要とし準備に手間のかかる撮影法ではそうそう手軽に撮影出来る時代ではなかったという背景もあるかと思われる。
それでも捜せば、幕末から明治初期にかけての重罪人の晒し首や磔、明治初期の士族反乱時の江藤新平の晒し首の写真などを見つける事は出来る。(クリック注意)
しかし日本の場合は、中国のように黒山の人だかりの群衆の前での斬首刑のような写真は一切存在しない。
その代わり存在するのは晒し首や磔という処刑後の写真ばかりであり、この辺りの違いは恐らく時代的な古さから動きの速い被写体の撮影が不可能だった技術的問題なのか、処刑そのものは公開されてなく撮影が許可されていなかった等の事情と思われる。
従って『Beheaded Art』トップ文の「日本の斬首が外国人によって撮影された」の記述は間違いとはならないが、もともと「日本」と表記されていたのは106点の写真うちのたった2点のみであり、実際は日本の写真が一枚も展示されていなかったこのサイトに「このサイトに掲載されている大半の写真がそこから来ている」との説明は不適切という事になる。
支那事変関連エントリー:
・歴史から消された広安門事件と廊坊事件 (2007.7.11)
・清瀬一郎:東京裁判冒頭陳述 (2007.7.19)
・南京事件考 (2007.8.7)
・東條英機元首相 公的遺書 全文 (2007.8.14)
・英語・中国語版Wikipediaにおける大山事件と第二次上海事変の記述 (2007.8.18)
・中国の死刑写真とBBC『南京大虐殺』の酷似 (2007.10.28)
・上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (2007.11.4)
・日本人捕虜の残虐処刑写真に関する中国人の議論 (2007.11.9)
・猟奇的な大山中尉殺害事件 (2007.11.14)
・通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会 (2009.3.20)
写真:
- ^ 「清代官帽」. 中国少数民族---吉祥満族. 『特色服飾』. 中国網.
- ^ "Qing Bannerman armed with Matchlock Musket" Seven Stars Trading Co. "Historical Illustrations of the Qing Military".
- ^ 「広西辺境的清兵」. 昨日重現. 『清末舊軍及換裝前的新軍-清末,軍隊,新軍』, 2007-3-16.
- ^ 『「壬申(明治4年)三月」の高札の年次が読めるが、これは神奈川裁判所が管内で起こった薬物を用いた殺人事件の犯人を晒首の情景である。この1枚は1876(明治6)年にスティルフリードが刊行したアルバムのなかに収載されている。』 (幕末・明治日本古写真メタデータ・データベース. 『晒首(1)』. 長崎大学附属図書館)
- ^. We Were There. "No.2 Company, Bombay Sappers and Miners, China 1900". (Courtesy of: National Army Museum 5211-39-31 (23663) ), Ministry of Defence (UK); Wikimedia. File:No.2 Company, Bombay Sappers and Miners, China 1900.jpg", 16:33, 11 December 2008.
- ^. Beheaded Art. "Decapitation (21).".
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