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Red Fox

読まずにレッテル貼りをする人は出入り禁止

清朝時代の処刑写真を日本のものとして展示しているサイト

 中国の公開処刑に関して調べものをしていて、中国の斬首写真ばかりを集めて掲載している『Beheaded Art』というサイトに行き着いた。

 そのサイトのトップの解説文にはいささか捨て置けない事が書かれている。

BEHEADED ART
首のない芸術
BEHEADING

Beheaded Art is about public beheading. View more than 100 pictures and drawings of capital punishment by decapitation at Beheaded Art.

Beheadings in China or Japan (馘首) were often photo graphed by foreigners and this is where most of the execution photos available at Beheaded Art come from.

If you are offended by pictures of blood and death and decapitated (馘首) bodies – you might not enjoy this web site.


打ち首

『Beheaded Art』は公開斬首に関するものである。このサイトでは100点以上の断頭刑の写真と絵を見る事が出来る。

中国や日本の斬首 (馘首) はしばしば外国人によって撮影され、このサイトに掲載されている大半の写真がそこから来ている。

もしこれらの写真の血まみれの斬首 (馘首) 死体で気分が悪くなる方はご遠慮頂きたい。

 このサイトには106枚の写真と21枚の絵が掲載されており、その写真の大半が中国や日本の首切り写真であるとの説明だが、見たところそれらは全て携帯用カメラが商品化された19世紀末以降の、清朝末期から辛亥革命 (1911)、そして上海クーデター (1927) 時に中国で撮影されたとみられる写真であり、日本の斬首と見られるものは見当たらない。

 ところがこのうち2点3枚が日本の長崎で撮影されたと説明されており、そしてタイトル (説明文) に「Japanese」の単語を含む写真が以下の4点5枚。


註:本エントリーでは写真の検証のため清朝時代の斬首写真を掲載しているため、好ましくないと感じる方はご遠慮下さい。なお残虐写真に関してはモザイク処理を行っており、全ての写真はクリックで無修正版がオリジナルサイズで見られるように設定しています。

 『Beheaded Art』のトップページは「full details」と「thumbnails」の二つのモードがページ下部のメニューで切り替えられるようになっており、「full details」の方で説明文が表示されるようになっているが、ブラウザによっては写真を読み込まないケースがあります。その場合は「Full details」専用のURLがあるのでそちらで試してみて下さい。

 なお『Beheaded Art』の元サイトは本エントリー掲載の4点より更に残虐な写真も掲載されているため、訪問する方はご注意下さい。

追記 (2014.4.1):「Beheaded Art」の元サイトが仕様変更になり各写真のリンクが全体のページに繋がってしまうだけでなく、恐らく長期放置ページのためかページトップに猥褻写真が表示されるようになっています。当エントリーでは情報ソースの証拠としてリンクは残しますが、閲覧は自己責任でお願いします。


[『中国の処刑文化と支那事変』トップページに戻る]





写真1 (元サイトの写真51)
Decapitazione di ribelli Cinesi a Pekino, eseguita dai soldati Giapponesi
(Decapitation of the Chinese rebels, executed by the Japanese soldiers)

北京での中国人謀反人の斬首、日本兵によって処刑 (一行目イタリア語)
中国人謀反人の斬首、日本兵によって処刑 (括弧内の英訳)



清朝官帽 (吉祥満族) [A]

 これは絵葉書上に赤文字で書かれているイタリア語では「北京」と書かれているのに、その英訳では「北京」が抜け落ちているためにまるで日本国内での処刑と誤解されるような書き方になっている。
 しかしここに写っているのは刀を持った2名以外はチャイナ帽 (清朝官帽) の清兵や頭にターバンを巻いたインド兵。
 絵葉書上部には中国語でも「北京東洋人殺頭」と書いてあるので、これは漢字の読めないサイト主がイタリア語から訳し忘れたか、意図的に「北京」を取り除いたかのどちらかとなる。



写真2 (元サイトの写真70)
Japanese public Executions, Nagasaki Japan (1)

日本の公開処刑。長崎 (1)

写真3a (元サイトの写真71)
Japanese public Executions, Nagasaki Japan

日本の公開処刑。長崎 (2)


写真3b (元サイトの写真80)
Public execution, Nagasaki

公開処刑、長崎

 上記2点が日本の長崎での撮影と説明されているもの。しかしここにも清兵やインド兵が写っている。


写真4 (元サイトの写真93)
The first delinquent is beheaded while French (?) and Japanese soldiers are watching

フランス兵(?)と日本兵が見守る中、一人目の罪人が斬首される

 これは撮影場所や時代の記述はなし。『Beheaded Art』にはこの写真と同じ時に撮影されたとみられる連続写真数枚が掲載されており、それらの写真で確認出来るのは群衆と死刑執行人は弁髪やチャイナ帽をかぶった清国人、ヨーロッパ人らしき兵隊が処刑見物をしているのと、建物の窓が中華式の格子窓であるという事である。(連続写真に関しては本エントリー後半の写真の検証の項を参照)



諸条件から1900年の北京の北清事変における義和団の処刑写真と見られる


火縄銃を持つ清兵 (Seven Stars Trading Co.) [B]


広西辺境の清兵 (1900年頃) (昨日重現) [C]
 これだけの条件が揃えば近代大陸史を知っている人ならすぐにピンと来るはずだ。
 少なくとも写真1-3は1900年の北清事変 (義和団事件) で義和団鎮圧のために清国に派遣された大英帝国、アメリカ合衆国、帝政ロシア、フランス、ドイツ帝国、イタリア王国、オーストリア=ハンガリー帝国、大日本帝国からなる八ヶ国連合軍が、8月14日に北京を陥落させた後の義和団掃討作戦における残党処刑の際に撮影された写真であり、写真4は兵士の服装からその年の冬に連合軍占領下の北京で撮影されたものと推定される。

 連合軍による義和団の掃討作戦は1900年9月に集中的に行われ、義和団の残党は連合軍側に寝返った清朝側に処刑をされ、これらの写真のように清国の兵士の立ち会いのもとで連合軍の将校が処刑を行ったケースもあったようである。

 当時の清国では公開斬首処刑というものは普通に行われており、当時既に公開処刑が廃止されていた欧米の将校も清国の流儀に倣って処刑を行い、その一部に日本軍将校による処刑写真も存在しているというのがこれら上記の写真である。
 現存する義和団処刑写真の殆ど全ては写真4のように清国人執行人による刑執行であり、中国サイトなどでも多くの義和団処刑写真が掲載されているのを見る事が出来る。
 反日サイトなどを見るとこれらの処刑が何でもかんでも日本のせいにされているが、執行人や官憲の服装や髪型を見ればそれらが日本人でないのは一目瞭然というケースがかなりある。

 従って『Beheaded Art』に掲載されている写真1の絵葉書に「日本兵による処刑」と書かれているのは、これは史実的には間違いではないが、これが「北京で行われた」の部分が抜け落ち年代が書かれていないために、1900年当時の軍装と八ヶ国連合の歴史を知らない人が見た場合に、“有名な”南京と混同されかねない誤解を生じ易い展示になっている。


 この時代以降には、清国の処刑写真は欧米で絵葉書に印刷され広く出回り、辛亥革命時 (1911) や上海クーデター (1927) 辺りの処刑写真はダフ屋が外国人に売りつけたりなどして、当時中国に駐留した欧米軍の兵士が多数それらの写真を自国に持ち帰ったり、米国議会図書館の蔵書として保管されたりなど、そういう元々出所の不明な写真が近年はネットに広がっており、中国の反日サイト辺りではそれらが支那事変時の「日本兵による蛮行」の写真として掲載されるなど捏造のネタにもされている
 『Beheaded Art』は恐らく古物屋で見付けたそういった写真や絵葉書を、誰が書いたか分らない説明の真偽を確認せずにそのまま書き写しただけだろうと思われる。

 いずれにしても、これらの写真が日本国内で撮影されたものではないのは明らかであり、問題は特に「長崎で撮影」と表記されている写真2と3、そして日本撮影の写真が掲載されていないにもかかわらず日本が中国と同列に扱われているサイトトップ文である。

 このサイトに訂正要求を出そうかと検討中であるが、こういうクレームの場合第三者には「ナショナリズムに駆られた感情的なクレーム」との印象を持たれ易いため、学術的な根拠を提示するのが得策と思われる。



1900年、中国に駐留しているインド軍ポンペイ工兵隊第二中隊 (National Army Museum/Ministry of Defence, UK) [E]

 尤もこの調査は、非常に不鮮明な写真に写っている人物の特徴も掴みにくい状態から開始しており、取り合えず写真に写っている兵士の軍服の様式からその年代を正確に特定しようと考えた。
 それで、私が出入りしているミクシィコミュニティの国内在住の方に情報提供をお願いしたところ3人から協力があり、結果的には当初の目的とはまた別に興味深い内容の展開となった。

 今回の調査には、それぞれHNで貞子さん、ブログ『JPN Archinve 日本館』のHazamaさん、そしてポチョムキンさんのお三方にご協力頂いた。



1 貞子
サイトの持ち主は欧米人ですか。Artというタイトルには驚きますね。

指摘される写真は日本じゃないですよ。インド人などいなかったし、着ている服装、頭(おでこが異様に禿げ上がってる?帽子は中国文化)とんでもない写真だわ。当時の軍服、民間人の服装を調べないといけませんね。

普段から気になっていますが、旧日本軍が残酷だという風潮、今の日本人をよく見ていただきたいものです。もし、残酷であったのならその残酷な祖先のDNAを持っていることになり、残酷文化は今の時代にも反映されていると思うんですよね。どうでしょう、世界で日本人が犯罪者になっている確率は低いと思われますが。規律正しい民族だと思いますし、世界でもそう見られていると思いますね。

日本人とインド人の区別がつかないとは愚かなHPです。
2 redfox2667
貞子さん
「art」には「芸術」だけでなく「写真」とか「技」の意味もあるのですが、それに先行する「Beheaded」が動名詞でなく受動態形容詞であるため「斬首されたアート」の意味にしかならないので、直訳すれば「首のない芸術」ですが、『Beheaded Art』の英語には微妙にミスがあり調べてみたらこのサイトはドイツドメインのため、ドイツ語的には別な意味なのかもしれませんがその辺りはよく分りません。

インド人ですが、当時は英領インドなのでインド兵は英軍として駐留していたのではないかと思います。
それにしても、日本にインド軍や清国軍が駐留した事は歴史上一度もないのに、それがどうして長崎撮影になっているのか理解出来ません。

八ヶ国連合が掃討作戦で捕えた義和団員を、清国側としては八ヶ国連合の将校に儀礼的に処刑に立ち会わせたのではないかと思います。

明治33年の北清事変は、幕末戦争や明治の士族反乱の時代からそう遠くない時代で、日清戦争という初の国際戦争の5年後であるので、当時の軍人の処刑に対する認識というものはよく分りませんが、こういう公開斬首処刑は当時の清国では極めて普通の事であったため、これは日本だけの問題ではなく8ヶ国連合軍全体として清国の流儀に倣ったのではないかと思います。
3 redfox2667
ちなみに、八ヶ国連合での日本軍などの将校の写真はこれ。

紫禁城で写真に写っている軍高官

中国網. "High-ranking officers taking a photo in the Forbidden City" in China's Tragic Years, 1900-1901, Through a Foreign Lense, 2001.


白黒写真のせいもあってか、八ヶ国連合の司令官の集合写真を見るとどの国の軍服も同じように見えます。後列中央が日本軍司令官。左胸の記章が大量にあります。
連合軍は8月4日に北京攻撃を決定。これは軍司令官の天津出発前の最後の集合写真。

ibid. "The Allied Forces decided to attack Beijing on August 4. This is the last group photo of the commanders of the allied Forces before departing from Tianjin."
4 貞子
ひとつ貴重な写真を見つけました。
義和団事件に出兵した連合軍の兵士達
左からイギリス・アメリカ・ロシア・インド・ドイツ・フランス・オーストラリア・イタリア・日本

日本青年社. 日本の近・現代史の問題点~『第五章 日清戦争から日露戦争へ(1)』
インドも参加していたんですね。
5 redfox2667
貞子さん
やはりインド兵がいましたね。
各国軍の集合写真は、当時清国のどこの国の兵士が駐留していたかの根拠として示すには、これは一目瞭然で非常に分り易い例ですね。
各国とも下士官と士官クラス、季節によって服装は違うとは思うのですが、ご紹介の写真と以下の『Beheaded Art』の4番目の写真を比べた感じでは、ギャラリー左側の2人が日本兵というサイト主の表記は恐らく正しいのではないかとは思われます。フランスに関してはよく分りません。


中国のサイトにもう少し鮮明な写真がありました。

  英国  米国   ロシア   インド  ドイツ フランス オーストリア イタリア 日本
6 redfox2667
当時の海軍の軍服に関して、ウィキペディアの『軍服(大日本帝国海軍)』に随分詳しく書いてあるので、取り合えずこれが参考になりそうです。

海軍の軍服はホック留めから金のボタンになったのが1900年 (明治33年)、そして士官クラスの軍帽の周章の金線が黒毛になったのが1904年 (明治37年)、大型肩章が付いたのが1914年 (大正3年) で、刀を持っている人物の軍帽に金線があるなら義和団事件から日露戦争の間。

同ページに1900年の日本海軍の階級別の軍服の図解イラストが載っていて、これがかなり参考になりそうです。
八国連軍図、各国分別被称為日本、英国、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、米国
一は将官正服。二は参謀士官礼服。三は佐官礼服。四は筆記長礼服。五は尉官軍服。六は一等兵曹。七は少尉候補生。八は信号兵曹。九は兵曹長礼服。十は看護手。十一は機関士。十二は水兵。(明治33年(1900年)

Wikipedia. 『ファイル:BoxerTroops.jpg』. 投稿者:PHGCOM, 2007年10月23日.

『Beheaded Art』の写真1-3で刀を持っている人物はどれも左胸の記章が多いので士官クラスである事は確かです。

7 Hazama

とりあえず近くの図書館ですぐ参照できる資料としては、「日本の軍装―幕末から日露戦争 中西 立太」という本が確認できました。
他には、「日本近代軍服史」(1972年) (風俗文化史選書〈5 日本風俗史学会編)も取り寄せ可とのことでしたが、現在予約枠を使い切っているので、こちらは時間がかかりそうです。
8 redfox2667
Hazamaさん
ありがとうございます。『Beheaded Art』に映っている日本兵の軍服と全く同じ物が見つかれば年代特定が完全に出来るので(ネット上で見つかる日本軍の写真は年代や様式などの情報が不十分なものが大半で余り参考にならない)、そういったまとまった形でリストされている書籍資料が一番有力な情報を見付け易いのではないかと思います。

インド兵が写っている2枚に関してはこれは8カ国連合に間違いはないのですが、その他の写真におけるこの学生服のような軍服が全て義和団事件当時 (明治30年代) の日本軍の軍装だと確定すれば、非常に絞り込み易くなります。
9 ポチョムキン
とりあえず、軍装関連サイトです・・・。

 徳永古美堂(旧日本軍軍装品情報トップページ)
10 redfox2667
ポチョムキンさん
■徳永古美堂
ここの軍帽に映っている「陸軍中尉正帽」が近いように見えます (前立てを除いて)。


海軍か陸軍か

 北清事変にまず派遣されたのは5月31日の「愛宕」の海軍陸戦隊で、それから6月10日の「笠置」陸戦隊、そして7月6日~8月16日の陸軍第五師団となっているが、『Beheaded Art』に写っている日本軍将校等の軍服の特徴がこの時代の陸軍か海軍の軍装のいずれかと一致するものが見つかれば、服装からも年代が特定出来るという事になる。

11 貞子
あまりヒントになるかどうか分りませんが、少し調べました。

日露戦争

第三軍軍司令部将校 中央は乃木大将 
やけにヒゲが多いが明治には「ナマズ、ドジョウ」と裏で言われるくらいヒゲを蓄える軍人が多かった。 38/4/3
12 redfox2667
貞子さん
『「日露戦役回顧寫眞帖」にみる日露戦争』の下から2番目の写真、これは義和団事件の5年後の明治38年 (1905年) 撮影のものですが、『Beheaded Art』の日本兵の学生服風の軍服の写真ともデザインがかなり共通しています。当時の欧米列強の軍服ともデザインが似ているので、恐らくこれは当時のスタイルでしょうね。

ちなみに乃木大将の日露戦争第三軍は陸軍ですね。
13 redfox2667
以下は実際に義和団の乱に出征した日本海軍陸戦隊の写真。

義和団の乱への出兵時の陸戦隊の服装。明治33年(1900年)。

Wikipedia. 『ファイル:BoxerJapaneseMarines.jpg』. 投稿者:PHGCOM, 2006年7月1日.

この写真では処刑写真とは帽子は完全に違うし服装も違うように見えます。

14 ポチョムキン
1900年(明治33年)関連の時代からすると、以下の辺りが主でしょうか。 言葉を元に検索していけばさらに拾えるかもしれません。
軍服(大日本帝国陸軍)

明治19年制式
1886年7月6日に定められた。それまでのフランス型からドイツ型への大きな転換となった。第2種帽や軍衣の地質は、将校等は濃紺絨、下副官以下は紺絨であった。

明治26年制式
将校・准士官・下副官の、夏衣のみの改正で他の服装については改正はない。

明治26年正式注記:1900年(明治33年)に起きた北清事変では、白い軍服に代わってカーキ色の軍服が現地部隊に限って貸与された。

明治33年制式
明治33年9月8日に制定された「陸軍服制」(明治33年勅令第364号)に基くものである。従来の陸軍将校服制及び陸軍下士以下服制等が統合されて一つの勅令となった。

明治37年戦時服
日露戦争(1904年(明治37年)2月10日宣戦布告、1905年(明治38)9月1日休戦成立。)に際しては、戦時服が「戦時又ハ事変ノ際ニ於ケル陸軍服制ニ関スル件」(明治37年勅令第29号)、その後「陸軍戦時服服制」(明治38年勅令第196号)により定められた。

明治38年戦時服
「陸軍戦時服服制」(明治38年勅令第196号)では、45式軍衣に類似した服制が定められた。

明治39年制式
1906年(明治39年)4月12日、「陸軍戦時服服制」は「陸軍軍服服制」と改められた。
15 redfox2667
ポチョムキンさん
ウィキでの明治19年と26年の記述が気になりますね。写真は白黒で色は分りませんが明らかに暗い色のものなので、少なくとも白ではなく、紺色かカーキ色という事になります。
16 Hazama
参考になるかどうか分かりませんが、とりあえず海軍の軍帽の変遷。
海軍軍帽の変化 1870-1904 (明治3年-37年)
中西立太. 『日本の軍装―幕末から日露戦争』 (大日本絵画, 2006)

「日本の軍装」(中西立太)を見る限り、軍帽は海軍の帽子より陸軍の物に似ているような気がします。

それとも陸戦隊は通常の海軍の物とは別に、独自のコスチュームを着用していたのでしょうか? 本には幻の兵種海兵隊のコスチュームまで載っているのに、海軍陸戦隊の軍服が独立して記載されていません。
17 Hazama
1886年3月改正(歩兵)
鎮台歩兵二等卒軍衣 (陸軍)
これは、写真1[>>1]の奥に写っている兵隊の装備にかなり似てますか?
18 Hazama
1886年モデル 歩兵
明治19年制式第二種帽 (陸軍)
19 Hazama
1905年式 (歩兵) これは違いますね
明治38年式戦時服第2種帽 (陸軍)
20 Hazama
1875年モデル 歩兵(左)近衛歩兵大尉(右)
鎮台歩兵一等卒軍衣 (陸軍) 近衛歩兵大尉の略衣袴

これも違うような気がします。「日本の軍装」(中西立太)で見る限りでは、海軍に類似のユニフォームなし、1886年から1905年の間の陸軍のユニフォームに似ているとしか分かりませんでした。もう少し詳しい本を探してみます。
21 redfox2667
Hazamaさん
>>18番の陸軍第二種帽の例えば黄色であれば白黒では明るく写るはずですが、『Beheaded Art』に掲載されている写真の軍帽は全体的に暗い色で、生地より明るい色の細い線が見えるため、階級によって線の太さや数に違いがあるにせよ>>18番では階級を示す線は暗い色で描かれていて、帽子の特徴が一致しないように見えます。

ただ見た感じでは帽子を除けば>>17番が一番近く見えますね。

しかし写真上は白黒写真ながら、カーキ色よりもむしろ濃紺の軍服に見えます。ただ不鮮明な白黒写真上では帽子のラインが今ひとつ分かりにくいのが難点ではあります。
22 ポチョムキン
脚絆つけてる人と件の「よく似てる絵」の比較。
写真1
写真2
写真3
イラスト
写真は、1枚目から順に左から。最後に絵。
2枚目の人は不鮮明だけど、1枚目3枚目の人は良く似てますね。
違いは、襟に色が付いてない、帽子に色が付いてない。
23 redfox2667
写真1と一番右のイラストは腰に着けている物入れが似ていますね。それからよく見たら写真1と3は肩章が見えますが、イラストのように肩章と襟章が同じ色には見えないので、という事は襟章がなくて肩章があるという事になります。白黒写真で明るい色に見えるという事は赤ではなく黄色などですね。


帽子の検証

 上記の議論では『Beheaded Art』に写っているのは1886年 (明治19年) 式陸軍軍衣に一番近いという事になったが、唯一一致しないのが帽子であり、帽子に関する検証を行った。

24 ポチョムキン
帽子だけ抜き出すとこんな感じですかね?


こんな感じですか?
25 redfox2667
>>24の帽子のデザインですが、拡大写真の2-3人に線の存在が確認出来る以外は、その他の人物に関しては線の有無すらもこの画質ではよく分らないですね。ただ下士官クラス以下はもともと線がないので、それならそもそも見えないし、赤は白黒写真で撮ると黒く映るので、帽帯が赤ならこういう風に映るかもしれません。
それから帽章は八角形に見えますね。
線が2本かと見えるものでも、実は下側は帽子のつばが光っているだけなのかもしれません。
帽章が見えないものは横向きや後ろ向きにかぶっている可能性もあります。
26 Hazama
>それから帽章は八角形に見えますね。

歩兵(陸軍)の帽章は「星」。
中西立太. 『日本の軍装―幕末から日露戦争』 (大日本絵画, 2006)

>>18)にも見えるとおり、将官クラスでも「星」です。近衛部隊は少し凝ったデザインになっているようです。
27 Hazama
海軍の帽章

海軍の帽章は複雑なデザインを採用しています。不鮮明ではありますが、写真の帽子は「形は陸軍・帽章は陸軍らしくない」と言った印象でしょうか?
28 Hazama
1886年モデル
>>16の一覧には漏れていますが、一般の水兵はこのような帽子を被っていたようです。(写真)したがって(>>13)の写真は間違いなく、海軍(陸戦隊)のものですね。
29 redfox2667
Hazamaさん
特に『Beheaded Art』写真3[>>3]の写真で刀を持っている人物の帽章が分り易いですが、これが星形には見えないし、>>26番の近衛兵前章のように星が付いているようにも見えないですね。


『Beheaded Art』のその他の人物に関しては不鮮明過ぎて分りません。

海軍の帽子もいろいろな種類があるようですね。
30 ポチョムキン
陸軍中尉正帽(前立付)
徳永古美堂 (旧日本軍軍装品情報). 『陸軍中尉正帽(前立付)』

>>10で指摘されている、陸軍の前立付制帽が一番近い気がしますね・・・
このタイプはどうなんでしょう?
31 Hazama
ああ、そうですね。あれは、正帽用の帽章かもしれません。手元の資料ではハッキリしませんが、それらしい絵もあります。そうなると、ますます陸軍っぽくなってきましたね。

記念撮影用に正帽を被って行ったのかもしれません。なぜ前立だけ外しているのか、気になるところではありますが。

32 redfox2667
特にラインの感じとか私もこれが一番近いように思います。
前立が外されているのは、普段は外しているものなのか、それとも処刑立ち会いだから外したとか、何か理由はありそうですね。
33 貞子
白黒の写真は色が判明できませんが、光沢があって光って見える部分は>>30の写真で分るようにゴールドの線があったということは理解できますね。そして皮の部分も白黒では光沢がでますよ。
34 ポチョムキン
>>24の2枚目画像右下の物と同じと思われる画像を見つけました。

これも前立てがなければそっくりの様子ですが、この帽子の詳細は不明です。

YAHOOオークションに出ていた様子なので、この出品者に問い合わせると何かわかるかも知れません。

Yahoo! JAPAN ID:rnwcy623
出品者 : rnwcy623 (自己紹介)
評価 : 511 (評価の詳細)

★旧日本軍正帽 陸軍海軍NO2★
商品紹介 毎日の買出しで旧家の蔵にあった旧日本軍正帽です。古い品ですので傷み汚れ虫食い等ございます。
ご理解ください。ぜひ、この機会に資料・コレクション等にお求めになってはいかがでしょうか。
寸法約53cm 箱寸法20x26x15cm

35 ポチョムキン

あと、以下のサイトで

大2制 陸軍少将正帽

大城戸仁輔主計中将が少将時代に使用した大正2制の正帽。
形状は明治33年改正の第一種帽とさして変わりはないが細部が微妙に改正された。

以前からの単行法令をまとめて明治45年2月24日勅令第10号で統一し、名称も正帽へと改められた。
眼庇の裏を黒革にし、顎紐の幅を2厘広くして3分7厘、顎紐止め釦の大きさも直径を5厘増やして3分5厘とした。
さらに大正2年、一層クラウンが大きくなり、周囲にはみ出した形となった。

帽頂の星は、相当官なれど将官は金色。
一般の将校相当官以下は、銀色である。

ミリタリー・アンティーク・ヴァーキング. 『大2制 陸軍少将正帽』

とあり、明治33年以前の物は「第一種帽」と呼ばれていた様子です。

「第一種帽」でググった所、

陸軍大尉(兵科)の第一種帽で、正装時に着用。礼装時には前立を取り外す。

大日本帝國陸海軍史料館. 『陸軍大尉第一種帽』, 2001年10月5日
との一文を発見。
36 redfox2667
>>34
これはそうですね。帽章が>>27の海軍帽章ではなく圧倒的にこちらが近く見えます。>>24の拡大写真をよく見たら、人によってかぶっている帽子の形状や線の感じが微妙に違うようにも見えるので、これは一種類ではないかもしれないですね。

オークション出品者の方でも数代後の子孫なら、そこまで詳細は知らないかもしれません。知っているとすれば、そのご先祖様がいつの戦争に出征したか位かもしれないし。
37 ポチョムキン
帽子ですが、思いますに、大まかに「2種類」ある感じがしますね。
>>30のタイプと>>34のタイプが。

30のタイプには帽章の有る無しがある様子なのと、
34のタイプは、1つだけのようですね。

あと、「第一種帽」ですが、一般的には「正帽」と呼ばれている様で、「正帽」と書かれていても実際は時代の古いものである可能性も有るかと思います。
38 Hazama
私も帽章は陸軍の正帽用の物ではないかと思います。「日本の軍装」は図書館に返してしまったのですが、1886年以前のモデル(帽子)にも、1886年モデル(ただし本に載っていたのは騎兵隊用の正帽)にも、あの帽章が描かれていました。

基本的に普段の帽子(戦闘帽?)と正帽とは、帽子の形は大体同じで、頭頂部の「星」と帽章のみ違っているということでしょうか?(あと線と前立)。騎兵隊はそんな感じだったような気がします。(本返すんじゃなかった)ならば、問題の正帽も1886年モデルかなっと思うのですが・・・。

「日本近代軍服史」は結局横浜の図書館には蔵書がないとのこと。「日本海軍軍装図鑑」にはそれらしい帽子はありませんでした。

>>陸軍大尉(兵科)の第一種帽で、正装時に着用。礼装時には前立を取り外す。
>との一文を発見。

ポチョムキンさん、よく見つけましたね。写真を撮るので、一張羅を着て行ったわけですね(笑)
39 ポチョムキン
第一種帽で探しているうちに不意に目に入りました。
運が良かったです(笑

一張羅については、日本人として自分がその立場であった時を思いますにですね。

死刑執行、またはその立会いともなればですね。
やはり、身に着けるものはソレらしい物を用意したい気に成ります。
写真を撮るというのもあるかもしれませんが、儀礼的に。


実際はしらないですが・・・。
40 redfox2667
>>38
Hazamaさん
どうもお疲れ様でした。どうやっても明治後半の日本の陸軍の服装という事であれば、もうこれは北清か日露戦争しかない訳で、インド人と清国人が映っているので北清に完全に絞られます。『Beheaded Art』へ「これが長崎でない」が提示出来る根拠としては十分揃いましたね。
41 redfox2667
>>39
ポチョムキンさん
写真の歴史を見ると、銀盤撮影の時代から1888年に初めてロール式フイルムが登場して、北清事変の翌年の1901年のコダックのブラウニーで普及したという事ですが、北清事変の当時はかなり高額な物であった筈であり、清国への駐屯軍が当時のボックス型の大がかりなカメラを刑場に持ち込んで撮影したというのは、当時としてはかなり大袈裟なシチュエーションに思えますね。
1890年代のカメラ。

でも返り血を浴びる斬首処刑に一張羅というのも不思議な話ですね。戊辰戦争30年後の当時の軍人の価値観はよく分りませんが、義和団4000人の掃討の後の記念写真は勝利の証だったのでしょうか。

 劣悪な条件でプリントされたり、絵葉書に印刷されたりなどもともと不鮮明な写真で更にウェブサイトの72dpiの解像度という、細部を判別するのに困難を極める条件ながら、結局のところ、これらの処刑写真の日本兵は、陸軍の明治19年 (1886) 制式 (明治19-38年/1886-1905) の軍服に、陸軍の第一種帽 (正帽) の礼装スタイルだろうという結論に取り合えず落ち着いた。

 そうすると軍装の特徴から時代的に当て嵌まるのが日清戦争 (1894-95) か北清事変 (1900) となり、インド兵の存在、それから処刑に清兵が立ち会っている点から、写真1-3は100%北清事変時の撮影、そしてフランス兵と日本兵が立ち会い清朝執行人が処刑をしている写真4はその年の冬の北京での撮影と結論を出していいと思う。


 この『Beheaded Art』が一体どういう主旨で残虐写真ばかりを集めたサイトを作っているのか分らないが、同サイトの「リンクページ」には、「斬首の歴史」のような学術的アプローチもあるものの、その他には「死刑執行人のインタビュー」「アラブの死刑写真」そして、サイト主が制作したというイスラムの投石死刑のビデオが掲載されているなど、これは紛れも無く死刑マニアだと思われるが、この3年ほど更新がないサイトなので、メールを出してみたところで管理人がチェックをするかどうかは微妙な感じではある。


 今回は『Beheaded Art』自体よりもむしろ調査を楽しんだような展開になったが、こうやって複数の人が情報を出し合う共同調査というものもまたいいものである。
 貞子さん、Hazamaさん、ポチョムキンさんのご協力に感謝を申し上げたい。






『Beheaded Art』掲載の写真は本物か?

 議論の過程で貞子さんからこれらが合成写真の可能性もあるとの指摘があり、実際写真そのものの真偽を疑い出せばその検証というものも必要となって来るが、特に写真1は絵葉書に印刷されたもので写真だか絵だか分らない画質である点、そして写真2に関しては非常に不鮮明で劣悪な状態の写真であり、これが「合成ではない」と説明するのは非常に困難である。

 こういう場合に一つの目安となる方法は、ネット上にこれらの同一写真が別なソースでどれだけ存在するかという事と、そしてこれらの写真とは別ルートでプリントされたと見られるものが他にどれだけ存在するか、同一写真で写っている範囲の広いもの、そしてこれらよりも画質の鮮明な写真が存在して、それら全てが全く同内容である場合に、その信憑性は高くなるという、こういう事も根拠の一部とはなる。

 ただし、仮にこれらが合成写真であったとしても、インド兵と清兵と共同で処刑を行っているという時点で日本の長崎で撮影されたという根拠が成立しなくなるので、写真が偽物であった場合もそれがこれらの写真が長崎で撮影された事を肯定する根拠にはならないため、いずれにしてもこちらの主張に関して不利な要素とはならないものである。


写真1


Decapitazione di ribelli Cinesi a Pekino, eseguita dai soldati Giapponesi (Decapitation of the Chinese rebels, executed by the Japanese soldiers)
北京での中国人謀反人の斬首、日本兵によって処刑 (一行目イタリア語)
中国人謀反人の斬首、日本兵によって処刑 (括弧内の英訳)

以下ネット上で見つかる同一写真。写真上の説明は中国語からの訳。
八ヶ国連合軍は北京郊外で義和団員を捕えその場で処刑した

『八国連軍四出伐剿捕殺京郊義和団員』. 中国青年網, 2004-11-24 16:02:40
  北京の斉化門 (現朝陽門) の外で殺戮する八ヶ国連合軍
「斉化門外連軍之殺義和団」(写真右端に書かれている説明)
「八国連軍在北京齊化門(今朝陽門)外屠」網易. 『1900年8月14日 八国連軍向北京発起総攻』.

 さてこれは相当劣悪な画質であり、これを単独で見たのではこれが合成だかそうでないかを判別するのは不可能。しかし絵葉書と比べると被写体の人物が全く同一。刀を除いて。

 このネットで見つかった写真の方は、刀を振りかざしている日本兵の手の向きに対して刀の角度が不自然であり、絵葉書の方が写真が鮮明で、ネットで見つかった写真は建物の左側の壁や屋根が写っていないなど、一体何がどうなってこの絵葉書と写真の内容に違いが生じているのか全く不明である。
 それから被写体の人物が全員がカメラの方を向いているという非常に写真を意識した不自然な作りになっている。
 ひょっとするとこれはあくまでも撮影用のポーズであって、撮影時に日本刀はそもそも持っていなかったのが、後から手修正された写真にも見える。

 いずれにしても中国のサイトでもこれが義和団の処刑写真と紹介されている。

追記 (2009.9.30):
 コメント欄でぐい呑みさんからの指摘で、この刀を構えている人物が左に鞘をつけ右足を出しているのなら、左右の手のポジションが剣術のルールとは逆であるとの指摘があった。

 確かにその通りであり、これは恐らく左手が右手よりも低い位置にあるとこの人物の顔が腕に隠れてしまうために逆のフォームにさせられたという事ではないかと思われるが、修正の形跡も確認出来る事と合わせれば、これは完全に撮影用に演出された写真と見られる。


写真2


Japanese public Executions, Nagasaki Japan (1)
日本の公開処刑。長崎 (1)

写真2でネット上で見つかったのは以下。
1900年、八ヶ国連合軍が中国に侵入した時、上海の日本軍が義和団メンバーの虐殺に関わった。

Century China. "The Japanese Crimes Against Humanity must be exposed".

日本兵による中国の「義和団」の処刑。撮影:カール・ルイス No. 136-0 (写真上の英語の訳)
連合軍が義和団員を殺害。執行は日本軍刀を手に持った日本軍の士官 (掲載サイトの中国語の訳)

博宝網. 『連軍殺害義和団員、劊子手是手持日本軍刀的日本軍官』, 2008-10-24 11:54:24.

 Century Chinaの方は色調がもう少し細かく出ている写真で若干は状態は良いものであるが、とにかく解像度的には余り良好でない点では同じなので、これが合成なのかそうでないかは全く判別は出来ない。

 博宝網の着色写真の方は左右が逆であったため反転処理してある。サイズは小さいながらもより鮮明な写真だ。

 これらの画質で見ると、日本兵、死刑立会人、清兵で数人、写真3と同じ人物がいる事が確認出来るため、写真2と3が同じ時に撮影された事が分る。

 一方、「Century China」掲載の写真に修正または合成の痕跡が見られ、まず剣を構えている人物の右手の位置が微妙に違う事、右足の位置が完全に違う事、鞘の位置が完全に違う事、そして目隠しをされている左側の人物の顔の向きが違うなどの点が見られるが、その他が完全に同一であるため、いずれかが修正写真となる。

 ちなみにCentury Chinaの写真は中国語の本から取り込まれたように見えるが、このウェブサイト自体は日清戦争や北清事変を全て日本による大虐殺と言っているただの反日サイトで、写真に付いている文章も「上海の日本軍」という根拠不明の説明が付けられているが、この写真の後方ではインド兵と清兵が列を作り、左側の死刑立会人がやはりチャイナ帽をかぶった清国人であるため、日本軍のみを殊更に目の敵にするために提示する写真ならこれは全く意味がないものである。

 いずれにしてもこの反日サイトでもこれを「中国での撮影」と説明しているので、長崎撮影は否定される。


写真3

この写真は、『中国の世紀』(ジョナサンスペンス著、大月書店)に鮮明な写真が掲載されているとの事。

Public Executions, Nagasaki
公開処刑。長崎

『中国網』の英語ページに『Beheaded Art』の写真3と同一のものが「北京の安定門の外での日本軍による処刑」と書かれて掲載されている。
日本軍のコントロール下になった北京の安定門の外で日本軍が中国人を処刑するために刑場をセットアップした。

中国網. "The Japanese troops set up execution ground for killing Chinese outside the gate of Andingmen, which was under its control." in China's Tragic Years, 1900-1901, Through a Foreign Lense, 2001.

『漢唐論壇』より。
日本軍は清国政府の巡査協力の下、安定門外で捕獲した義和団員を斬殺した。

日軍在清政府的巡捕的協助下,在安定門外斬殺捕獲的義和団員。漢唐論壇. 『歴史上的今天』, 2008-9-2 19:42:00.

写真3でネット上で見つかるものでは、flickrにアップされている写真が見たところ一番色調が鮮明。これは英語表記で「China. Boxer Rebellion」(中国、義和団事件) と説明されているので証拠として使えそうである。
中国、義和団事件、囚人の処刑 (P・ハンコック夫人提供)
「義和団の処刑」

mxsu. "CHINA. BOXER REBELLION. EXECUTION OF PRISONERS. (DONATED BY MRS P. HANCOCK).". flickr, October 22, 2007

ディテール的にはこれが更に鮮明な写真。
北京東便門の外の日本軍部隊が義和団団員を虐殺。

天下第一彎月刀. 『日軍部隊在北京東便門外屠殺義和團團民』. 鳳凰網, 2009-6-16 06:48

 この写真3は中国サイトで検索しても大量に見つかり、見た限りではその全てで「義和団の処刑」と説明されているので、これが一番根拠が大量に存在するものである。
 それにしてもこれらの中国サイトでは「日本軍部隊が義和団を虐殺」と説明しているが、「日本軍部隊」と言ってもこの写真の被写体9人の人物のうち6人は清国人だという事を一体どう考えているのか、全くこの連中は呆れたものである。

 それから、彼等は「日本軍が義和団を殺戮した」と殊更に騒ぎ立てるが、実際に義和団の掃討作戦を中心になって行ったのはドイツ軍である。
 実際、日本軍将校による義和団処刑写真は中国語と英語サイトで捜したところ、写真1-3の3点の他もう1点の4点しか存在が確認出来ない。

 従って、中国のサイトですらもここまで何も見つからないという事は、これは「清朝の役人が連合軍の将校に義和団捕虜処刑に参加させた事があり、日本軍将校がそこに参加した事があるという、そういう例があった」という以上の何物でもないというレベルの話であると、そういう事になる。

 いずれにしても北清事変とは、アヘン戦争後の清国におけるキリスト教勢力を排除しようとした義和団に包囲された外国人や清国人クリスチャンが北京で籠城状態となった事件であり、八ヶ国軍の派遣は欧米列強が自国民を守るためのものであった。
 そして最終的に戦況不利になった清朝が連合軍側に寝返ったという、これを「日本の侵略」と定義するのはかなりお門違いであり、この連中は結局のところ中華思想と白人コンプレックスから、欧米列強の進出を許した自国の屈辱の歴史のはけ口をすべて日本に向けているだけの話なのである。



写真4

 一方で写真4のような清朝の執行人による斬首写真はネット上にも大量に存在する。


The first delinquent is beheaded while French (?) and Japanese soldiers are watching
フランス兵(?)と日本兵が見守る中、最初の罪人が斬首される


 これが清国の死刑執行写真であるというのは、『Beheaded Art』に掲載されている以下の連続写真を見れば明らか (クリックで実サイズ表示) である。『Beheaded Art』のURLでは上記の写真はこの連続写真の4番目として整理されている。


Executioner and soldiers go towards the execution place.
1. 執行人と兵士が処刑場に向かう。

The delinquent is blindfolded.
2. 罪人は目隠しをされている。

Another delinquent is blindfolded.
3. もう一人の罪人も目隠しをされている。

Another shot of the first delinquent being beheaded.
5. 一人目の罪人の斬首のもう一枚。

The second delinquent is beheaded right next to the first one.
6. 二人目の罪人は一人目のすぐ横で斬首される。

 これらは『Beheaded Art』のサイト上で出典も、撮影場所や年代の表記もないために、これらの写真の関連は示されていないが、それが確認出来る要素は、建物が同一である事、フランス兵が同一グループである事、そして死刑執行人が全て同じ人物である等の点である。

 写真1を見ると死刑執行人と共に日本兵が入場している点、写真2と3に写っている清兵が官帽 (縁が折り返され上を向いているもの) をかぶっている点、そして写真3には別な国の兵隊も写っている事から、日本兵とフランス兵は見物していたのではなく、死刑を執行する官憲の清朝側として、連合軍を代表した死刑立会人として同席していたものと見られる。


斬首死体と記念写真を撮る米兵。清国。(グロ写真のためモザイク処理。クリックで無修正) (Beheaded Art) [F]

 そもそもハーグ陸戦条約が採択されたのが1899年であり、ジュネーブ条約「俘虜の待遇に関する条約」は1929年、掃討作戦に従事した連合軍兵士が敵の処刑に立ち会うというのは、当時の欧米や日本の軍人の常識で当たり前の話であったのかどうかは分らないが、斬首死体の側で記念写真を撮影する欧米軍兵士の写真などもあり、少なくとも欧米人の目には斬首死体を道路に陳列する当時の清国は東洋の野蛮な国として物珍しく映っていたであろう事は、これらの処刑写真が当時絵葉書として出回っていた事がそれを物語っている。

 また同じ時期の米比戦争 (1899-1913) では米軍が相当数のフィリピン人を殺害しており、ヨーロッパでは人権が言われ公開処刑が廃止になっていた時代に、一方では非白人に対しては彼等の人権意識の全く範疇外だった人種蔑視の時代のこういう写真などを見ると、当時の日本が欧米側として八ヶ国連合軍に参加したのも、この時代に世界における日本の地位の向上を画策したものであるとそのように思える。


 いずれにしても、「フランス兵(?)と日本兵が見守る中、最初の罪人が斬首される」という表記に間違いはないので、これは除外となる。




日本の斬首写真

あともう一つの問題は、『Beheaded Art』のトップ文に書かれた以下の文。

中国や日本の斬首 (馘首) はしばしば外国人によって撮影され、このサイトに掲載されている大半の写真がそこから来ている。

 日本の斬首がしばしば外国人によって撮影されたのかといえば、数は少ないにせよ日本の晒し首や磔の写真は存在はする。

 公開斬首処刑写真で中国で撮影されたものが圧倒的に多いのは、その撮影年代が1890年代後半から1920年代くらいにかけてのものであり、乾板やロールフイルム方式という撮影の手軽さが飛躍的に向上し携帯用カメラが普及した時代に至っても中国では公開斬首処刑が普通に行われ、当時欧米列強が中国に進出していたために外国人が多数在住していたという背景がある。


明治4年、神奈川の殺人事件犯人の晒し首の写真。スチルフリード撮影。 (長崎大学付属図書館) [D]

 それに対して日本の処刑写真が非常に希少であるのは、幕末10年前の1858年までは日本は鎖国されていて、明治初期には公開処刑は禁止されたため、撮影可能だった年代が非常に限られている点がまず挙げられる。
 また中国の写真よりも時代的に古く、1860年代当時の湿式コロジオン法という露光時間数秒~10数秒を必要とし準備に手間のかかる撮影法ではそうそう手軽に撮影出来る時代ではなかったという背景もあるかと思われる。

 それでも捜せば、幕末から明治初期にかけての重罪人の晒し首、明治初期の士族反乱時の江藤新平の晒し首の写真などを見つける事は出来る。(クリック注意)

 しかし日本の場合は、中国のように黒山の人だかりの群衆の前での斬首刑のような写真は一切存在しない。
 その代わり存在するのは晒し首や磔という処刑後の写真ばかりであり、この辺りの違いは恐らく時代的な古さから動きの速い被写体の撮影が不可能だった技術的問題なのか、処刑そのものは公開されてなく撮影が許可されていなかった等の事情と思われる。

 従って『Beheaded Art』トップ文の「日本の斬首が外国人によって撮影された」の記述は間違いとはならないが、もともと「日本」と表記されていたのは106点の写真うちのたった2点のみであり、実際は日本の写真が一枚も展示されていなかったこのサイトに「このサイトに掲載されている大半の写真がそこから来ている」との説明は不適切という事になる。




支那事変関連エントリー:
歴史から消された広安門事件と廊坊事件 (2007.7.11)
清瀬一郎:東京裁判冒頭陳述 (2007.7.19)
南京事件考 (2007.8.7)
東條英機元首相 公的遺書 全文 (2007.8.14)
英語・中国語版Wikipediaにおける大山事件と第二次上海事変の記述 (2007.8.18)
中国の死刑写真とBBC『南京大虐殺』の酷似 (2007.10.28)
上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (2007.11.4)
日本人捕虜の残虐処刑写真に関する中国人の議論 (2007.11.9)
猟奇的な大山中尉殺害事件 (2007.11.14)
通州虐殺の惨状を語る 生き残り邦人現地座談会 (2009.3.20)

[『中国の処刑文化と支那事変』トップページに戻る]




写真:

  1. ^ 「清代官帽」. 中国少数民族---吉祥満族. 『特色服飾』. 中国網.
  2. ^ "Qing Bannerman armed with Matchlock Musket" Seven Stars Trading Co. "Historical Illustrations of the Qing Military".
  3. ^ 「広西辺境的清兵」. 昨日重現. 『清末舊軍及換裝前的新軍-清末,軍隊,新軍』, 2007-3-16.
  4. ^ 『「壬申(明治4年)三月」の高札の年次が読めるが、これは神奈川裁判所が管内で起こった薬物を用いた殺人事件の犯人を晒首の情景である。この1枚は1876(明治6)年にスティルフリードが刊行したアルバムのなかに収載されている。』 (幕末・明治日本古写真メタデータ・データベース. 『晒首(1)』. 長崎大学附属図書館)
  5. ^. We Were There. "No.2 Company, Bombay Sappers and Miners, China 1900". (Courtesy of: National Army Museum 5211-39-31 (23663) ), Ministry of Defence (UK); Wikimedia. File:No.2 Company, Bombay Sappers and Miners, China 1900.jpg", 16:33, 11 December 2008.
  6. ^. Beheaded Art. "Decapitation (21).".


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はてなブックマーク - 清朝時代の処刑写真を日本のものとして展示しているサイト

コメント

>「ナショナリズムに駆られた感情的なクレーム」との印象を持たれ易いため、学術的な根拠を提示するのが得策ではあります。

学術的根拠を示して、サイト主が素直に受け取るかどうか気になるところです。サイト主の人間性次第といったところでしょう。黙殺してくるか、耳を傾けるか。私が時々覗いているある保守系アメリカ人のサイトでは、違う意見の持ち主に対しても丁寧な「礼状」メールが届きます。「私の考えは○○だが、情報をありがとう」といった調子で・・・。続報があれば、ぜひ新エントリーで教えてください。

PS 「コメント」「コメントの投稿」「トラックバック」のセクションが正常に表示されないようなのですが、私だけでしょうか?(IEの最新バージョン)

  • 2009/09/27(日) 08:01:12 |
  • URL |
  • Hazama #-
  • [ 編集]

Hazamaさん

『Beheaded Art』はメールフォームやメーリングリストを用意して、更に画像はパブリッククドメインであるために転載自由だとか、もっと大型サイズの画像が欲しい人は連絡をするようにと書いてあるので、外部との繋がりを遮断しているサイトではないので、そういう点では交渉可能の線は期待出来るのではないかとは思いますが、問題はどのようにアプローチするかですね。

このサイトは出典を一切示していないので、これは学術的使用の条件と信頼性を満たさないものであり、つまりこのサイト主は学術的なアプローチにはこだわっていない相手であり、単なる東洋の珍しい写真のコレクションくらいの話かもしれないとも思います。

つまり、こういう場合は学術的なアプローチを余り前面に出して長々と書くと却って相手が理解しない事にもなりかねないので、まず簡潔な指摘にしようかと思っています。
そもそも義和団掃討の第一の当事国であるドイツ人の斬首マニアが八ヶ国連合を知らなかったというケースであれば、学術的なアプローチなど何の役にも立たないので (笑)

いずれにしても、『Beheaded Art』がドイツのドメインでISPが「Host Europe GmbH」という事は分っているので、最悪の場合はこちらに苦情を出す手段はあるのですが、そういう面倒臭い事に出来ればしたくはないですから (笑)

取り合えずクレーム文の草稿はコミュニティの方にアップして皆さんの意見をお伺いしようかとは思っています。

表示に関してですが、レイアウトCSSの修正を行ってみました。如何でしょうか?

  • 2009/09/27(日) 16:12:39 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

「あっそ、でもそこは興味ねーよ」
・・・で終わりそうですね。(笑)
死体にしか興味ない奴ですから。

  • 2009/09/28(月) 11:30:41 |
  • URL |
  • bao #uP0j07LY
  • [ 編集]

baoさん

実際、このサイトのリンクページには「History of Beheading」という、学術的な研究サイトのリンクがされていたので、現在も斬首刑がある一部アラブを除いて、斬首刑の写真資料が大量に存在するのが中国であるという、そういう主旨で開いているサイトではないかという印象はあります。
ただし写真の出典もなければ説明内容の根拠が示されていないため、学術的というにはお粗末過ぎる展示方法なので、判断に困っているところです。

「History of Beheading」はリンク切れになっていますが、以前見た時にはあったので、記憶を頼りにすればその移転先は恐らくこれ。
http://www.capitalpunishmentuk.org/behead.html

単に死体に興味があるなら別に斬首だけにこだわらなくてもいいとは思うんですが、斬首フェチという人も世の中にはいるかもしれませんが、よく分りません (笑)

  • 2009/09/28(月) 16:33:44 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

文太さん、こんばんは。

「これが証拠だ!」と提示され、その嘘が暴かれた写真は南京関連で多くありますが、「正直、究明作業はメチャクチャ楽しかったに違いない」と思ってきました。今回、その一端を垣間見たような気がします。
共同による究明作業の楽しさが伝わるエントリーでした。

「長崎での写真」に清兵やインド兵が移っているという件のサイトですが、私が最も衝撃を受けたのは写真1です。斬首にかかるおっさんが異常過ぎます。

1.柄上の握り、左手が先、右手が後。
2.鞘は左の腰に。
3.右足が前。

の3点が特徴的なのですが、これ、とても変な事なんです。

左腰の鞘から抜刀する時に使う手は右手で、後に柄頭(柄のお尻の事です)に左手が来ます。結果、右手が先、左手が後に必ずなります。
やってみると解るのですが、左腰の鞘から左手で抜刀するのは無駄に至難の業ですし、剣先が自分の腹に向いて大変危険です。抜刀前ならともかく、抜刀後にガチャガチャと左右の手を持ち替えるという事も、二度手間なので絶対にありません。それなら右腰に帯剣した方が余程合理的です。
ですから、1.と2.は相容れる事はありません。

次に足ですが、右手が握りの先ならば足も右が先、左手が先ならば足も左が先という、絶対法則があります。
これもやってみると解るのですが、手と足の前後が揃っていないと振り下ろした時に体に捻じれが生じる為、剣先がぶれて打突の正確性が失われます。同時に、捻じれの分だけ体が伸びず攻撃の範囲が狭まってしまいます。
ですから、1.と3.は同居出来ません。

日本刀による斬首という行為が日常的な人物であるならば絶対に犯さないミスです。
このおっさんが一種のイベントである写真撮影に浮かれて出張ってきた士官だとしても、構えがサマになっているか、心得のある人間に確認ぐらいするでしょう。出張る程の虚栄心の持ち主なら、同時に嘘がバレないよう用心するのが常です。

「ネット上で見つかる同一写真」では刀身も鞘もありませんし、仰る通り、
>撮影時に日本刀はそもそも持っていなかったのが、後から手修正された写真
か、或いは「なんちゃって日本人」ではないかと思います。

  • 2009/09/29(火) 02:50:20 |
  • URL |
  • ぐい呑み #-
  • [ 編集]

ぐい呑みさん

刀の話題だけに、最初にぐい呑みさんに相談して置けば良かったですね。

言われてみれば、鞘が左で右足が前なら、手がこの向きにはならない筈ですね。剣道を中学か高校の授業で多少でもやった事がある人なら、手の位置が逆だというのは構えてみれば分ると思います。

それなら正規の持ち方だとどうなるかと言うと、日本将校の顔が左腕に隠れて見えなくなるので、カメラマンに手の位置を変えさせられたとかでしょうか。
そもそも今から首を切り落とすという緊張感のある体勢というより、頭上で手を構えたまま静止しているように見えるので、これは撮影用の演出でしょうね。

もしこの妙な構えを何とも思わないのであれば、明治33年の日本陸軍がここまで剣道の心得がないのかどうかという問題になりますが、そうしたらこの将校が自ら断頭処刑など出来る技術の持ち主でないという事になり、この写真に限らず同じ時に撮影されたと見られる写真1-3の全てがヤラセという大変な事になってしまいます (笑)

刀身も鞘もないというぐい呑みさんの指摘で気が付いて見付けた事ですが、写真2でも二枚で一番右にいる日本人将校の鞘の位置が違うという同じ事が起こっています。
更にこの人物の右手の位置が微妙に違って、右足が全く違い、手前で縛られている左側の人物の顔の向きが違っているという妙な事になっています。

これは一体どういう修正写真なのかという話です。
一枚目も恐らく修正写真でしょう。

  • 2009/09/29(火) 15:13:54 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

お疲れ様です

大量の資料を漁って調べられたようで、本当にお疲れ様でした。
中国共産党はあの手この手で丁稚上げをしてきますね。
これこそ政府が切捨てて置くべき事でしょう。

  • 2009/10/02(金) 19:09:20 |
  • URL |
  • 松崎 #ch2f7abI
  • [ 編集]

松崎さん

まあ、今回は資料を調べる過程を楽しんだような展開になったので、それをそのままエントリーにしたようなものです (笑)

中国の政府系サイトの歴史紹介ページ等では日本が悪魔として書かれているのが普通なのは言うまでもありませんが、個人サイトで何でもかんでも日本が悪魔の侵略者で絶対悪と言いたいがために、清兵が義和団を処刑している写真を持って来てそれを日本のせいにしたりなど、やっている本人が真面目に信じているのだか印象操作なのだか分りませんが、そういう明らかな捏造が中国のネットには非常に多いのはこれは以前からよく目にしていました。

義和団事件の当時は西洋人排除の風潮であったのにかかわらず、それに対して派兵された八ヶ国連合に対して現在の彼等は日本だけを目の敵にしますが、これは共産党の問題だけでなく、そもそも国民レベルでの中国人特有の非論理的な思考回路と中華思想から来ているというのは調べれば調べるほど実感しますね。

  • 2009/10/03(土) 20:40:26 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

北清事変当時の軍刀

日本軍の軍装は明治以来サーベルを採用してをり、日本刀が復活するのは昭和十年頃と聞きました。北清事変当時はサーベルの可能性が高いのでは?いづれにしても実際に斬首するのはかなり難しいでせうけど。写真1は、かなりサーベルくさいと思ふのですがいかが。

あと余談ですが、北清事変を描いたニコラス・レイ監督の『北京の55日』では、チャールトン・ヘストン演ずる米国海兵隊員らは、(よく鬼軍曹がかぶつてゐる)キャンペーン・ハットではなく、西部劇の合衆国騎兵隊と同様カウボーイハットに似た帽子を被つてゐましたが、あれは本当だつたのですネ。

  • 2009/10/08(木) 18:07:33 |
  • URL |
  • 少年グザイ #klq26XPE
  • [ 編集]

少年グザイさん

何方に御質問か解らない以上、出張るようで気恥ずかしいのですが、参考までに。

北清事変当時に限らず、日本刀の帯刀自体がそもそも一般的ではなく、士官各自の持ち込みによる物であった事はよく知られていますね。仰る通り、儀礼的な意味合いの強かったサーベルでの斬首は、相当に眉唾であるといえます。そもそも「斬る」という行為は、確実な殺害にはそれ程向いてはいないのですから。突き刺す方が余程確実です。それ故、特化した切れ味が必要な訳で。

写真1の場合、刀身や鞘が写っていない別写真が存在している訳で、意図的な修正・描き足しが考えられます。それ故、画像から刀種を鑑定する事は不可能かと。そもそも「ない」のかもしれないのですから。

ですが、その上で写真1にツッコミを入れますと、刀種がサーベルである可能性はやはり低いと思われます。

と申します根拠は、刀身ではなく鍔にあります。
よくみられる日本刀の鍔と異なり、サーベルの場合、柄頭から手の甲を覆うようになっている、手甲型ともいえる鍔を採用しています。これは手の甲を守る目的は勿論、簡易メリケンサックにも成り得るなかなかの機能を持っており、椀状や帯状の違いはありますが、ともかく手甲となる部分は「手の外側」になくてはなりません。
件の刀の鍔はどうか。
左手に隠れてこちらからでは見えません。であるならば、この刀は「手の内側を守る」という意味不明の鍔を持つサーベルという事になってしまいます。
左手の甲を黒い筋が走っているようにも見えますが、では、これが手甲部なのか。
否。それならば、鍔本体部が親指や人差し指の付け根付近を完全に覆っている筈。写真1では左手の甲が丸出しですね。

愚見を綴ってしまいましたが、「単純に、形と使い方がヘン」というのも、こういう写真の楽しみ方の一つでありますw

愚見ついでにもう一つ。鞘が真っ直ぐすぎる。
「やるならしっかり修正せい!」と言いたくなります。

  • 2009/10/09(金) 00:38:55 |
  • URL |
  • ぐい呑み #-
  • [ 編集]

>ぐい呑み様

早速の御教示ありがたうございます。ご迷惑ついでに、いまひとつ欲を申すならば、どなたかお手空きのかたが、北清事変当時のわが軍正式採用のサーベルの「親指や人差し指の付け根付近を完全に覆」ふところの鍔部分の画像をアップして下さるならば、わたくしには何の疑念も残らぬことでせう。失礼いたしました。

  • 2009/10/09(金) 05:24:20 |
  • URL |
  • 少年グザイ #klq26XPE
  • [ 編集]

少年グザイさん

ぐい呑みさんから詳しく説明頂いていますが、明治の廃刀令で日本刀制作が廃れたのと、高価な日本刀を軍刀用に大量生産出来なかったため、明治時代の軍刀にはサーベル式が用いられていたという事のようですが、士官クラスは日本刀や村田刀を用いていたケースも多いようなので、義和団処刑を士官が行ったのであれば、日本刀とサーベルのどちらの可能性もあるという事になります。

米軍のカウボーイハット風の帽子ですが、キャンペーンハットのクラウン部が尖った形状になったのが1911年で、堅い材質になったのが1930年代なので、時代によってかなり違いがあるようで、映画に出て来たのは時代考証で当時のスタイルを採用したという事なのではないかと思います。

ちなみに、米比戦争の1900年前後の写真でも似たような帽子をかぶっていますね。
http://www.freewebs.com/philippineamericanwar/captureofaguinaldo1901.htm

それからサーベル式軍刀の画像ですが、陸軍三十二年式軍刀 (1889) が北清事変の時代に該当するものですが、確かに護拳がついています。これが北清事変で用いられたものと同じタイプのものかどうかは分りませんが。
http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/gunto_079.htm

  • 2009/10/09(金) 12:26:46 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

ぐい呑みさん

写真1もそうですが、写真2に関しても鞘が後から書き加えられた形跡があるため、これらの写真で判断するのは難しいように思います。ただし書き加えられたと見られる鞘はカーブの殆どないものであるため、サーベル系に見えますね。

一方で写真3に関しては、一番左の人物が持っている刀は刀身と鍔の形状から日本刀に見えるような気がします。
また一番右の人物の鞘は非常に真っすぐに見えるため、これはサーベルかもしれません (「鳳凰網」掲載の写真が一番見易い)。
http://blog-imgs-27.fc2.com/r/e/d/redfox2667/20090616_c3aa9cd8fe9efce05c31SnBpGy7c0HSg.jpg

  • 2009/10/09(金) 12:27:21 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

>文太様

米軍のハットの画像ならびに日本軍のサーベル式軍刀の画像ありがたうございます。
今まで『北京の55日』は、時代考証といふ点ではたいしてあてにできまいと考へてゐましたが、日本軍を含む各国の軍装など、今度見るときは、実際の写真と比較してみようかと思つてをります。
さて、サーベル式軍刀の方のお話ですが、これはフェンシング競技用のサーベルなどと比べると、鍔が拳を覆ふ面積は案外に小さいやうに思ひました。たとへば、写真1のごとく、大上段にふりかぶつて護拳が天を向いてゐる状態を、真横から眺めるとすると、案外拳は丸見えになるのではありますまいか?つまり、「実際に斬首刑を執行したかどうかは措くとして、写真機の前で日本の将兵がサーベルでポーズを取つてみせた可能性も残す」といふのが私の見解です。どうでせうか。

  • 2009/10/09(金) 16:02:28 |
  • URL |
  • 少年グザイ #klq26XPE
  • [ 編集]

少年グザイさん

アメリカ映画は自国の時代考証はやるでしょうけれど、数年前の『パールハーバー』の例など日本軍の描写に関してはかなりいい加減で酷い例もあるので、『北京の55日』で外国の軍装に関してどこまで徹底しているかは何とも言えないですね。
実際どうなっているのか寧ろ関心があります (笑)

それから、サーベルの写真に関しては取り合えずネット見付けたものをご紹介しただけですので、これがぐい呑みさんが言及していたものと同一のものかどうかは分りません。

また、エントリー内でも書いていますが、写真1や2の場合、写真によって剣や鞘の位置 (有無) が異なるという修正の痕跡が顕著であるため、これはかなりの可能性で「撮影用のポーズ」であったであろうとは私もそのように思います。
ただし実際にこの時期に1000人規模での義和団の掃討や処刑が行われているので、写真3などの斬首死体など、その場で処刑が行われていた事自体は本物であろうとは思われます。
写真2の場合は兵士が後ろで一列に並び、その背景に何も写っていないのが不自然に見えます。

  • 2009/10/10(土) 01:29:07 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

>文太様

私には、本物の日本人将兵(さうであるとして)が、何も持たずに写真機の前でポーズをとるだらうか?との思ひがありましたので、あるかなきかの雲をつかむやうなサーベルについて、つい詮索してしまひましたが、「何も持たないでポーズをとる」理由は考へられなくもありませんネ。

つまり、「この当時の写真撮影は、カメラの前で、一定時間ぢつと動かずに居る必要があり、大上段に剣を構へたままさうすることは大変難しかつた。故に、撮影時には何も持たずにポーズして、剣をあとから(捏造の意図なしに)書き加へる必要があつた。」もちろん、第二、第三の修正は、まぎれもなく「捏造」の範疇でせうけれど。

この理屈の前提となる当時の写真機の性能については確認をとつてをりません。今のところ単なる推測です。

当該サイトの支那の斬首写真のなかで、街路の中央、馬車の轍が二本くつきりときざまれてゐる、そのまん真ん中で処刑して、そのまま死体を点々と晒してゐるらしき写真がいくつか目につきます。「道」といふ漢字のなりたちについて白川静氏は「異族の首を捧げ持つて邪を祓ひつつ道を行く象」と解しましたが、まさにそのやうな古代につらなる呪術的背景が感じられます。これは日本にないもののやうに感じますネ。

  • 2009/10/10(土) 05:21:36 |
  • URL |
  • 少年グザイ #klq26XPE
  • [ 編集]

少年グザイさん

こういう19世紀終わり頃の写真を見ていていつでも思うのが、当時の人が一体どういう常識を持ち、それが現代とどれだけ異なり、どれだけ共通しているのかという疑問です。

写真の技術に関しては、北清事変当時はロール式フイルムが既に出ており、義和団処刑で切り落とされた落下中の頭部が写っている写真などが見られる事から、この時点では露光時間はかなり短縮されているのではないかと思います。

速い動きの撮影が既に可能であった時代に、カメラの前でじっとポーズをとるという習慣が残っていたのならそれはそれで不思議ではありますが、当時まだプロの写真家には根強い人気のあった画質の高いコロジオン湿板やゼラチン乾板が現役で残っていたようなので、それらが用いられた可能性もありますね。


『Beheaded Art』には仰る通り、道路に首無し死体を数メートル置きに陳列したり、生首の入った籠を無造作に街頭に吊るしたりなど、いささか正視出来ないような酷い写真も掲載されていますね。
日本の晒し首の写真では、首を台に乗せるなど死者に対する敬意は一定は守られているように見えますが、中国の場合は同じ見せしめでもその方法はまさしくゴミ扱いでとことん死者を辱めるという事が徹底しているので、そういう点でも文化の大きな隔たりを感じますね。

  • 2009/10/10(土) 12:18:03 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

文太さん、御無沙汰しております。

今回のエントリーも大変読み応えのあるもので当時の服装から年代を特定する作業は素晴らしい探求だと思います。
それにより、『長崎』はもう完璧な間違いです。

写真1ですが、鞘を持っている男性をアップで見たところ、やはり手元が不自然でした。
角度がおかしい、注釈の写真(写真1の真ん中より左側部位)で男性のバックは壁面であり、持っているのは刀なのか分りませんが角度が鋭角になっており、ポーズであったとしても組み手が注釈写真では自然です。
絵葉書である写真1を右と左を合わせた場合、構成上剣(鞘)が鋭角であるとバランスが悪く、後から書き足したように見えます。ですから、手元が不自然になってしまっています。
剣(鞘)を右側部位に滑らかに描くことにより、一枚の一体感になります。

尚、私は以前仕事でマネキンのレイアウトをした経験上、右側の立っている人たちも不自然に思えます。目線がおかしいということです。左側の鞘を持った男と右側のインド兵の影を見ると影の角度が微妙に違いますね。
写真1のポイントは、左部位と右部位を合わせ、皆さんご指摘のとおり鞘を持った男が捏造されています。手元と鞘の関係です。

このエントリーは写真が捏造されているかどうかを検証するためだと思いますし、ネット上で多くの間違った写真、特に旧日本軍が悪いという印象操作に対し、日本人への著しい名誉を汚している訳なので今後どう対処すべきかを討論すべきだと思います。
『Beheaded Art』ブログ主には、長崎ではないので訂正を、それから「義和団の処刑」であることは明白なので歴史的事実をお知らせしたら如何でしょうか。

  • 2009/10/11(日) 12:54:14 |
  • URL |
  • mai #-
  • [ 編集]

「北京東洋人殺頭」

写真1に、どの時点で、誰によつて書かれたとも知れぬこの筆文字は、「殺頭」といふ日本人には耳慣れぬ熟語から察するに、支那語なのでせうネ。さうすると、「東洋人」といふ語も、日本語のそれとは違つて「日本人」を意味する、やや侮蔑的な(?)支那語といふことになりませうか?(専門家のご意見をうかがひたい)この筆文字のねらひとは、「支那人の蛮行を棚にあげつつ、ただひたすら日本人といふ蛮族の蛮行をあげつらふ」ことに尽きるでせうネ。

追記:「北京」といふ呼称についてもひとこと。ご存じのやうに、この城市の呼称は、政権によつて、「北京」と「北平」をいつたり来たりしてをります。詳細は「ウィキペディア」の「北京市」参照。この筆文字が「北京」を採つてゐるのは、おほざつぱに言へば、清朝時代に書かれたものと考へてよいのではないでせうか。

  • 2009/10/11(日) 17:13:10 |
  • URL |
  • 少年グザイ #klq26XPE
  • [ 編集]

maiさん

どうもご無沙汰しています。
この議論の本来の主旨は、日本人と中国人の区別もつかないような典型的な白人、恐らく歴史的な知識にもさほど関心もなく軍オタでもないただの断首マニアに、相手に反感や警戒心を抱かせないで極力分り易い方法で、これらが長崎の撮影でない事、そしてこれらが昭和の支那事変時のものではない事を伝えるための情報集めという事なので、普段は歴史や政治問題に関して強力な論客で研究家であるお三方も、その主旨に賛同して参加して頂いたので、非常によい形になったと思います。

それでこのエントリーで最初に断ってありますが、これはその目的で行った情報集めのテーマに沿った、そういった歴史に全く関心がない可能性の大きい相手に対して説明するというプロセスをデモンストレーションするというテーマを設定し、大幅に編集を行い目的に沿った内容に統一しているので、実は元の議論をそのまま転載しているという訳でもないのです。

世界の99.9999%以上の人は昭和と明治の軍装の区別すらもつかない訳であり、それでもネットで2日ほど調査すればこれ位の情報は集まるというデモンストレーションです。

今回全員で重点を置いたのは、必ず視覚的に分り易い根拠を示すという事です。
根拠を示さなければ相手は納得しないしむしろ馬鹿にしている印象を与えるというのは、世界中どこでも普通の神経と常識を持ち合わせている人相手にはそう受け取られてしまうので。
いきなり軍オタが押し掛けて来て上から目線で本筋と関係ない知識自慢の演説をしても、そんな事をしても交渉は100%失敗します (笑)


写真1のネットで見つかった方の刀で私が気になったのは、そのカーブの仕方が漫画チックな事ですね (笑) 日本刀とも違うしサーベルとも違う。一体何だこれはという話です (笑)
影に関してはある人とない人がいるので不思議な世界ですね。

このエントリーの主旨の一つは、これらの写真が昭和と混同されて海外サイトで予備知識のない外国人に対して支那事変や南京などに悪用されないかという事なので、これが明治時代の撮影という事が伝わればいいのですが。

訂正に関しては既にメールを出してありますが、今のところ反応がないので、恐らく放置サイトではないかと思います。

  • 2009/10/11(日) 22:10:04 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

少年グザイさん

確かに中国語的には「東洋人殺頭」は「東洋人」が主語になり、「東洋」とは「日本」を表すようですね。さすがです。

shātóu 殺頭
[動] 首をはねる

dōngyáng 東洋
1. [名] 東洋
2. [名] 日本のこと ~hùo (~貨) =日本製品

(岩波中国語辞典 簡体字版)

白人の欧米列強に混じってアジアの日本人が欧米と肩を並べて中国に進出して来たというのが、中華思想的には許し難いものであり、それが支那事変が拗れた遠因であり、未だに彼等が日本を恨んでいる原点になっているのだろうとは思います。

この絵葉書が出たのが恐らく当時からさほど経っていない時代なのではと思っていましたが、実際南京が首都になって北平になったのが1928年なので、いずれにしてもそれ以前と考えるのが順当でしょうね。

  • 2009/10/11(日) 22:13:03 |
  • URL |
  • 文太 #gJtHMeAM
  • [ 編集]

斬首など当り前の時代。
日本だけがしていたわけじゃない。
何も恥じることは無いし自虐的に捉える必要も無い。
日本は戦争に負けたからボロカス叩かれているだけ。

  • 2012/10/22(月) 15:43:31 |
  • URL |
  • no name #-
  • [ 編集]

写真3は義和団事件のものでもありません。
上海に移住したアメリカ人Francis E.Staffordによって清国内で辛亥革命を中心に撮影(1909-1915)されたもの中の一枚です。
写真コレクションを寄贈されたスタンフォード大学のアーカイブで確認できます。
URLにリンクしておきます。該当はimage43

  • 2019/02/09(土) 00:58:39 |
  • URL |
  • 穿ち水 #SFo5/nok
  • [ 編集]

日本軍?もどきについて書き忘れてました。
検証写真の日本軍と思わしき黒軍服兵士は八路軍集合写真以外はすべて清の新軍(新建陸軍)です。
日清戦争後、日本・ドイツを参考に階級から装備・訓練を行った西洋式軍隊で、新軍(旧名定武軍)→武衛右軍(義和団鎮圧当時)→北洋常備軍を経て、辛亥革命では革命軍の中核を担います。
設立から義和団~辛亥革命まで、他の部隊と違い他国との交戦がなく、現存する写真は対清国人のものです。
現在でも英語ウキペディアで義和団事件当時の日本軍虐殺写真として写真3が堂々使用されていた為、訂正しつつ、どれだけ間違ったキャプションで流出しているのか検索の過程でこちらに辿り着きました。
今後も自分のように、流れつく訪問者の方の正しい知識の扶助となるよう書き残させていただきます。
なお、写真1はカラー化してみたところ、右のインド兵はあきらかに輪郭が白く浮き出ることから切り張り合成と思われます。サーベルを掲げていない黒軍服は進軍兵士の装備です。

  • 2019/02/10(日) 18:30:38 |
  • URL |
  • 穿ち水 #SFo5/nok
  • [ 編集]

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