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『君が代』の話

 1980年のウィーン国立歌劇場の日本公演の冒頭で演奏された『君が代』が密かに名演として知られている。
 この日の演目のモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』の開演前に、『君が代』とオーストリア国歌『山岳の国、大河の国』が演奏された。指揮はカール・ベーム。

 国際親善的性格の強い演奏会の初日や、特に皇族・王族が招待されている演奏会で冒頭で国歌が演奏されるのは国際的な慣習だが、この日は皇族がみえていたようである。

 これは普段聞き慣れているNHKの『君が代』(恐らくNHK交響楽団) と比べると全く異質のアプローチの「ウィーン風」の『君が代』だが、ここまで崇高に情感溢れる『君が代』というのもまた一聴の価値がある。

写真:横浜の妙香寺の境内に集まった薩摩藩軍楽隊 (1870年/明治3年頃) (横浜美術館蔵/The Brass Cruise)

「君が代」&「山岳の国、大河の国」(豪華版)
ウィーン国立歌劇場管弦楽団、カール・ベーム (指揮)
1980年9月30日、東京文化会館
chieking. 『「君が代」&「山岳の国、大河の国」(豪華版)』. ニコニコ動画, 2009年02月21日 06:37.

 ウィーン国立歌劇場管弦楽団の『君が代』の演奏は一言で言えば「ひたすら丁寧」である。

 古今和歌集の短歌を用いて、雅楽師によって作られた『君が代』は全体がテンポの遅いモノリズム[>>1]による韻律であり、テクスチュア的に劇的な効果を出せる要素のない曲のため、スポーツの試合の開幕で歌われるような場合でも日本人でも上手く歌いこなすのは難しい曲だ。

 それに対して、ウィーン国立歌劇場の場合はダイナミック (強弱) 変化をかなりつけ、一音一音を伸ばす度に泣きを入れ、流さずに一音一音をはっきり発音するという、何と言うかシンプルなものに超豪華な飾り付けを施すというタイプの解釈で、何となく彼等の範疇にない種類の音楽を苦肉の策で演奏しているようにも聞こえるが、それはそれで情緒溢れる素晴らしい仕上がりになっていると思う。


 以下お馴染みのNHKの放送終了時の『君が代』。こちらは対照的に飾り付けのない朗々とした演奏である。[>>17]

NHKの君が代
hujibusa. 『NHK東京 総合デジタルテレビジョン(JOAK-DTV) 放送休止』. YouTube, 2008年10月16日.
動画削除のため差し替え(2011-4-28):koooooooooochi. 『NHK総合デジタル 高知放送局 オープニング 2011-01-17』. YouTube, 2011/01/17.
動画削除のため差し替え(2011-8-19):yumejix. 『Japanese national anthem Kimigayo 君が代』. Dailymotion, 2006/08/14.

 やはり興味深いのは、このNHKの演奏を聴けば日本語の歌詞がありありと浮かんで来るのだが、ウィーン国立歌劇場の場合はそこに日本語の感覚が存在しないのである。





本編:

『君が代』〜3つの国家制定計画

 現在の『君が代』が国歌として定着するまでに、実際に国歌として使用された『君が代』は2種類、国歌制定の計画は3種類あり、そして『君が代』の詩を用いた曲が明治時代に4曲存在していた事はそこまで広く知られている事ではないと思う。

 1999年に「国旗及び国歌に関する法律」で正式に国歌に制定されるまでは、“事実上の国歌”として明治13年 (1888) に採用されて以来1世紀以上も曖昧な位置付けのままであったが、その背景は当時の各省庁の対立が発端であったようだ。

 今回は新年企画として『君が代』の成立にまつわる紆余曲折と数種類の『君が代』に関して、動画のサンプルを交えながら書いてみようと思う。




横浜・山手公園の英海軍第10連隊第1大隊軍楽隊。この日フェントンが指導する薩摩藩軍楽隊が初めて公式に演奏を披露した。 (1870年9月7日/旧暦明治3年8月12日) (横浜開港資料館蔵/The Brass Cruise)


薩摩藩製の「第一の君が代」

 外交儀礼の場において演奏する国歌の必要が日本に生じたのは幕末の開国以降だが、慶應4年 (1868) 4月に日本に赴任した英国公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントン (John William Fenton, 1831-90) が、明治2年 (1869) のエディンバラ公の来日を機に薩摩藩軍楽隊に国歌の必要性を進言した事で、薩摩藩砲兵隊長の大山弥助 (後の大山巌) が薩摩琵琶の曲「蓬莱山」から一節を選び、フェントンが曲を作る事になったというのが定説のようである。

 当時英国領だったアイルランド出身のフェントンは[>>16]、明治2年に横浜の妙香寺で英国より楽器を調達して薩摩藩士に軍楽の指導を行ない日本初の吹奏楽団である薩摩藩軍楽隊の設立に貢献した事で知られ、「日本の軍楽隊の父」又は「日本の吹奏楽の父」と呼ばれる人物だ。[>>2]

 この初代『君が代』は明治3年 (1870) 10月2日 (旧暦9月8日) に明治天皇の天覧で越中島で行なわれた四藩操練において、薩摩藩軍楽隊 (西謙蔵指揮) によって初演奏をされている。


 この初代『君が代』は、フェントンが薩摩藩軍楽隊を指導した横浜の妙香寺で「君が代と日本吹奏楽の発祥の地」の記念として毎年演奏されている。

 以下その録画だが、これが明治3年から12年まで日本の国歌として用いられた曲である。


フェントンの君が代
日本吹奏楽指導者協会 2010年10月 妙香寺 
nekonotou. 『フェントンの君が代 The first version of Japan's national anthem』. YouTube, 2010年11月21日.


フェントンの君が代
京都大学NF企画 国境なきカルテット 2010年11月21日 京都大学
QSFnationalanthem. 『君が代 初代フェントン版 Japanese National Anthem』. YouTube, 2010年11月23日.


妹尾幸次郎の筆写 (1918)。歌詞とメロディが明らかに合っていない。(Moto Saitoh's Home Page)


フェントンの自筆の楽譜。タイトルは「Japanese National Hymn」(日本国歌) (同)

フェントンの『君が代』は当初から不評


フェントンと海軍軍楽隊隊長の中村裕庸 (楽水会/The Brass Cruise)
 この初代『君が代』は見るからに歌詞とメロディが合っていないのだが、これはローマ字で歌詞を渡されて曲を作ったフェントンが日本語を理解していなかった事に起因しているのは明らかである。

 この初代『君が代』は当時薩摩軍楽隊を初めとして関係者内でも非常に不評であり、その理由として言われているのがまず日本語を全く無視した曲である点だが、西洋風のこの曲が「日本人の声にあわず、聞いていても何の音楽かよくわからない」とも批判されていた。[>>3]

 とは言ってもそれは恐らくフェントンの手前の建前であり、この曲は機械的に文字を音符に当て嵌めた徹頭徹尾単調で無愛想なお世辞にも褒められた出来映えではなく、日本の伝統音楽の豊かな旋律と節回しに慣れていた当時の日本人から見れば「何だこれは?」という話だったのだろう。[>>4]

 実際、海軍軍楽隊隊長の中村祐庸 (すけつね) は、フェントンの機械的で単調な『君が代』に関して以下のように語っている。

フェントンの作曲は、当時英語の通訳たりし原田の歌える国訛りの曲節を聞き、日本の国風を取らんとしたるものの如く、31文字ことごとく二分音符を配したる誠に威厳なきものなりしを以って、楽長鎌田新平は他に改作を期することとし採用したるものなるに依り (『海軍軍楽隊・沿革史』より)
内藤孝敏. 『三つの君が代』 (中央公論社刊1997年1月). Cited in 音源ミュージック.

 通訳の原田宗助の「国訛りの曲節」が何を意味するのかは諸説あるが、ここでは31文字をひたすら単調なリズムに当て嵌めた事が批判されており、また当初から改作が検討されていたようである。


薩摩藩軍楽隊が母体となって明治4年 (1871) に発足した海軍軍楽隊の初期の幹部。中央が初代隊長中村裕庸。 (楽水会/The Brass Cruise)



海軍省と宮内省製の「第二の君が代」と、その双生児「さざれいし」


牛込門内雅楽稽古所で『君が代』は作られた。写真は明治4年の牛込門 (現在のJR飯田橋駅西口付近) (鹿鳴館秘蔵写真帖 (平凡社)/Wikimedia Commons)
 明治9年に、中村祐庸が海軍大臣に『君が代』の改訂を上申し、翌年フェントンは海軍省から解雇され米国に移住。
 英国式からドイツ式に改める事になった海軍軍楽隊はドイツからフランツ・エッケルト (Franz Eckert, 1852-1916) を招く。

 その4年後の明治13年 (1880) に海軍省が宮内省に正式に『君が代』の作曲を依頼し、宮内省から推薦された曲から中村祐庸 (海軍軍楽隊長)、四元義豊 (よつもとよしとよ) (陸軍軍楽隊長)[>>15]廣守 (ひろもり) (宮内省雅楽課)、そしてエッケルトの4人が宮内省雅楽課の奥好義 (おくよしいさ) が作曲した曲を選んだ。

 これが現在の『君が代』である。当時の官報では林廣守作曲とされていた。

 この君が代選定に関して元宮内庁楽長の芝祐泰氏は1958年12月に以下の興味深いエピソードを書いている。


 或る寒き宿直の夜、同宿の林廣季(当時21才)の面前にて〔奥好義により〕「二部音符」にて作曲され、廣季はその卓抜した佳作に驚き、従前の例によってその翌朝この原譜を父なる当時上席伶人であった林廣守氏に提出したところ、廣守氏もその名作なるを認めてこの新君ヶ代曲譜を受理したのである。

 総員が近親者である雅楽課では、昨夜の宿直にて奥好義が新君ヶ代を撰譜[>>5]したことやその旋律までも衆知の事となったのであるが、11月27日の撰成伺上申にも「君ヶ代」の名が出ず、伶人一同が不審に思って居る時、「フェントン作君ヶ代」の廃曲が発表され、「一等伶人林廣守撰譜」と明記された古式墨譜に書き改められた「君ヶ代」の発表を見、伶人一同大いに驚いたのである。

 この異常な事態は、兼ねてより不評であったフェントン作君ヶ代に就き熟考中であった廣守氏は好義作君ヶ代の名作なる事を認めると同時に「フェントン作君ヶ代」をこの新しい君ヶ代に替えて既に恒例となっている天長節宴会奏楽の勤めを果さんと考え、上司との交渉を経て「フェントン編君ヵ代」の廃曲という手段を執ったのである。

芝家文庫所蔵.佐藤秀夫編『日本の教育課題1 「日の丸」「君が代」と学校』(東京法令出版,1995年), 489-490. Cited in: 明治の唱歌. 『君が代撰譜の事情』. Moto Saitoh's Home Page.

 奥好義本人は『君が代』作曲のエピソードに関して以下のように語っている。

 牛込御門内雅楽稽古所の玄関側に当直していた晩の事であった。廣季氏と自分と両人で相談して作り、廣守氏の名義にしておいたもので、実際の事をいうと、その時には「君が代」の歌に譜を付けるというだけの考えで,それが国歌であるという事は知らずに作ったのであった。
ibid., 490-491.

 奥好義は、林廣守に命じられて林の長男廣季と相談しながら作ったが、複数者が作曲にあたった場合は上級者が雅楽部を代表して記名するのが雅楽部の慣例であったため林廣守の名義になったと説明している。

 作曲時期は明治11年 (1878) 10月下旬と推定されており、作曲当時の奥好義は若干21歳。



『君が代』差し替え計画

 この宮内省製の『君が代』は国歌に採用される前には、幼児教育用の保育唱歌として用いられる予定になっていた曲であり、東京女子師範学校の依頼により宮内省雅楽部の伶人らが作曲し明治10-15年に編纂された『保育並びに遊戯唱歌』 (全100曲) の第19曲に奥好義の『君が代』が、そして第55曲には東儀頼玄の『さざれいし』(詩は君が代と同一) が収録されている。

 つまりフェントンが“国歌”として曲を付け、11月3日の天長節 (天皇誕生日) 宴会奏楽で毎年恒例に演奏されていた『君が代』の詩が畏れ多くも、宮内省雅楽部によって幼児教育唱歌用に2曲も別な曲がつけられていたという不思議な事になっている。

 以下、『君が代』の双生児と言われる東儀頼玄の『さざれいし』の録音。

保育並びに遊戯唱歌 第55曲『サザレイシ』 (明治12年、東儀頼玄撰譜)
小林綾子 (歌)、芝祐靖 (箏)

*1'23"-3'19"
『誕生120年記念 君が代のすべて』より
withmarron. 『<国歌>歴史的「君が代」大全集1』. YouTube, 2008年4月11日.

サザレイシ (Moto Saitoh's Home Page)

 この『さざれいし』は、海軍省が宮内省に正式に『君が代』の作曲依頼を出した明治13年 (1880) 1月よりも1年遡る明治12年 (1879) 1月16日に上申[>>6]されている。

 林廣守はフェントンの『君が代』を廃止させる事を考えており、つまりこの時期に既に宮内省によって水面下で2曲の『君が代』が「唱歌」と称して作られていたのは、宮内省による国歌差し替え計画の布石だったという事になる。[>>7]

 同年10月29日より3日間行なわれた雅楽稽古所の楽舞及び欧洲楽の公演会では、フェントン作でなく奥好義の『君が代』が演奏されたという。この時点ではまだ西洋ハーモニーがつけられておらず、全員がユニゾン (斉奏) で『君が代』の旋律を演奏したという。

 そしてフェントンの『君が代』の廃止が発表されたのが同年11月27日の撰成伺上申である。



雅楽のメロディに西洋ハーモニーを付けた和洋折衷が『君が代』

 エッケルトが西洋式ハーモニーをつけて吹奏楽編曲をしたこの新『君が代』は、明治13年 (1880) 11月3日、天長節御宴会において宮内省雅楽部吹奏楽院によって初披露されている。

 エッケルトの自筆には1880年10月25日の日付が記され、そして明治21年 (1888) に印刷されたこの楽譜の表紙には日本語で「大日本礼式」[>>8]、ドイツ語で「日本の古代のメロディによる日本国歌/フランツ・エッケルト/宮内省音楽監督」と表記され、これが民謡を使用したエッケルトの編纂のような表記となっている。


世界一短い国歌の詩の『君が代』の吹奏楽版はわずか見開き2ページ。表紙に書かれたドイツ語は「Japanische Hymne nach einer altjapanischer Melodie / von F. Eckert. / Königlich privilegierte Musikdirektor」 (野間裕史のページ)

(吟剣詩舞音楽 on Stage)
 明治初期に雅楽師によって作られた『君が代』のメロディは、上りが「レミソラド」で下りが「レシラソミ」という壱越調の律音階で出来ている。[>>9-10]

 つまりレで始まってレで終わるこの曲は雅楽的に本来はレが中心だが、エッケルトは西洋式のハ長調としてハーモニーを付けているため[>>11]、曲の最後の部分で矛盾が生じている。

 エッケルト本人はこの矛盾に関して以下のように説明している:


フランツ・エッケルト
(badoc.egloos.com/)
 日本の国体を考えるならば『君が代』の発声たる『きみがよ』の部分は男子たると女子たると日本人たると外国人たるを問わず、二人でも三人でも十人でも百人でも、たとえ千万人集まって歌おうとも、いかほど多数の異なった楽器で合奏するにしても、単一の音をもってしたい。

 ここに複雑な音を入れることは、声は和しても何となく面白くない。日本の国体にあわぬような気がする。

 それゆえ『きみがよは』の発声にはわざと和声をつけぬことにした。発声につけぬから結びにもつけぬほうがよろしい。

内藤孝敏. 『三つの君が代』 (中央公論社刊1997年1月). Cited in 音源ミュージック.

 とは言ってもこれは建前だろう。レから始まってレで終わるメロディが実際ハ長調では終わらない訳であって[>>12]、最初と最後を単旋律のユニゾンにしたのはドイツ人のエッケルトにとって実際問題これは苦肉の策である。

 それでもこのエッケルトの判断に勝る選択はなく、それがこの「世界で唯一の雅楽の国歌」の特徴を実に上手く残している結果になっている。



世界で唯一の雅楽様式の国歌

 『君が代』はその選定から公式発表までエッケルトが関わっているため、エッケルト編曲の和洋折衷版として作られたものが公式な『君が代』であり、奥好義は元々これを唱歌として作っているため、雅楽版をオリジナルと呼ぶには語弊があるが、それでも雅楽の音階である壱越調の律音階で出来ているこの曲を雅楽で演奏するとやはりしっくり来る。

 以下、完全なる雅楽の様式で演奏した『君が代』だが、雅楽としての側面から見た『君が代』は、これは本来はハ長調ではないと想像しながら聞くと、なるほどと思える筈だ。
 日本のみならずアジアの伝統音楽には元々ハーモニーの概念はなく、ここでも最初から最後まで和音の変化というものが存在しない。

雅楽版『君が代』
宮内庁式楽部
sc1david. "kimigayo - Ancient court music-Japan National Anthem". YouTube, 2010年4月19日.

 この辺りを上手く折衷させて雅楽風にアレンジされているのが、長野五輪の開会式で演奏された『君が代』である。 これはオーケストラと雅楽の共演なので純粋雅楽ではない。

長野オリンピック開会式の『君が代』
1998年2月7日 長野オリンピックスタジアム
sasinuki. 『雅楽 君が代』. YouTube, 2010年3月29日.

[同じ演奏の開会式の映像付きの動画] (埋め込み無効)

 いかがだろうか。エッケルト版のハ長調と違って、雅楽版は最後にかけて全く違和感なく自然にレに帰結していると感じられる筈だ。




文部省製の「第三の君が代」


音楽取調掛に雇われた伶人たち~前列左から:芝葛鎮、ルーサー・メーソン、中村専、辻則承;後列:東儀彰質、上真行、奥好義 (1881-82年頃) (Moto Saitoh's Home Page)

 一方、「第二の君が代」が天長節で演奏されて1年2ヶ月後の明治15年 (1882) 1月に、文部省は音楽取調掛に対して国歌の制定を発令し、音楽取調掛は英仏独米などの国歌を研究し同年4月に4編11首の「音楽取調掛議案」を文部省に上申した。

 文部省は独自に国歌制定の立案をしていたため、海軍省と宮内省が決めた国歌に対して待ったがかかった訳だ。

 この文部省の「音楽取調掛」とは、明治12年 (1879) に設置された文部省所属の音楽教育機関[>>13]だが、 「第二の君が代」の作者である奥好義は明治14年 (1881) より音楽取調掛に雇われているなど、いささかややこしい話になっている。

 そしてその「音楽取調掛議案」の11首の詩の内訳は、 1) 神器、国旗、2) 日出処、日本武尊、蒙古来、3) 尊皇愛国を四首、4) 神功皇后、豊臣秀吉である。

 そのうち「国旗」と「日本武尊」は以下:

国旗
草木もなびく大昭代 (おおみよ) の、風は四海にみてるなり、仰ぐも高き天津日の、御旗は雲を払うなり、六大州の民草も、なとかは靡き仰がざる。我日の本は日と共に、千世万世も輝ける国

日本武尊
東の国のえみしらを、うち平げて天皇 (すめろぎ) の、大御心をなごめし、ヤマトタケルの名もしるし、その神御霊 (かむみたま) 大鳥と、なりてはばたく大空の、はてなき如く万代も、つたえざらめや今もかも

内藤孝敏. 『三つの君が代』 (中央公論社刊1997年1月). Cited in 音源ミュージック.

 結局これらの案は翌年明治16年 (1883) に文部卿以下各局長に却下され、文部省内で様々な議論を経た挙げ句に結局まとまらず、まず唱歌を整備してそこから国民に親しまれたものを国歌にしようという先送りとなり、更に正式な国歌ではなく天皇を讃える曲の「明治頌」と計画自体が変更されるなどトーンダウンした結果立ち消えになった。



文部省製の君が代は18世紀の英国音楽

 一方、文部省音楽取調掛は明治15年 (1882) 11月から明治17年 (1884) 3月にかけて『小学唱歌集』を編纂出版しているが、明治15年11月に出版された初編 (全33曲) の第23番は『君が代』の詩に別な曲がつけられたものである。

 この原曲は18世紀英国の作曲家サミュエル・ウェッベの『栄光のアポロ』(1787) で、このメロディに『君が代』の詩が更に拡大され2番まである長い詩になっている。

 明治3年より明治天皇の天長節など公式の場で演奏され、事実上の国歌として使用されていた『君が代』の詩に畏れ多くもまたもや、今度は文部省によって別な曲が、それも英国のアカペラ音楽のメロディがつけられ更に歌詞も改変されるなど、これは文部省が『君が代』を認めていないという露骨な意思表示である。

小学唱歌集 第23曲『君が代』 (明治15年)
小林綾子 (歌)、角聖子 (オルガン)

*0'00"-1'23"
『誕生120年記念 君が代のすべて』より
withmarron. 『<国歌>歴史的「君が代」大全集1』. YouTube, 2008年4月11日.

第二十三 君が代

君が代は 千代に八千代に 細石の
巖と成りて 苔の生す迄
動き無く 常磐堅磐 (かきわ) に 限りも有らじ

君が代は 千尋の底の 細石の
鵜の居る磯と 現るゝまで
限り無き 御代の栄を 祝奉 (ほぎたてまつ)

*一番は『古今集』「賀之部」読人知らず、二番は『今撰和歌集』源三位頼政詞、並びに稲垣千頴の改作。

唱歌『君が代』の楽譜。 (キュー電気)

 この『小学唱歌集』はその大半が欧米のメロディを借りて来た曲であり、そこから国歌を選ぶという案も結局は成立はしなかったが、ここには「結んで開いて」「蛍の光」「仰げば尊し」「埴生の宿」など現在でも知られている曲も多い。



第二の君が代が事実上の国歌になる


東郷尋常高等小学校の学校儀式 (明治26-28年頃、福井県) (福井県文書館)
 実際に『君が代』が世間に広く知られるようになったのは、明治22年 (1889) 12月に尋常中学校生の教材として東京音楽学校によって編集された『中等唱歌集』 (全18曲) の第一曲に掲載されてからの話だ。

 一方、明治初期に制定された祝祭日に、明治20年代に学校で式典を行なう試みがなされ明治24年 (1891) に文部省令第4号「小学校祝日大祭日儀礼規程」が制定され、そして明治26年 (1893) に小学校の祝祭日用の唱歌を編纂した「祝日大祭日唱歌」 (全8曲) が公布された。その第一曲がやはり「第二の君が代」である。
 ここでは作曲者は林廣守で、詩は「古詩」と表記されている。

 また大正7年 (1918) に施行された「海軍礼式令」において『君が代』が礼式曲と定められ、「艦船部隊の敬礼」では軍艦旗の揚卸において楽隊が『君が代』を吹奏する事、そして軍艦が天皇乗御の艦船に遇った場合には『君が代』を吹奏すると規定されている。
 そして日清戦争以降には既成事実として「第二の君が代」が国歌として用いられる事になる。


対抗とメンツの後は先送りでうやむやに

 フェントンの『第一の君が代』は陸軍には受け入れられておらず、陸軍では礼式曲にはフランス伝習の軍楽ラッパ信号「喇叭 (ラッパ) 符号 全」(1867、田辺良輔訳) の「陣営」が用いられていたが、英国式の薩摩主導で作られた国歌とその伝統を引き継いだ海軍に対して、フランス式の幕軍の伝統を引き継いだ陸軍の反発など幕末のしがらみが尾を引いていたとも言われている。
 そのためか海軍省主導の「第二の君が代」の選定には陸軍軍楽隊隊長の四元義豊が招かれている。

 一方、海軍省と宮内省作成の「第二の君が代」が当初文部省に拒絶されたのは、国歌制定は音楽を管轄している文部省が行なうべき業務であり他省が口を出す事ではないという対抗心があったと言われている。

 しかし、当時の国際状勢から国歌制定が急務であったにもかかわらず文部省が先送りをしてしまい、結局既成事実から「第二の君が代」が事実上の国歌としての位置付けになりながらも、そのまま正式に定められないままになっていたのではないだろうか。

 現在130年の歴史を持つ「第二の君が代」も既に伝統であるが、その成立時には幕末から明治維新の激動の時代の、当時は当時なりの事情の確執劇があったのである。
 そして、『君が代』の詩を選んだ大山巌は当時28歳、作曲した奥好義と林廣季は当時21歳、それを選んだ海軍軍楽隊の中村裕庸が24歳、陸軍軍楽隊の四元義豊は28歳、そして編曲のエッケルトが当時27歳と、『君が代』を生み出したのは20代の若者達だった。



君が代の詩を選んだのは戊辰戦争を戦った薩摩の砲兵隊長

 明治初期に青年雅楽師が唱歌として作った曲が、戦後は日本国内の左派や中韓辺りからは軍国主義の象徴として憎悪の対象になるという劇的な運命を辿った曲であるが、歌詞自体は天下泰平以上でも以下でもない内容である。

 この詩を選んだ大山巌は以下のように述べている:

《大山巌の談話(大正元年)》

 たまたま野津・大迫の両人が来合わしていて、・・・なるほど、我が国にはまだ国歌がない、遺憾なことだが、これは新たに作るよりも、古歌から選び出すべきであるといった。
 そのとき自分がいうには英国の国歌のごとく天壌無窮 (てんじょうむきゅう) [>>14]なるを祈り (たてまつ) れる歌を選ぶべきであると、平素愛好する「君が代」の歌を提出した・・その後如何なる手続を経て国歌を御制定なりしか、その辺のことは承知しておらぬ。

内藤孝敏. 『三つの君が代』 (中央公論社刊1997年1月). Cited in 音源ミュージック.


大山巌 (1870年頃) (直球感想文 和館)
 大山巌が『君が代』を選んだ明治2年 (1869) は幕末戦争の戊辰戦争終結の年であり、当時薩摩軍砲兵隊長だった大山自身も官軍側として鳥羽伏見や会津などの激戦地を転戦している。

 その大山が戊辰戦争終結の年に新政府の国歌に天壌無窮を祈る詩を選んだというのも意味深であり、日本史上最大の激戦の一つである会津戦争などの戦乱の場をくぐって来た薩摩藩士の率直な思いだったのかもしれない。



君が代は元々天皇奉祝の曲として作られた

 また、この「君」が何を指すのかという解釈論も盛んであるが、実際のところ英国から国歌の概念を取り入れた経緯上もあり、海軍軍楽隊隊長の中村裕庸は、国歌とは独立国の威信と隆栄と君主の威厳を表す物であり、天皇を崇敬する儀礼に用いる礼式曲だと説明しており[>>3]、実際に「第一の君が代」は天長節や天覧行事に用いられていた。

 世界中がヨーロッパの植民地となっていた帝国の時代の当時の時代背景を考えれば、東洋の島国が独立国家の威信と主権を世界に示すためにも、そして戊辰戦争や西南戦争がリアルタイムで国内状勢がまだ不安定だった日本国内においても、君主の存在を示す事は非常に大きな意味合いを持っていた訳である。

 大山が「(君主と国家の安寧を祈る) 英国国歌のごとく」というように、『君が代』とは元々天皇奉祝の曲として作られた性格が強く、歌詞をいろいろ解釈して古今和歌集では本来はそうではないと論じるのも余り意味のある事ではないのではとも思う。

 しかし王族や皇族、そして大統領などの国家元首や大使など国家を代表する人物が出席する国際式典や行事で国歌が演奏されるのは、国の代表者に対してその国の独立と主権を尊重する儀礼として現在でも国際的な慣習であり、本来国歌とはそういう物である。
 31年前に巨匠カールベームとウィーン国立歌劇場管弦楽団が非常に丁寧に崇高に『君が代』を演奏してくれたのは、これは日本に対する敬意と尊重の表れに他ならない。(了)



初代『君が代』が作られた翌年1871年5月7日に横浜で没したフェントンの妻、アニー・マリア・フェントン (享年40) は今も故郷英国から遠く離れた異国の地の横浜の外人墓地に眠っている。フェントンは渡米後も日本に戻る事を希望していたという。
写真は、フェントンが指導した日本初の吹奏楽団である薩摩軍楽隊が、1870年に初めて公に演奏を披露した横浜の山手公園。現在も当時のように洋風東屋が建っている。 (横浜探訪)




おまけ:


奥好義 (1881-82年頃)
(Moto Saitoh's Home Page)

君が代の作曲者  (おく) 好義 (よしいさ)

 黒船の時代の幕末の安政4年 (1858) に京都に生まれ、満州事変後の昭和8年 (1933) に没した日本の激動の時代を生きた『君が代』の作者の奥好義は、後に文部省の音楽取調掛を経て高等師範学校教授になった人物である。

 雅楽師であるとともに洋楽も学んだ奥は、明治初期から日清・日露戦争の時代の変化の中で祝賀曲や唱歌から軍歌まで多方面の作品を残しているが、文部省所属作曲家の立場から戦前色の強い作品が多いために現在では聴く機会は少ない。


祝日大祭日唱歌第7曲 天長節 (明治26年/1893年)
作詞:黒川真頼、作曲:奥好義
supernovagoes. 『天長節の歌 12月23日 / 祝日大祭日唱歌八曲』. YouTube, 2008年11月1日.

第一曲目に『君が代』が収録された明治26年の「祝日大祭日唱歌」では、第7曲の『天長節』も奥好義の曲である。
これは11月3日の天長節 (明治天皇誕生日) のために作られた祝祭曲。
どことなく「仰げば尊し」を思わせる西洋様式で書かれた美しい曲である。



小学唱歌 金剛石・水は器 (明治20年/1887年)
昭憲皇太后御歌、作曲:奥好義
heise96. 『小學唱歌 金剛石・水は器 (五年生)』. YouTube, 2010年2月11日.
鄭曉諭. heise96. 『金剛石・水は器 /国民学校唱歌』. YouTube, 2012/12/11.
gugomytube. heise96. 『金剛石・水は器 /国民学校唱歌』. YouTube, 2013/02/05.

小山泰生. heise96. 『金剛石 水は器』. YouTube, 2013/07/28.

明治天皇の美子皇后が明治20年3月18日華族女学校 (後の女子学習院)へ賜わった歌。現在も学習院女子中高等科で校歌として歌われている。四七抜きの明治唱歌スタイルで書かれたこちらも美しい曲。


 日清戦争 (1894-95) の最中には軍歌も作っている。

勇敢なる水兵 (明治28年/1895年)
作詞:佐佐木信綱、作曲:奥好義
ヴォーカル・フォア合唱團 金の鈴オーケストラ 内田榮一指揮 
akiraplastic3. 『勇敢なる水兵 海軍軍楽隊有志(ステレオ)』. YouTube, 2010年10月30日.
heise96. 『勇敢なる水兵 附;喇叭の響  陸・海軍競演』. YouTube, 2010年12月21日.
nack500. 『軍歌 勇敢なる水兵』. YouTube, 2010/02/10.

明治27年9月27日、日清戦争における、黄海の鴨緑江河口付近での日本艦隊と清国北洋艦隊の激戦の逸話に基づく軍歌。


婦人従軍歌 (明治27年/1894年)
作詞:加藤義清、作曲:奥好義
akiraplastic3 . 『婦人従軍歌 JOAK合唱隊』. YouTube, 2010年7月2日.
akiraplastic1931 . 『婦人従軍歌 JOAK合唱隊』. YouTube, 2011/05/24.
0klz . 『婦人従軍歌(東蓄女聲合唱團)』. YouTube, 2011/10/02.

0klz . 『婦人従軍歌(東蓄女聲合唱團)』. YouTube, 2014/02/07.

日清戦争の時代に書かれた、戦地に赴く従軍看護婦を歌った世界にも珍しい女性の軍歌。





おまけ2

小学唱歌『君が代』の原曲

 文部省が明治15年11月に出版した『小学唱歌集』に収録されている『君が代』の原曲は、以前は英国の賛美歌と言われていたり、ウェッベという作曲家が歴史上3人存在するために情報が混乱していたが、これはサミュエル・ウェッベ一世 (Samuel Webbe, 1740-1816) の『栄光のアポロ』(Glorious Apollo) が原曲である。

 これは18世紀にイギリスで盛んだった「グリー」という男声アカペラ合唱のジャンルの曲であり、グリー自体は宗教的なジャンルではなく、アポロはギリシャ神話の神であるためこれは賛美歌ではない。
 またこれは現代の「グリークラブ」(音楽ジャンルではなく合唱団の意味) と混同されたり、この曲を英国のコメディショーの「グリークラブ」の音楽と説明しているサイトもあるが、18世紀の「グリー」はそれらとは無関係。

栄光のアポロ (1787)
作詞不詳、作曲:サミュエル・ウェッベ (1740-1816)
リンデン・シュタイナー学校 南東地区五種競技大会閉会式
テネシー州ナッシュビル 2010年4月23日
Ire1016. 『Glorious Apollo』. YouTube, 2010年4月26日.

Glorious Apollo from on high beheld us, wandering to find a temple for his praise.
Sent Polyhymnia hither to shield us, while we ourselves such a structure might raise.
Thus then combining, hands and hearts joining, sing we in harmony Apollo's praise.
Here every generous sentiment awaking, music inspiring unity and joy.
Each social pleasure giving and partaking, glee and good humour our hours employ.
Thus then combining, hands and hearts joining, long may continue our unity and joy.


栄光のアポロは天から我等を見つめ、彼を賛美する神殿を探してさすらっている。
我等がその建物を建てる時に、我等を守るためにポリュヒュムニアを遣わした。
だから我等はアポロを讃えるハーモニーを、手を合わせ心を合わせて歌う。
あらゆる高潔な感情が目覚め、音楽が協調と喜びを与える。
それぞれの社交の喜びが、私達の費やす時間に歓喜と良い気分を与え、共にする。
だから我等はこの協調と喜びが続くよう、手を合わせ心を合わせて願う。

MyScoreStore.


参考サイト

    総合:
  1. 三つの君が代 (内藤孝敏)(中央公論社刊1997年1月)
  2. ♪ 明治の唱歌 ♪ (Moto Saitoh's Home Page 2007-2010)
  3. 君が代について (Trumpet Player 野間裕史のページ 2000-11-21)
  4. もう一つ(二つ)の君が代 (Jurassic Page 2002-6-12)
  5. 君が代 (とらのホームページ)
  6. 君が代誕生の謎 (郎女迷々日録 幕末東西 2008-1-29)
  7. 君が代の由来 (高原の詩)

  8. フェントン
  9. ジョン・ウイリアム・フェントンの記録 (秋山紀夫・編/music pen club 2008-9-30)
  10. 「日本吹奏楽発祥の地・記念碑」と記念演奏会について (社団法人日本吹奏楽指導者協会 東京神奈川部会)
  11. 【ヨコハマ初めて博物館】(2)君が代 英国人が作曲し、薩摩藩が演奏 (msn産経ニュース 2009-1-20)
  12. アイルランド-日本交流史 (アイルランド大使館)
  13. 国歌『君が代』発祥と妙香寺について (妙香寺)
  14. 3/9 初代「君が代」を作曲した英国人の消息調査で、日本が英紙に協力を依頼 (UK Today 2006-3-9)
  15. 横浜はじめて物語-吹奏楽 (The Brass Cruise)

  16. 日本の初期の軍楽隊の歴史
  17. 「軍楽」による西欧音楽の導入 (一風斎の趣味的生活/もっと活字を! 2007-07-13)
  18. 維新期の兵式 その5 新政府陸軍と大鳥圭介訳書 (山と蟻の間 2007-02-22)

  19. 君が代の旋律
  20. 吟詠音階の理論的考察 (吟剣詩舞音楽 on Stage)
  21. 『君が代』の旋律の話 (中津峰山如意輪寺 朝念暮念)
  22. 雅楽的音楽研究所

  23. 文部省唱歌の君が代
  24. 君が代 (Wikisource)



関連エントリー
ニセ君が代 (2008.2.9)



音楽のエントリー
『ヒール・ザ・ワールド』の話 (2009.7.18)
『イマジン』の話 (2007.12.8)





脚註:

  1. ^ モノリズム (monorhythmic):単一リズム。
  2. ^ 厳密には、安政2年 (1855) に長崎の海軍伝習所でオランダからドラム信号が、文久3年 (1863) に横浜に駐屯した英国軍が太鼓やラッパが上田藩や薩摩藩に、慶應2年 (1866) に幕府で行なわれた「フランス伝習」でラッパ伍長ギュディックから習ったラッパ信号が翌年、田辺良輔訳で『喇叭符号 全』として刊行され幕府や長州藩に伝わり実践されているが、フル編成の軍楽隊はフェントンの薩摩軍楽隊が初である。一風斎の趣味的生活/もっと活字を!. 『「軍楽」による西欧音楽の導入 』, 2007-07-13.
  3. ^
    明治9年、海軍軍楽隊隊長・中村祐庸が「独立国の隆栄と君主の威厳を表すには国歌は欠くべからざるもので、人情を感動せしむる音楽の効用は遥かに優るが、正しい声響に競合しない音楽にはその効能はない」と断じて、さらにフェントンの「君が代」は日本人の声にあわず、聞いていても何の音楽かよくわからない。あれで天皇を崇敬する儀礼の主意を失することになると真っ向から批判し、フェントン氏は帰国の期が近く校正の暇がないから、改訂委員会の手で「君が代」の音楽を修正することを提案したのである。
    Trumpet Player 野間裕史のページ. 『君が代について』.
  4. ^ 元々日本の民謡や雅楽は一文字一音符ではなく一文字でメロディが動くというスタイルは一般的であり、特に雅楽の場合は一フレーズで一文字に近い。中村祐庸にも批判されていたように、そもそもフェントンが日本語の歌の様式を知らず、日本語にメロディをつけた経験がなかったのもこの「失敗作」の原因の一つだろう。
  5. ^ 撰譜 (せんぷ):選んで記録するの意味だが、雅楽においては作曲と同じ意味。
  6. ^ 上申 (じょうしん):上の者に述べる事。この場合は撰譜 (作曲) 者から責任者に提出された日付の意味。
  7. ^ 『保育並びに遊戯唱歌』は最終的に出版されていない。
  8. ^ 日本語の題名は「礼式」、つまり「礼式曲」であるが、日本では元来「国歌」とは「和歌」を指す言葉であり、この当時は「National anthem/National hymn」の訳語として「礼式」が用いられていたという事だと思われる。
  9. ^ 壱越調 (いちこつじょう):壱越という音(D音)を基音とした雅楽における調。雅楽的音楽研究書. 『管絃の楽曲(壱越調)』.
  10. ^ 律音階 (りつおんかい)、律旋法 (りつせんぽう):主に雅楽や声明 (声明) などで用いられる五音音階のうちレミソラシの五音を基調にファとドを加えたもの。日本の雅楽においては律音階と呂音階 (ファが半音高い) が主要な音階。 吟詠音階の理論的考察. 『律音階の成り立ち』.
  11. ^ この五音音階は、「蛍の光」などのスコットランド民謡など欧州の民謡にも見られる四七抜き音階「ドレミソラ」と同じ要素であるため、エッケルトはこれをハ長調の四七抜きと解釈してハーモニーをつけたと見られる。
  12. ^ 主音で終わらない例は勿論あるが、1880年という時代に単独の短い曲、それも国歌が未解決で終わるという発想は普通は考えないだろう。
  13. ^ 音楽取調掛 (1879-87) は東京音楽学校の前身で、現在の東京芸術大学。
  14. ^ 天壌無窮 (てんじょう-むきゅう):天地とともに永遠に極まりなく続くさま。▽「天壌」は天と地。「無窮」は極まりないさま、永遠の意。
  15. ^ 「四元義豊【よつもとよしとよ】 嘉永5(1852)年~明治34(1901)年3月15日■江戸時代末期・明治期の軍人。教導団軍楽隊長、近衛師団軍楽長などを歴任し、明治軍楽の発展に貢献。 JLogos. 『四元義豊』.
  16. ^ フェントンはアイルランド生まれだが両親はイングランド人。 秋山紀夫. 『ジョン・ウイリアム・フェントンの記録』. music pen club, 2008-9-30.
  17. ^ CD『『君が代』のオーケストラ版は数種類あるようだが、聴いた感じではウィーン国立歌劇場の版は近衛秀麿編曲のNHKバージョンと同一と思われる。



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