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「大山事件」は、日中が本格的大規模戦闘状態になった1937年8月13日の第二次上海事変の4日前に起こった、日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉と斎藤與蔵一等水兵が、上海の虹橋飛行場近くで中国保安隊によって殺害された事件です。
大山勇夫中尉(海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)と斎藤與蔵 (よぞう) 一等水兵は共に上海特別陸戦隊所属で、大山中尉は西部紡績工場地帯派遣隊隊長で、派遣隊本部より視察および陸戦隊本部への連絡に向かう途上での事件とされています。 支那事変(日中戦争)拡大の大きな原因となった、1937年7月7日の盧溝橋事件と8月13日の第二次上海事変の間に起こった数々の日本人襲撃殺害事件、今回は8月9日の「大山事件」から第二次上海事変開戦にかけての英語版と中国語版ウィキペディアの記述を見てみたいと思います。 以下は現在の英語版および中国語版ウィキペディアの「大山事件」の訳です。 |
Battle of Shanghai (第二次上海事変)
(英語版ウィキペディア) より
From Wikipedia, the Free Encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Shanghai#Oyama_Incident
大山事件
8月9日に、日本海軍の大山勇夫中尉は、上海の虹橋飛行場に不法侵入を試みた[*1]が、この軍用空港の近くに配置された中国保安隊によって射殺された。大山が独断で侵入したのか、上からの命令かは未だに謎である。それはともかく[*1]大山事件は上海での緊張を高めた。それは明確に中国領侵犯であったため、日本総領事は8月10日に大山の行為に対して謝罪をしたにも関わらず[*2]、総領事は中国保安隊の撤収と市街地近辺の防衛隊を解散する事を断固として要求した[*3]。また、日本将校への発砲は帝国軍の屈辱であると総領事は表明し、わずかな挑発でも爆発しそうなシチュエーションとなった。
銃撃事件によって日本は8月10日に援軍を上海地区に送った[*4]。中国側にとっては1930年代の他の「事件」と同様に大山事件は日本による侵略の一つの口実[*5]であった。1932年の上海停戦協定への直接の違反である日本軍の動きに対し[*4]蒋介石は8月11日に上海地区に軍隊を配備し始めた。
最後の交渉努力
8月12日に列強の代表は召集され、日本は列強に対し、上海から中国軍の撤退実施を迫る事を要求した[*3]が、兪鴻鈞市長は7月7日の日本の中国侵略 [*盧溝橋事件の事] が既に協定違反であると主張した。列強は上海での外資活動を大いに阻害した「上海事変」を再び見たいとは望んでいなかった。一方、中国の市民は、市街への中国軍の駐留を熱狂的に歓迎した。
南京では中国と日本の代表が最後の交渉努力のために会合を開いた[*6]。日本側は中国に対し、上海の全ての保安隊および市街近辺からの軍隊の撤退を要求した[*3]。中国側は、既に中国北部では二国は戦闘状態にあったため、日本側の要求は一方的であると主張した。
最後に兪市長は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しないと、中国政府として認められるのはせいぜいそれ位だと断言した。一方日本は上海近辺での中国の派兵の全ての責任は中国側にあるとした。交渉は不可能であり、中国本土に戦火が飛び火する以外の選択はなくなった。
市街戦
8月13日の午前9時頃、中国保安隊は上海の閘北区、呉松区、江湾区で日本の中隊と小さな交戦をした。午後3時には日本軍は再び閘北区の八字橋を越えて市街中心地数カ所を攻撃した。中国の第88人師は迫撃砲攻撃で報復した。 散発的な発砲は続き、午後4時に日本の本部が揚子江と黄浦江に配置された海軍第三艦隊の軍艦に市内の中国軍への攻撃命令を出した。(以下略)
『戦時中の国民党中国1937-45』(ミシガン大学出版 1982年)
『上海・南京作戦に関する博士論文』(台湾国立大学)











